第61話 それぞれの準備
翌朝、紗良はいつもと同じ時間に目を覚ました。
昨夜、相希から言われた言葉が残っている。
直人は、ああなったら梃子でも動かない。
結衣と話した時には、二人と一緒に行こうと決めた。
共同体を離れることへの迷いも、結衣が取り除いてくれた。
それでも、直人には理由を聞かれる前に拒まれた。
相希も、紗良の味方をして直人を説得してはくれなかった。
自分が行くかどうかは、相希が決めることではない。
それも分かる。
ただ紗良は、直人と相希と自分の三人で行けるものだと、どこかで当たり前のように思っていた。
二人にとっては、そうではなかった。
旅立つのは、最初から直人と相希の二人。
自分は黒田や高瀬たちと同じように、ここへ残る側だった。
「紗良、これ運ぶの手伝ってくれる?」
声を掛けられ、紗良は顔を上げた。
「うん。今行く」
考えを胸の奥へしまい、いつもの仕事へ戻った。
直人も、昨日までと変わらなかった。
誰かと薪の置き場所を確認し、別の者と罠のことを話している。
紗良と目が合えば、普段と同じように声を掛けた。
直人は、紗良が同行を諦めたと思っている。
皆の前でそれ以上言い返さなかったのだから、話は終わったのだと考えているようだった。
「水場で何かあったら、紗良たちも一緒に考えてくれると思う」
話し合いの中で、直人が何気なく口にした。
紗良たち。
その言葉の中に、自分と相希は含まれていない。
直人に悪意はなかった。
だからこそ、紗良は何も言えなかった。
直人の中では、自分が残ることは、もう決まっているのだ。
出発へ向けた準備は、その日から始まった。
戸田は相希のそばに座り、水や食料の保管について何度も確認した。
「この容器は、どのくらいで見た方がいい?」
「日が当たらない場所なら、今までと同じでいい。ただ、匂いが変わったら使わない方がいい」
「次は?」
「干している肉を先に確認する。奥の分は、まだ触らなくていい」
戸田は一つずつ覚えようとしていた。
高瀬は罠を見に行く者たちと、今後の回り方を話している。
黒田の周りには、不安を口にする者が集まった。
誰か一人が答えを出すのではなく、分かる者同士で話し、必要なら全員で決める。
うまくいくかは分からない。
それでも共同体は、二人がいなくなることを前提に動き始めていた。
相希は旅に持っていく物を選んでいた。
保存した食料。
水を運ぶための容器。
刃物や紐、火を起こすための道具。
何をどれだけ持っていくのか、直人は細かく尋ねなかった。
相希が必要だと判断したものなら、それでいい。
そう考えていることが、二人の様子から伝わってきた。
相希も、直人へ確認を求めなかった。
必要なものを選び、使いやすいように分け、黙々と準備を進めている。
二人の間には、言葉にしなくても成立するものがあった。
それを見ていると、自分が同じ場所にはいないことを、紗良は改めて思い知らされた。
翌日になると、共同体の動きはさらに変わった。
女性たちは、紗良が間に入らなくても互いに声を掛け合っていた。
食料を分ける者。
干している物の状態を確かめる者。
誰が水を汲みに行くのかを相談する者。
以前なら紗良へ尋ねていたことも、自分たちで話し、決めている。
結衣のことも、男と女の間で起きたことも、なくなったわけではない。
誰もが以前と同じように相手を信じられるようになったわけでもなかった。
それでも、生活は続いている。
紗良がいなくなれば、困ることはあるだろう。
寂しいと思ってくれる者もいるかもしれない。
けれど、自分がいなければ何もできない場所ではない。
何かあったら、残った人たちで何とかする。
それは残る側が考えることだ。
結衣の言葉が、少しずつ現実のものとして見えてきた。
共同体を離れることへの罪悪感は、以前よりも小さくなっていた。
それでも、直人に拒まれたことは残っている。
自分だけここを離れてもよいのか。
初めに抱えていた迷いは、もう違う形へ変わっていた。
二人に望まれていなくても、自分は行くのか。
直人と相希と一緒にいたい。
けれど、自分を同行する者として見ていない二人の間へ、無理に入ろうとしているだけなのではないか。
その夜、紗良は少し離れた場所から二人を見ていた。
直人と相希は、出発後に進む方角を確かめているようだった。
相希が地面を指し、直人がその先を見る。
二人が見ているものを追うように、紗良も森の方角へ目を向けた。
そして、人工物を見つけた時のことを思い出した。
土の中から現れた、自然には作れないもの。
誰が作ったのか。
どれほど前から、あの場所にあったのか。
なぜ土の中へ埋まっていたのか。
その先にも、何かが残されているのか。
知りたいと思った。
直人や相希が何かを言うより前に、紗良自身がそう思っていた。
共同体へ戻ったあと、三人で話したことも思い出す。
あれを作った者が、ほかにも何かを残しているかもしれない。
今もどこかに、別の人間がいるかもしれない。
自分たちが元いた時代と、何かの形で繋がっている可能性もある。
もしそうなら、元の場所へ戻る手掛かりになるかもしれない。
あの時、紗良は二人の話を聞いていただけではなかった。
自分から疑問を口にし、二人と一緒に可能性を考えていた。
この場所が何なのか、自分も知りたいと思っていた。
それなのに、いつの間にか考え方が変わっていた。
二人についていけば、自分も答えを知ることができる。
そう思うようになっていた。
もし二人に連れていってもらえなければ、自分はあの先を知ることまで諦めるのだろうか。
その夜、答えは出なかった。
けれど、二人と一緒にいたい気持ちと、自分自身が真相を確かめたい気持ちが、初めて別々のものとして見え始めた。
出発を翌日に控えると、共同体の空気は再び変わった。
保存食を分ける者がいた。
道具を補修する者もいた。
使えそうな布や紐を差し出す者もいる。
旅立ちに反発していた者まで、何も言わずに道具の状態を確かめていた。
納得したわけではないのだろう。
それでも、二人が途中で死ぬことを望んでいる者はいなかった。
「途中で死ぬなよ」
高瀬が直人へ言った。
「分かってる」
「お前の分かってるは信用できないんだよ」
高瀬はそう言いながら、直した道具を直人へ押しつけた。
戸田は、相希への確認をまだ終えられずにいた。
「もし雨が何日も続いたら?」
「薪を濡らさないことを優先する。食料は今の場所ならすぐには駄目にならない」
「水場が使えなくなった時は?」
「前に見つけた方を使う。ただ、一人では行かない方がいい」
戸田はうなずき、また次の質問を考えている。
聞きたいことが尽きないのではない。
話を終わらせたくないのだと、紗良にも分かった。
黒田は、まとめられた荷物の近くにいる直人へ声を掛けた。
「準備はできたか」
「うん」
黒田は一度だけうなずいた。
それ以上、何も言わなかった。
日が暮れ、共同体が静かになっても、紗良は眠れなかった。
直人と相希は、明日の朝ここを出る。
二人と一緒にいたい。
その気持ちは、今も変わっていない。
けれど、それだけが理由なら、直人に拒まれた時点で諦めるしかない。
二人に連れていってもらうことが目的だから。
人工物の正体を知りたいと思ったのは、自分だった。
三人で話した時、自分も答えを求めていた。
その気持ちは、直人に許されなかったからといって消えるものではない。
二人についていくのではない。
自分も、自分の意思であの先へ行く。
紗良はゆっくりと起き上がった。
直人をもう一度説得するつもりはなかった。
相希にも、答えを伝えない。
行ってよいかと尋ねれば、自分の行き先を、また二人へ委ねることになる。
皆が眠ったあと、紗良は自分の持ち物を集め始めた。
自分で用意できるだけの水。
保存していた食料。
刃物と、火を起こすために使えそうなもの。
布と紐。
最低限の身の回りの物。
相希のように、必要な量を正確に考えることはできない。
共同体の備蓄を、勝手に多く持ち出すこともできない。
これだけでは足りないかもしれない。
それでも紗良は、一つずつ荷物へ入れていった。
背後で、わずかに物音がした。
振り返ると、結衣が立っていた。
腕には、布で包んだものを抱えている。
「……」
結衣は何も尋ねなかった。
紗良の隣へ座り、抱えていた包みを開く。
中には、保存食や布、紐、小さな道具が入っていた。
紗良には、一つひとつに見覚えがあった。
誰かが作っていた保存食。
別の女性が使っていた布。
丁寧に直された紐。
どれも、一人が用意したものではない。
「これ……」
「みんなから」
結衣は、それだけ答えた。
紗良は結衣を見る。
「私が話したの。紗良も一緒に行くかもしれないって」
結衣は、包みの中から保存食を取り出した。
「私たちだけでも大丈夫なようにしておこうって。それから、もし紗良が行くって決めた時は、困らないようにしようって」
紗良は何も言えなかった。
この数日、女性たちが自分たちだけで動いていた理由を、ようやく理解した。
紗良に気づかせるためではなかった。
自分たちだけでも生活を続けられるようにするため。
そして、紗良が自分たちを心配して残らなくても済むようにするためだった。
結衣は、それ以上説明しなかった。
紗良も尋ねなかった。
二人は黙って準備を始めた。
保存食を布で包む。
水を入れた容器が動かないよう、周りへ別の布を巻く。
紐を通し、紗良が背負えるように荷物の形を整える。
しばらくすると、紗良の視界が滲んだ。
手元が見えづらくなっても、手は止めなかった。
向かいにいる結衣も、俯いたまま紐を結んでいる。
布の上へ、雫が落ちた。
お互いに、相手が泣いていることへ気づいていた。
それでも何も言わず、準備を続けた。
荷物をまとめ終える直前、結衣が自分の持ち物へ手を伸ばした。
取り出したのは、細い布紐だった。
以前、切れかけていたところを、紗良が結び直したもの。
結衣が大切に使い続けていたことを、紗良は知っている。
結衣は、その布紐を差し出した。
「はい、これ」
紗良はすぐには受け取れなかった。
「でもこれ、結衣が大切にしてたやつ……」
結衣の目には、もう涙がいっぱいに浮かんでいる。
それでも、泣かないように笑ってみせた。
「失くしたら許さないからね?」
紗良も、溢れそうになる涙を堪えながら、両手で布紐を受け取った。
「ありがとう。大切にするね」
二人で、その布紐を紗良の荷物へ結んだ。
結び目が緩まないように確かめる。
もう手を加える場所がないほど、何度も荷物を整えた。
やがて、すべての準備が終わった。
手を動かして誤魔化すものは、もう残っていない。
紗良と結衣の目が合った。
結衣は、涙で濡れた顔のまま笑おうとした。
「……頑張ってね、紗良」
その一言で、紗良が堪えていたものが崩れた。
「結衣……」
結衣の顔も、同じように崩れる。
「紗良……」
どちらからともなく手を伸ばし、二人は強く抱き合った。
紗良は結衣の肩へ顔を埋める。
結衣も、紗良の背中へ腕を回した。
声を抑えようとしても、震える息と嗚咽が漏れた。
二人の押し殺した泣き声は、静まり返った夜の中へ、わずかに響いていた。
遠くまでは届かない。
けれど、未遂事件が起きてから近くで眠るようになった女性たちの寝床には、十分に聞こえていた。
誰も起き上がらなかった。
眠っている者もいたかもしれない。
けれど、その多くは目を閉じたまま、眠ったふりをしていた。
声を掛ければ、紗良はまた自分たちを心配する。
だから誰も、二人だけの別れへ入ろうとはしなかった。
結衣と紗良が何を話したのか、そのすべてが聞こえたわけではない。
それでも、二人が離れることを悲しみながら、それを受け入れようとしていることは、抑えきれない泣き声だけで伝わった。
目を閉じたまま涙を流す者がいた。
布を顔まで引き上げる者もいた。
誰も声を上げなかった。
ただ小さな寝床の中で、紗良を送り出す寂しさだけが、結衣と紗良の涙から、女性たちへ静かに広がっていった。




