表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/20

第20話「3月の終わりと、桜の前」


 3月の後半になって、桜が咲き始めた。


 学校の正門横に桜の木が2本あった。毎年この時期になると咲いて、入学式の頃にはもう散っていた。高校時代の記憶の中で、ちゃんと見たことがなかった気がした。今年は意識して見た。


 白くて、少し薄いピンクで、風が吹くたびに花びらが舞った。


 38歳の目で見ると、桜は違って見えた。若い頃は「きれいだな」くらいにしか思わなかったが、年を取ると「今年も見られた」という感覚が加わる。毎年当たり前に咲いているようで、自分がそこにいるかどうかは当たり前じゃない。そういうことが、歳を取るとわかってくる。


 今年の桜は、格別だった。


 2005年の秋に戻ってきて、冬を越えて、春が来た。友人たちが少しずつ動き出した。キョンとの距離が少しずつ縮まった。それを見ながら、桜が咲いた。


 そういう春だから、格別だった。


---


 春休みに入る前の最後の週、終業式があった。


 ホームルームで成績表が配られた。この学期の成績は、全体的に上がっていた。経済学を意識して勉強するようになってから、特に社会と数学の理解が深まっていた。


 担任の橋本先生から「成績が上がったな、柳」と言われた。


 「ありがとうございます」


 「3年に向けて、いいペースだ。推薦の条件を維持できるように、このまま続けろ」


 「続けます」


 「あと、会長の仕事が増えるが、無理するな。キャパを超えたら早めに言え」


 「わかりました」


 橋本先生は基本的に短い言葉しか使わない人だったが、その分一言一言の重みがあった。


---


 終業式が終わった放課後、4人で集まった。


 駅前のファミレスに入って、ドリンクバーを頼んで、テーブルを囲んだ。春休みに入る前の、いつもの感じだった。


 「今学期どうだった」とユースケが言った。


 「まあまあ」とバータが言った。「外部受験の学校、2校に絞った」


 「どこ?」と俺は聞いた。


 「経営学部がある国立と、もうひとつは私立の商学部。どっちも実際に行きたい場所だ」


 「オープンキャンパス行ったか?」


 「春に行こうと思ってる。日程調べてる」


 「一緒に行くか」


 「ほんとに来てくれるの?」


 「もちろん」


 バータが少し照れたような顔をした。大柄の体が、こういうとき少し縮んで見えた。


 「ユースケは?」とフミが聞いた。


 「英語、だいぶ形になってきた。リスニング、最初はほとんど聞き取れなかったのに、毎日やったら少し変わってきた」


 「どのくらい変わった?」と俺は聞いた。


 「前は3割くらいしかわからなかったのが、今は6割くらいわかる気がする」


 「それは成果が出てる。6割わかれば会話の流れは掴めるから、あとは語彙を増やすと上がる」


 「わかった。春休みも続ける」


 「体の方はどうだ」


 「それを聞くのか、また」


 「大事なことだから聞く」


 「睡眠は取ってる。飯も食ってる。お前に言われてから、気をつけてる」


 「よし」


 「お前、本当に体調のこと気にするな」


 「気にする理由がある」


 「何の理由だよ」


 「将来のことを見通してる人間として、お前の体は大事だ」


 「意味がわからない言い方だな」


 「まあいい。続けてくれ」


 フミが弁当箱を持ってきていた。ファミレスに弁当を持ち込んでいる。フミらしかった。


 「フミ、奨学金の結果は?」


 「今週、書類を出した。結果は来月」


 「手続きは問題なかったか」


 「お前が教えてくれた通りにやったから、問題なかった」


 「よかった。通ると思うけど、結果が来たら教えてくれ」


 「わかった」


 フミが少し俺を見た。


 「リュウ、お前、本当に何者なんだ」


 「16歳だよ」


 「そうは見えないことが多い」


 「よく言われる」


 「もうそれが答えみたいになってきたな」


 バータが笑った。ユースケが「本当だよ、リュウって謎が多い」と言った。


 「謎は謎のままでいい」と俺は言った。


 「哲学的な言い方をするな」とフミが言って、弁当のから揚げを口に入れた。


---


 春休みの最初の週、バータのオープンキャンパスの下見に付き合った。


 電車で40分ほどの国立大学のキャンパスを2人で歩いた。春休み中だったから学生は少なかったが、キャンパスの雰囲気はわかった。


 広い芝生があって、建物が古くて、桜並木があった。


 「いいところだな」とバータが言った。


 「そうだな。規模もちょうどいい」


 「ここで学べたら、なんか違う気がする」


 「受かればいい話だ。受かるために今から動く」


 「経営学って、どんなことを学ぶんだ?」


 「会社の仕組みとか、お金の動かし方とか、組織をどう動かすかとか。経済学と重なる部分もあるが、より実践的なことを学べる」


 「起業に使えそうか」


 「使える。大学で学んだことを直接使えるかどうかは別として、考え方の枠組みができる。それが一番の財産になる」


 「枠組み、か」


 「物事を整理する方法が身につく。それがあると、どんな問題に当たっても、まず整理してから考えられる」


 バータがキャンパスの中を歩きながら、少し考えた。


 「リュウって、枠組みがしっかりしてるよな。話してるとき、いつも整理されてる感じがする」


 「経験から来てるものもある」


 「高校生でそんな経験あるのか」


 「まあな」


 「謎のままの答えだな、それ」


 「そういうもんだ」


 バータが笑った。でも今日は少し真剣な目もあった。


 「リュウ、俺が本当に起業できると思うか?」


 「思う」


 「根拠は?」


 「バータには人を動かす力がある。そういう人間がビジネスをやると、人が集まってくる。それが起業で一番必要なものだ」


 「人を動かす力なんて、俺にあるか?」


 「ある。カラオケで場の空気を変えたのもバータだったし、グループの中で誰かが落ち込んでるとき、最初に声をかけるのもバータだ。みんな、バータがいると話しやすくなってる」


 バータが少し黙った。


 「そんなに見てたのか」


 「見てた。ずっと見てた」


 「……ありがとな、リュウ」


 「礼はいい。受かってから礼を言え」


 バータが「うっせ」と笑った。


 桜並木の下を2人で歩いた。花びらが散っていた。


---


 春休みの後半、キョンからメールが来た。


 『暇? ちょっと付き合ってほしいとこがある』


 『どこ?』


 『近くの手芸店。新しい生地を見たくて』


 前回のクリスマスの百貨店の生地コーナー以来だった。キョンが「また行こう」と言っていたのが、ようやく実現する形だった。


 『行く。何時?』


 『昼過ぎ。駅前で1時どう?』


 『わかった』


---


 手芸店は、駅から歩いて10分ほどの場所にあった。小さな店で、生地のロールが天井近くまで積み上げられていた。ウールやコットンやリネンが色別に並んで、奥に行くほど種類が増えた。


 入った瞬間、キョンの歩き方が変わった。これはいつものことだった。好きなものがある場所に来ると、キョンは自分のペースになる。周りに合わせる感じがなくなる。


 俺はその後ろをついて歩いた。


 邪魔しないで、でもそこにいる。先日のオープンキャンパスのときと同じポジションだった。


 「これ、いい」とキョンが言って、濃い青のウールを手に取った。


 「どんなものを作るんだ、それで」


 「コート。今度こそちゃんと作りたくて。前に生地は買ったけど、まだ作ってなくて」


 「難しいか?」


 「難しい。パターンを引くのが一番難しくて、今まで何回も失敗した。でも、専門学校に行ったらちゃんと習えると思うから、今は練習として挑戦してみる」


 「失敗してもいいんじゃないか。練習なんだから」


 「そうなんだけど、なんか、うまくいかないと悔しくて」


 「悔しいのはいいことだ」


 「どうして」


 「悔しいから次もやる。悔しくなければ、やめてしまう」


 キョンが生地を持ったまま、少し俺を見た。


 「リュウって、失敗することに対して、あんまり怖がらない感じがする」


 「失敗は情報だから」


 「情報?」


 「どうすればうまくいかないかがわかった、ということだ。それを知ってるのと知らないのでは、次の精度が変わる」


 「なんかビジネスの人みたいなこと言うな」


 「経済学を勉強してるから」


 「そういうことか」


 キョンが生地をもう一枚手に取った。今度は明るいベージュのウールだった。


 「2枚買うのか?」


 「迷ってる。こっちはもう少し簡単なものを作れるから、コートの前の練習台にちょうどいいかなって」


 「じゃあ両方買えばいい」


 「高い」


 「今ではなくていい。次に来たときにどちらかにすればいい」


 「今日が決め時かと思ってたけど」


 「決め時は自分で作るものだ。今日が決め時と思うなら、今日に両方買えばいい」


 「背中を押してる?」


 「どっちでもいいと思ってる。キョンが決めることだから」


 キョンが少し考えて、結局、濃い青のウールだけにした。


 「コートを先に挑戦することにした」


 「そうか」


 「難しい方から始めた方が、うまくなる気がして」


 「それも正解だと思う」


 「失敗しても、情報だから?」


 「そうだ」


 キョンが少し笑った。


---


 店を出て、近くの公園のベンチに座った。


 3月の午後で、光が長くなっていた。桜が咲いていた。人がちらほら写真を撮っていた。


 「来週から3年だな」とキョンが言った。


 「そうだな」


 「なんか、急な感じがする」


 「1年半が経ったんだから、急じゃないけど」


 「でも急な感じがする」


 「3年で同じクラスになる」


 「うん」


 「専門学校の試験は秋か?」


 「10月か11月に。学校によって違う」


 「夏から本格的に対策が要るな」


 「そうだと思う。どう準備すればいいか、まだよくわかってなくて」


 「一緒に調べよう。筆記と実技がある学校が多いから、それぞれ対策が違う」


 「また付き合ってくれるのか」


 「当然だ」


 キョンが少し俺を見た。桜の光が横から差していた。


 「リュウ、3年になったら忙しくなるんじゃない? 生徒会長だし、受験もあるし」


 「忙しくはなる。でも、キョンのことに使う時間は減らさない」


 「なんでそんなに言い切れるの」


 「優先順位の問題だから」


 「私が優先順位が高いってこと?」


 「そうだ」


 「また困ることを」


 「本当のことだから」


 キョンが少し下を向いた。手に持った手芸店の袋を、両手で持ち直した。


 「ねえ、リュウ」


 「ん」


 「春休みが終わったら3年で、また毎朝一緒になるじゃない」


 「なる」


 「楽しみ」


 「俺も」


 「……なんか、今年は去年より違う気がする」


 「どう違う?」


 「去年の春は、一緒に電車に乗るのが普通のことで、特に何も思ってなかった。でも今年の春は、なんか、楽しみにしてる」


 「それは変化じゃないか」


 「変化、か」


 「MDで聴いてた曲が、冬から春に変わっていく話だって言ってたよな」


 「言った」


 「今のキョンが、そうなってる気がする」


 キョンが少し顔を上げて、俺を見た。


 「うまいこと言うな」


 「思ったことを言っただけだ」


 「ずるいよ、それ」


 「ずるくない」


 「ずるい。でも」


 「でも?」


 「嬉しい」


 今度は「かもしれない」がつかなかった。


 「嬉しい」とだけ言った。


 俺は少し前を向いた。桜が風に揺れていた。花びらが2枚、ベンチの前に落ちてきた。


 「ありがとう、言ってくれて」と俺は言った。


 「なんでお礼を言うの」


 「嬉しいと言ってくれたから」


 「それにお礼を言うのか」


 「言う」


 キョンがしばらく黙った。桜を見ていた。


 「ねえ、リュウ」


 「ん」


 「今年中にちゃんと言うって、言ってたよね」


 「言った」


 「忘れてないよね」


 「忘れるわけない」


 「そっか」


 「待ってるのか」


 「……待ってる」


 「わかった」


 「待てるって言ったし、待てる。でも、たまに確認したくなる」


 「確認していい。何回でも」


 「忘れないから確認する」


 「してくれ」


 キョンが少し笑った。


 「変な関係だよね、私たち」


 「変か?」


 「変だよ。告白もされてないのに、告白するって言われてて、それを待ってるって」


 「予告したからな」


 「普通しないよ、予告なんて」


 「今回だけの特別だと言った」


 「言ってたね。卒業式の日に」


 「覚えてるか」


 「全部覚えてる」


 「俺も全部覚えてる」


 キョンが俺を見た。


 「全部って、何から何まで?」


 「キョンが右のイヤホンを最初に渡してきた日から、今日まで、全部」


 「……それはすごい」


 「すごくない。覚えていたいから覚えてる」


 「覚えていたいって、なんで?」


 「大事だから」


 キョンがまた下を向いた。袋を持ち直した。桜の花びらがまた落ちてきた。


 「3年になったら、毎朝よろしく」とキョンが言った。


 「よろしく」


 「MDも続けるから」


 「楽しみだ」


 「アーティスト名、もう知ってるけど」


 「知ってても、一緒に聴きたい」


 「また言う」


 「また言う」


 2人で少し笑った。


 桜が舞っていた。3月の最後の週、2005年11月3日からの4ヶ月半が終わろうとしていた。


 来週から3年生。


 ちゃんとした告白は、まだ先だ。でも、今日の「嬉しい」は、確かに受け取った。


 春が来た。


---


*(第21話へつづく)*

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ