第20話「3月の終わりと、桜の前」
3月の後半になって、桜が咲き始めた。
学校の正門横に桜の木が2本あった。毎年この時期になると咲いて、入学式の頃にはもう散っていた。高校時代の記憶の中で、ちゃんと見たことがなかった気がした。今年は意識して見た。
白くて、少し薄いピンクで、風が吹くたびに花びらが舞った。
38歳の目で見ると、桜は違って見えた。若い頃は「きれいだな」くらいにしか思わなかったが、年を取ると「今年も見られた」という感覚が加わる。毎年当たり前に咲いているようで、自分がそこにいるかどうかは当たり前じゃない。そういうことが、歳を取るとわかってくる。
今年の桜は、格別だった。
2005年の秋に戻ってきて、冬を越えて、春が来た。友人たちが少しずつ動き出した。キョンとの距離が少しずつ縮まった。それを見ながら、桜が咲いた。
そういう春だから、格別だった。
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春休みに入る前の最後の週、終業式があった。
ホームルームで成績表が配られた。この学期の成績は、全体的に上がっていた。経済学を意識して勉強するようになってから、特に社会と数学の理解が深まっていた。
担任の橋本先生から「成績が上がったな、柳」と言われた。
「ありがとうございます」
「3年に向けて、いいペースだ。推薦の条件を維持できるように、このまま続けろ」
「続けます」
「あと、会長の仕事が増えるが、無理するな。キャパを超えたら早めに言え」
「わかりました」
橋本先生は基本的に短い言葉しか使わない人だったが、その分一言一言の重みがあった。
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終業式が終わった放課後、4人で集まった。
駅前のファミレスに入って、ドリンクバーを頼んで、テーブルを囲んだ。春休みに入る前の、いつもの感じだった。
「今学期どうだった」とユースケが言った。
「まあまあ」とバータが言った。「外部受験の学校、2校に絞った」
「どこ?」と俺は聞いた。
「経営学部がある国立と、もうひとつは私立の商学部。どっちも実際に行きたい場所だ」
「オープンキャンパス行ったか?」
「春に行こうと思ってる。日程調べてる」
「一緒に行くか」
「ほんとに来てくれるの?」
「もちろん」
バータが少し照れたような顔をした。大柄の体が、こういうとき少し縮んで見えた。
「ユースケは?」とフミが聞いた。
「英語、だいぶ形になってきた。リスニング、最初はほとんど聞き取れなかったのに、毎日やったら少し変わってきた」
「どのくらい変わった?」と俺は聞いた。
「前は3割くらいしかわからなかったのが、今は6割くらいわかる気がする」
「それは成果が出てる。6割わかれば会話の流れは掴めるから、あとは語彙を増やすと上がる」
「わかった。春休みも続ける」
「体の方はどうだ」
「それを聞くのか、また」
「大事なことだから聞く」
「睡眠は取ってる。飯も食ってる。お前に言われてから、気をつけてる」
「よし」
「お前、本当に体調のこと気にするな」
「気にする理由がある」
「何の理由だよ」
「将来のことを見通してる人間として、お前の体は大事だ」
「意味がわからない言い方だな」
「まあいい。続けてくれ」
フミが弁当箱を持ってきていた。ファミレスに弁当を持ち込んでいる。フミらしかった。
「フミ、奨学金の結果は?」
「今週、書類を出した。結果は来月」
「手続きは問題なかったか」
「お前が教えてくれた通りにやったから、問題なかった」
「よかった。通ると思うけど、結果が来たら教えてくれ」
「わかった」
フミが少し俺を見た。
「リュウ、お前、本当に何者なんだ」
「16歳だよ」
「そうは見えないことが多い」
「よく言われる」
「もうそれが答えみたいになってきたな」
バータが笑った。ユースケが「本当だよ、リュウって謎が多い」と言った。
「謎は謎のままでいい」と俺は言った。
「哲学的な言い方をするな」とフミが言って、弁当のから揚げを口に入れた。
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春休みの最初の週、バータのオープンキャンパスの下見に付き合った。
電車で40分ほどの国立大学のキャンパスを2人で歩いた。春休み中だったから学生は少なかったが、キャンパスの雰囲気はわかった。
広い芝生があって、建物が古くて、桜並木があった。
「いいところだな」とバータが言った。
「そうだな。規模もちょうどいい」
「ここで学べたら、なんか違う気がする」
「受かればいい話だ。受かるために今から動く」
「経営学って、どんなことを学ぶんだ?」
「会社の仕組みとか、お金の動かし方とか、組織をどう動かすかとか。経済学と重なる部分もあるが、より実践的なことを学べる」
「起業に使えそうか」
「使える。大学で学んだことを直接使えるかどうかは別として、考え方の枠組みができる。それが一番の財産になる」
「枠組み、か」
「物事を整理する方法が身につく。それがあると、どんな問題に当たっても、まず整理してから考えられる」
バータがキャンパスの中を歩きながら、少し考えた。
「リュウって、枠組みがしっかりしてるよな。話してるとき、いつも整理されてる感じがする」
「経験から来てるものもある」
「高校生でそんな経験あるのか」
「まあな」
「謎のままの答えだな、それ」
「そういうもんだ」
バータが笑った。でも今日は少し真剣な目もあった。
「リュウ、俺が本当に起業できると思うか?」
「思う」
「根拠は?」
「バータには人を動かす力がある。そういう人間がビジネスをやると、人が集まってくる。それが起業で一番必要なものだ」
「人を動かす力なんて、俺にあるか?」
「ある。カラオケで場の空気を変えたのもバータだったし、グループの中で誰かが落ち込んでるとき、最初に声をかけるのもバータだ。みんな、バータがいると話しやすくなってる」
バータが少し黙った。
「そんなに見てたのか」
「見てた。ずっと見てた」
「……ありがとな、リュウ」
「礼はいい。受かってから礼を言え」
バータが「うっせ」と笑った。
桜並木の下を2人で歩いた。花びらが散っていた。
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春休みの後半、キョンからメールが来た。
『暇? ちょっと付き合ってほしいとこがある』
『どこ?』
『近くの手芸店。新しい生地を見たくて』
前回のクリスマスの百貨店の生地コーナー以来だった。キョンが「また行こう」と言っていたのが、ようやく実現する形だった。
『行く。何時?』
『昼過ぎ。駅前で1時どう?』
『わかった』
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手芸店は、駅から歩いて10分ほどの場所にあった。小さな店で、生地のロールが天井近くまで積み上げられていた。ウールやコットンやリネンが色別に並んで、奥に行くほど種類が増えた。
入った瞬間、キョンの歩き方が変わった。これはいつものことだった。好きなものがある場所に来ると、キョンは自分のペースになる。周りに合わせる感じがなくなる。
俺はその後ろをついて歩いた。
邪魔しないで、でもそこにいる。先日のオープンキャンパスのときと同じポジションだった。
「これ、いい」とキョンが言って、濃い青のウールを手に取った。
「どんなものを作るんだ、それで」
「コート。今度こそちゃんと作りたくて。前に生地は買ったけど、まだ作ってなくて」
「難しいか?」
「難しい。パターンを引くのが一番難しくて、今まで何回も失敗した。でも、専門学校に行ったらちゃんと習えると思うから、今は練習として挑戦してみる」
「失敗してもいいんじゃないか。練習なんだから」
「そうなんだけど、なんか、うまくいかないと悔しくて」
「悔しいのはいいことだ」
「どうして」
「悔しいから次もやる。悔しくなければ、やめてしまう」
キョンが生地を持ったまま、少し俺を見た。
「リュウって、失敗することに対して、あんまり怖がらない感じがする」
「失敗は情報だから」
「情報?」
「どうすればうまくいかないかがわかった、ということだ。それを知ってるのと知らないのでは、次の精度が変わる」
「なんかビジネスの人みたいなこと言うな」
「経済学を勉強してるから」
「そういうことか」
キョンが生地をもう一枚手に取った。今度は明るいベージュのウールだった。
「2枚買うのか?」
「迷ってる。こっちはもう少し簡単なものを作れるから、コートの前の練習台にちょうどいいかなって」
「じゃあ両方買えばいい」
「高い」
「今ではなくていい。次に来たときにどちらかにすればいい」
「今日が決め時かと思ってたけど」
「決め時は自分で作るものだ。今日が決め時と思うなら、今日に両方買えばいい」
「背中を押してる?」
「どっちでもいいと思ってる。キョンが決めることだから」
キョンが少し考えて、結局、濃い青のウールだけにした。
「コートを先に挑戦することにした」
「そうか」
「難しい方から始めた方が、うまくなる気がして」
「それも正解だと思う」
「失敗しても、情報だから?」
「そうだ」
キョンが少し笑った。
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店を出て、近くの公園のベンチに座った。
3月の午後で、光が長くなっていた。桜が咲いていた。人がちらほら写真を撮っていた。
「来週から3年だな」とキョンが言った。
「そうだな」
「なんか、急な感じがする」
「1年半が経ったんだから、急じゃないけど」
「でも急な感じがする」
「3年で同じクラスになる」
「うん」
「専門学校の試験は秋か?」
「10月か11月に。学校によって違う」
「夏から本格的に対策が要るな」
「そうだと思う。どう準備すればいいか、まだよくわかってなくて」
「一緒に調べよう。筆記と実技がある学校が多いから、それぞれ対策が違う」
「また付き合ってくれるのか」
「当然だ」
キョンが少し俺を見た。桜の光が横から差していた。
「リュウ、3年になったら忙しくなるんじゃない? 生徒会長だし、受験もあるし」
「忙しくはなる。でも、キョンのことに使う時間は減らさない」
「なんでそんなに言い切れるの」
「優先順位の問題だから」
「私が優先順位が高いってこと?」
「そうだ」
「また困ることを」
「本当のことだから」
キョンが少し下を向いた。手に持った手芸店の袋を、両手で持ち直した。
「ねえ、リュウ」
「ん」
「春休みが終わったら3年で、また毎朝一緒になるじゃない」
「なる」
「楽しみ」
「俺も」
「……なんか、今年は去年より違う気がする」
「どう違う?」
「去年の春は、一緒に電車に乗るのが普通のことで、特に何も思ってなかった。でも今年の春は、なんか、楽しみにしてる」
「それは変化じゃないか」
「変化、か」
「MDで聴いてた曲が、冬から春に変わっていく話だって言ってたよな」
「言った」
「今のキョンが、そうなってる気がする」
キョンが少し顔を上げて、俺を見た。
「うまいこと言うな」
「思ったことを言っただけだ」
「ずるいよ、それ」
「ずるくない」
「ずるい。でも」
「でも?」
「嬉しい」
今度は「かもしれない」がつかなかった。
「嬉しい」とだけ言った。
俺は少し前を向いた。桜が風に揺れていた。花びらが2枚、ベンチの前に落ちてきた。
「ありがとう、言ってくれて」と俺は言った。
「なんでお礼を言うの」
「嬉しいと言ってくれたから」
「それにお礼を言うのか」
「言う」
キョンがしばらく黙った。桜を見ていた。
「ねえ、リュウ」
「ん」
「今年中にちゃんと言うって、言ってたよね」
「言った」
「忘れてないよね」
「忘れるわけない」
「そっか」
「待ってるのか」
「……待ってる」
「わかった」
「待てるって言ったし、待てる。でも、たまに確認したくなる」
「確認していい。何回でも」
「忘れないから確認する」
「してくれ」
キョンが少し笑った。
「変な関係だよね、私たち」
「変か?」
「変だよ。告白もされてないのに、告白するって言われてて、それを待ってるって」
「予告したからな」
「普通しないよ、予告なんて」
「今回だけの特別だと言った」
「言ってたね。卒業式の日に」
「覚えてるか」
「全部覚えてる」
「俺も全部覚えてる」
キョンが俺を見た。
「全部って、何から何まで?」
「キョンが右のイヤホンを最初に渡してきた日から、今日まで、全部」
「……それはすごい」
「すごくない。覚えていたいから覚えてる」
「覚えていたいって、なんで?」
「大事だから」
キョンがまた下を向いた。袋を持ち直した。桜の花びらがまた落ちてきた。
「3年になったら、毎朝よろしく」とキョンが言った。
「よろしく」
「MDも続けるから」
「楽しみだ」
「アーティスト名、もう知ってるけど」
「知ってても、一緒に聴きたい」
「また言う」
「また言う」
2人で少し笑った。
桜が舞っていた。3月の最後の週、2005年11月3日からの4ヶ月半が終わろうとしていた。
来週から3年生。
ちゃんとした告白は、まだ先だ。でも、今日の「嬉しい」は、確かに受け取った。
春が来た。
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*(第21話へつづく)*




