30.これもまた、幸せというもの
かしこまった声音で呼びかけると、長椅子の背もたれに寄りかかっていたヴォルフが、身を起こしてこちらに向き直ってきた。
「どうした、チェレスタ」
こちらも身を乗り出して、上目遣いで彼を見つめる。小さく笑みを浮かべて、思わせぶりに言葉を続けた。
「わたくしたち、もう立派な夫婦ですわね?」
質問の意味がすぐに呑み込めなかったのか、ヴォルフはきょとんとしている。
「辺境とシャルカは、平和を手に入れました。フロージュの王宮からの干渉もはねのけましたし、今後この地を守っていく手はずも整いました」
思えば、ここまで長かった。ヴォルフと親しくなりたくて悪戦苦闘したり、シャルカが攻めてきたり。とどめに、兄たちの相手をするはめになったし。
「わたくしたちはこの地に来てから、ずっと忙しくしていましたけれど、そろそろひと息ついてもいいころ合いだと思いますの」
「そうだな」
どうしてわたくしがこんな話をしているのか分からないといった顔ながら、彼はすぐにうなずいてくれた。ふふっ、本当に優しい方。
「でしたらこの機会に、別の責務を果たしませんこと?」
「責務……何かあっただろうか」
「……あなたに会ったその日の夜に、同じことを話したのですけれど……」
ちょっぴりすねたような表情を作って、小声でつぶやく。
ヴォルフはあわてた様子で、視線をさまよわせ始めた。懸命に、記憶をたどっているらしい。
やがて、彼の視線がぴたりと止まる。その顔が、みるみる赤くなった。あ、思い出したみたいですわね。
「い、いや、それは……」
「あらまあ旦那様ったら、真っ赤ですわ」
旦那様、のところをちょっぴり強調して発音したら、ヴォルフが目をむいた。彼にしては珍しいことに、思いっきり動揺している。
ただ、それも当然ではある。わたくしが口にした別の責務、それは……ずっと使っていなかったあの寝室で、ふたり一緒に過ごすことだから……って、あら? なぜか、わたくしも顔が熱く……?
「その……」
彼はこちらを見ないまま、か細い声でささやいてきた。おかげで、わたくしが動揺していることには気づかれずに済んだ。
「責務から逃げるつもりは、ない。ただ、私の心の準備ができるまで、もう少し待ってもらえるだろうか」
誠実さを感じさせる正直な言葉に、心臓がことりと跳ねる。
「貴女が愛おしい、その思いに偽りはない。だが、実際に貴女に触れるとなると……どうしていいか……」
恥じらいつつ、つっかえつっかえながらも、彼はそう言ってくれた。声はどんどん小さくなり、最後のほうは耳を澄ませていないと聞こえないくらいだったけれど、それでも確かに言った。
愛おしい、ですって。ああ、嬉しい!
辺境伯夫婦としての義務についてもう一度持ちかけてはみたものの、たぶんまたはぐらかされるのだろうなと思っていた。
一連の騒動を経て、わたくしとヴォルフの間にも確固たる絆が生まれていた。けれどヴォルフがとびきりうぶな人だということも、悲しいかな確信してしまっていた。ちょっとやそっとではその守りを崩せそうにはないなと、そう感じていたのだ。
だから、こんなに前向きな返答をもらえるなんて、思ってもいなかったのだ。
「はい、待っていますわ!」
感極まってしまったせいで、ついうっかり彼に抱きついてしまう。ヴォルフが、びくりと身をこわばらせた。
一度、離れたほうがいいのかしら。でもせっかくだから、もう少しだけ……。
「しまった、急ぎの書類が残っているのを思い出した。すまないが、これで失礼する」
見事なまでに裏返った声でそう言うと、彼はいきなり立ち上がって速足で去ってしまった。
あら、逃げられてしまいましたわ。急ぎの書類なんてないはずですのに、言い訳が下手ですわね。
でも、もう焦る必要はなさそうですわ。もう少しだけ待っていれば、きっと願いはかなう。
ううんと大きく伸びをして、秋の日差しをいっぱいに浴びる。せっかくだからもう少し、ここでのんびりしていきましょう。
そのままぼんやりとしていたら、しばらくしてヘクターとザイ、それにマリアンが、連れ立ってやってきた。
「あれ、チェレスタ様だ」
「こんなところで、ひとりか?」
「珍しいのね」
最近、この三人はよくつるんでいる。護身術や馬の乗り方、それにシャルカの民の暮らしを学びたがっているマリアンに、ふたりがあれこれと教えているのだ。
きちんと座り直して、三人に笑いかける。
「さっきまで、ヴォルフ様もおられたの。でも、逃げられてしまって」
「えっ、逃げられちゃったんですか?」
「そういえばさっき、彼をちらりと見かけたな。気のせいか、耳が赤かったが」
「……チェレスタ、あなた……ヴォルフ様と何かあったの?」
不思議そうな顔をしている三人に、さらりと答えた。
「少々迫ってみただけですわ」
「迫った? あなたが、ヴォルフ様に? どうしてそんなことを……」
マリアンが、きょとんとした顔でさらに尋ねてきた。これは、正直に話してしまったほうがいいのかもしれない。少々、恥ずかしくはあるけれど。
「その、わたくしたち、未だに白い結婚のままですから……そろそろ、夫婦らしいことを、って……」
改めて口にしたら、予想より遥かに恥ずかしかった。思わずうつむくと、マリアンのあきれたような声がした。
「ああ、そういうことなのね……」
「ヴォルフ様、いつまで経っても奥手なんですねえ。チェレスタ様と仲良くなって、さすがに慣れてきたかと思ってたんですけど。そういうところ、変わらないなあ」
マリアンとヘクターは、すぐに事情を察したらしい。ただ、フロージュ流の持って回った言い回しに慣れていないザイが「白い結婚とはなんだ」と首をかしげていた。すぐにヘクターが彼の耳に口を寄せて、こそこそとささやいている。
話を聞いているザイの眉間に、ぐっとしわが寄った。みるみるうちに、しわが深くなっていく。
「状況は理解できた。しかし、妻から逃げるというのはおかしいだろう。我らシャルカでは、いくじなしと呼ばれてもおかしくないふるまいだ」
するとヘクターが、苦笑を顔いっぱいに浮かべた。
「ヴォルフ様は、腰抜けってあだ名がついても気にしてなかったから、今さらかな……」
「なんだそれは? そんなあだ名とはほど遠い存在だというのに、よく分からない人物だ」
「そこが、ヴォルフ様のいいところでもあるんだよ」
ヘクターがそっと言葉を添えたけれど、ザイは少しも納得していないようだった。腕を組んで考え込み……やがて、ぽつりとつぶやいた。
「よし、捕まえにいこう」
「何を?」
「もちろん、ヴォルフをだ」
ザイがそう言って、懐から縄を出した。片方の端を握り、もう片方をヘクターに差し出している。……さては、以前アルフレッドを捕らえた、あれをやるつもりですわね。
「うーん、ヴォルフ様を捕まえたいのはやまやまなんだけど、僕たちにできるかな? アルフレッド様は隙だらけだったから楽勝だったけどさ」
「確かに、ヴォルフには隙がない。しかし、隙がないのなら作ればいい」
それを聞いたマリアンが、ぽんと手を叩いている。
「ザイの言うとおりね。そういうわけだから、チェレスタも来てもらえる?」
言うが早いか、彼女はわたくしの腕に自分の腕をしっかりとからめてきた。
「あの、お姉様、どうしてわたくしが?」
「ヴォルフ様に隙を作るには、あなたがいたほうがいいから」
反論することすらできず、そのまま三人に連れられて城の中に戻る。……マリアン、いつの間にこんなにたくましくなったのかしら。たくましくなりすぎだわ。
角を曲がると、廊下の先のほうにヴォルフの姿が見えた。ゆったり歩いていた彼が、ばたばたという足音に振り返る。
きょとんとしている彼に向かって、急いで叫んだ。
「ヴォルフ様、逃げてくださいまし!」
さすがに、夫が縄で巻かれているところは見たくない。……たぶん。
わたくしの言葉を聞いたヴォルフが、すぐにこちらに背を向けて走り出す。事情は理解できていないようだけれど、さすがは元騎士団長、判断が早い。
「あっ、逃げた!」
「追うぞ!」
しかしそれでむきになったのか、ヘクターとザイも本気で追いかけ始めた。わたくしとマリアンはあっという間に引き離されてしまう。
「いけない、早く追いつかないと……」
「お姉様、どうしてそんなにやる気なんですの?」
少年ふたりが本気になっているのは、まあ分かる。彼らにとってヴォルフは格上の相手だから、自分たちの力で勝ってみたいという思いがあるのだろう。
でもマリアンまで乗り気なのは、少々理解できなかった。
「だって、あなたたちのおかげで、今のわたしがあるんだもの。恩返しをしたいのよ」
わたくしの腕をしっかりと捕まえたまま、マリアンは晴れやかに笑う。
「わたしね、辺境に来てよかった」
「……そうですわね」
彼女がこんなふうに笑えるなんて、王宮にいたころは想像もできなかった。感慨深さに、自然と笑みが浮かぶ。
すると今度は、外から叫び声が聞こえてきた。
「いたぞ、こっちだ!」
「お前たちは、裏に回り込め!」
「逃がすなよ!」
その声に、マリアンと顔を見合わせる。
「……ねえ、お姉様。人数、増えてません?」
「増えてるわ。……しかも今、ケイナ様の声もしたような……」
首をかしげつつ、外に出てみる。城の前の広場に、騎士たちとシャルカのみんなが集まっていた。その間を、ヴォルフが器用に逃げ回っている。
みんな一生懸命で、そして楽しそうだ。飛び交う声も、とても明るい。やっていることはめちゃくちゃなのに、どうにも和やかな空気が辺りには漂っていた。
……辺境行きが決まったときは、こんなことになるなんてかけらほども思っていなかった。
辺境の草原を、国境の向こうのシャルカの地を見られればいいなと、ひそかにそう期待してはいただけだ。
それがまさか、大切な夫とたくさんの仲間と過ごせるなんて。しかも、フロージュとシャルカの人々が親しく笑いあっていられるさまを見られるなんて。
「まるで、夢を見ているようですわね」
派手に騒いでいるみんなを見ながら、こっそりとつぶやく。と、縄で巻かれたヴォルフが、みんなに背中を押されてつんのめりながらわたくしの前に進み出てきた。
腕が動かせないせいで、さすがの彼も転びそうになっている。とっさに抱き留めたら、彼が小さく笑った気配がした。
「夢ではない。現実だ。これからもずっと、私たちの幸せな日常は続いていく」
どうやら先ほどの独り言が、聞こえてしまっていたらしい。けれどわたくしの胸にこみ上げてきたのは、恥ずかしさよりも、さらなる喜びだった。
「ええ、ずっと」
しっかりと寄り添うわたくしたちを、たくさんの拍手の音が祝福してくれた。まるで結婚式の一幕のようだと、ふとそう思った。
旦那様が縄で縛られているのがどうにもしまらないけれど、でもこれはこれで、わたくしたちらしいのかもしれない。
大きく笑みを浮かべて、彼の体に回した腕に力を込めた。ずっとずっと、そばにいます。そんな思いを、伝えるように。
ここで完結です。
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