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30 早朝の港にて

 明け方、隣室の窓を開ける物音でアルスラーダは目覚めた。リベリオを起こさないように静かに窓を開けると、アールファレムと目が合った。

 挨拶しようとすると、アールファレムは人差し指を唇の前で立ててから、港の方向を指差した。

 アルスラーダは素早く身支度を済ませ、部屋の外に出た。アールファレムは髪をそのままに、フード付きの外套を羽織っていた。アルスラーダはアールファレムにフードを被せると、連れ立って朝の散歩に出掛けた。


「寒いな。海の近くだと一段と冷える」


 アールファレムは、外套の襟をしっかり寄せ合わせた。

 アルスラーダはアールファレムの手を握り、何でもない風を装いながら港へと向かった。

 あまり会話が弾まないまま、無人の港へと到着した。空が明らみ始め、朝を迎えようとしていた。


「早く目が覚めてしまったんだ。起こしてすまなかった」


 アールファレムはアルスラーダの手のぬくもりを感じながら、ぎゅっと握る手に力を込めた。


「謝らないで下さい。むしろ一緒に散歩出来て嬉しいぐらいです」

「アルス、いい機会だ。……話しておきたい事がある。父上の話だ」

「メフェウス様ですか?」


 アルスラーダは声の調子を落とした。メフェウスにはいい印象がない。


「ああ。私とはあまり仲が良くなかったのは覚えているだろう」


 随分、控え目過ぎる表現だろう。メフェウスの態度は一見無関心に見えるが、内実アールファレムを憎んでいたのは、アルスラーダの目から見ても明らかだった。


「実は家を出る時に、私の事を嫌う理由を聞いたんだ。予想はしていたが血が繋がっていないんだ」

「それでもあの仕打ちは納得出来ません。アルファ様に罪はないでしょう」

「母上は暴行されたそうだ。私はその結果産まれたらしい」


 アルスラーダは言葉も出なかった。あの優しかったミデアにその様な過去があったとは想像も出来なかった。ミデアはアルスラーダの事も、実の子同然に可愛がってくれた。最期はアールファレムをよろしくと、ルーヴェルとアルスラーダに託して亡くなった。あの時、二人は今まで以上にアールファレムを守る事を誓ったのだ。

 おそらくルーヴェルは全ての事情を知っているだろう。自分とルーヴェルの歳の差は二才だが、いつまでたっても埋まらないのは、自分の器が小さいせいだろう。アルスラーダが本当に倒すべき敵は、シルヴィンではなく、ルーヴェルなのだろう。無論、敵の意味は全く異なる。シルヴィンは殺したい敵、ルーヴェルは乗り越えなくてはいけない敵だ。

(本当に殺したいのはシルヴィンなのか? 不甲斐ない自分じゃないのか?)

 自問自答したが、いつもアルスラーダを導いてくれるルーヴェルはここにいない。それにいつまでも頼る訳にはいかなかった。

(自分で考えろ。アルファ様の笑顔を守る為なら、なんだって出来る筈だ)

 アルスラーダの心中も知らず、アールファレムは、アルスラーダにもたれ掛かりながら、静かな海面を眺めていた。

 アルスラーダはずっと握っていた手をほどくと、アールファレムの頭に手を載せ、優しい手付きでゆっくりと撫でた。


「打ち明けて下さってありがとうございます」

「ルドルフ達と会う前に言っておきたかったんだ。リベリオがいたから中々機会がなかったんだ」


 メフェウスと血が繋がっていないなら、ルドルフとイグナーツは完全に他人になる。まったく似ていない従兄弟など、珍しくもなかったので、今まで気にも留めていなかったが、似る筈がない。

 考え事をしながらも、アルスラーダはアールファレムの頭を撫で続けた。人目もなかった為、フードを外し、直接柔らかい髪質の感触を楽しんだ。昔からアールファレムは頭を撫でられるのを好んだ為、アルスラーダとルーヴェルは癖になっていた。アールファレムは気持ちよさそうに目を細めた。まるで猫のように可愛らしく、アルスラーダは部屋に閉じ込めて自分だけのものにしたくなったが、その様な真似が許される筈もない。愛しさが込み上げてきて、口付けがしたくなったアルスラーダは、アールファレムの様子をそわそわと窺い出した。


「初めての口付けはアルスがよかったな」


 アルスラーダの心を読んだ訳ではないだろうに、急にその様な事を言い出した。昨日のアルスラーダ、そしてシルヴィンとの事を思い出したのだろう。


「犬に咬まれたと思って忘れればいいんですよ。昨日が初体験と思えばいいんです」

「……初体験って、なんか卑猥に聞こえる」


 アールファレムは顔を赤らめ、アルスラーダと少し距離を置いた。


「いやらしい意味はないですよ」


 慌てて否定したが、自分でも言ってて嘘臭かった。何せ下心がないとは言い切れないアルスラーダである。


「ふふふ。いやらしい意味はなかったのか」


 アールファレムは自分の唇を指でなぞった。その仕草は艶っぽく、アルスラーダは思わず下唇をなめ、唾をごくりと飲み込んだ。


「でも昨日、誘ったのはアルファ様の方ですよね」


 アルスラーダは意地悪な言い方をして、アールファレムを後ろから抱き締めた。


「大胆な真似だったのは認めるさ。旅先で浮かれていたのかな」


 アールファレムは力を抜き、アルスラーダに身を委ねた。どれほど潮風が冷たくても、寒さは感じられなかった。


「いつでも大歓迎ですよ」

「そういう事を言うなよ。恥ずかしくなるから」

「人前では出来ませんからね。今だけは私だけのアルファ様でいて下さい」


 アルスラーダはアールファレムの頭に、優しく唇を押し当てた。頭から感触が伝わりアールファレムは呼吸が速くなった。急に呼吸の仕方が分からなくなり、アルスラーダにばれないように離れようとしたが、アルスラーダの拘束は強く身動き出来なかった。


「ア、アルス。ちょっと苦しい」


 アルスラーダが名残惜しくも力を緩めると、アールファレムは手の届かないところまで逃げてしまった。


「何も逃げなくてもいいじゃないですか」


 アルスラーダは、のばした手の行きどころに困り、情けない表情を浮かべた。

 アールファレムはこちらを振り返り、にっこりと微笑んだ。


「少し歩こうか」

「はい」


 手を握る勇気も出ないまま、アルスラーダはアールファレムの後を追い、並んで歩いた。

 沢山の倉庫が建ち並び、中にはマイヤール商会の看板が掲げられた倉庫が何軒もあった。


「本当に幅広くやっているな。今では我が国で一番でかいんじゃないか」

「そうでしょうね。マイヤールは、まだ無名時代のアルファ様に投資するほど先見の明を持った商人です。今回も彼は役に立ってくれるでしょう。商売拡大する為に張り切っていましたからね」

「最初はどうなるかと思ったが、なんとかなったな。……アルス、なにか鳴き声がしないか?」


 言われてみれば、確かに微かな鳴き声が聞こえてきた。


「こちらの路地からです」


 路地を覗き込むと、薄汚れた子犬が、箱に入っていた。汚い服が敷いてあり、どうやら捨て犬の様だった。子犬はこちらに気付くと、箱から懸命に這い出ると、アールファレムに駆け寄った。アールファレムが頭を撫でると、気持ち良さそうに尻尾を振った。


「お前どうしたんだ? 捨てられたのか?」


 アールファレムが軽々と抱き上げると、子犬はアールファレムの鼻を舐めた。アルスラーダは嫌な予感がして、アールファレムから子犬を取り上げた。


「アルファ様。連れ帰るとか仰らないですよね」


 アルスラーダは子犬を地面に下ろすと、手で追い払う仕草をした。子犬はクゥーンと鳴き、アールファレムの足元にじゃれついた。


「首輪が付いていない。どう見ても一人ぼっちで可哀想じゃないか」


 アールファレムは再度子犬を抱き上げると、アルスラーダから守るように背中を向けた。


「一緒にいくか?」


 アールファレムの問い掛けに、理解した訳ではないだろうが、わんと鳴いて返事した。


「だそうだ。アルス宿に帰るぞ。まずは御風呂だな。綺麗に洗ってやるからな」


 アルスラーダは予想外の同行者の出現に、顔をしかめた。こうなったアールファレムを止めるのが不可能なのは経験上分かっている。

 宿に連れ帰り、アルスラーダは子犬を風呂に入れてやった。アールファレムにさせる訳にはいかなかった。宿の主人は迷惑そうな顔をしたが、追加料金を支払うと言うと、途端に態度を変え、餌と水まで用意してくれた。

 真っ白な短い毛並みの犬で、くるんと丸まった尻尾とつぶらな瞳が愛くるしかった。


「お前、本当は白かったのか。苦労したんだな。お腹が空いているだろう」


 水と餌を与えると瞬く間に平らげ、満足そうに鳴いて見せた。


「お腹いっぱいになってよかったな。よし若旦那を紹介しよう」


 アールファレムは子犬を抱き上げて、二階に上がった。部屋に入ると、リベリオはまだ寝ていた。まだ早い時間なので無理もなかったが、幸せそうな寝顔を見て、アールファレムの悪戯心が刺激された。子犬を枕元に下ろして、様子を窺った。

 子犬はリベリオの顔をくんくんと嗅ぐと、顔を舐め出した。


「くすぐったいな。よせよー」


 リベリオは半分寝ぼけながら、右腕を上げて子犬を追い払おうとした。だが感触がなんだかおかしいので、がばっと起き上がった。


「うんっ……? うわっ! 何だこいつ、犬?」


 急に動いたリベリオの動きに、びっくりした様子の子犬だったが、アールファレムに再び抱き上げられ、嬉しそうに尻尾を振って見せた。アルスラーダが羨ましそうに、子犬を見ているのにリベリオは呆れた。


「どこからきたんだ?」

「港で拾った。可愛いだろう」


 アールファレムは子犬を、リベリオの膝の上に乗せた。



「拾った? お前はやりたい放題だな」


 リベリオは抱き上げて性別を確認した。


「雄のようだな。名前は決めたのか」

「まだだな。どうしようか?」


 アールファレムは子犬の頭を撫でながら、考え込んだ。


「よし決めた! ジークだ。お前の名前はジークだぞ」

「ふむ。このちびがジークねぇ。とてもじゃないが、勝利をもたらしてくれそうには見えんな」


 リベリオには名前負けして見えたが、アールファレムが納得しているなら口出しする事ではない。


「ジーク、よろしく頼む」


 利口なジークは、わんっと鳴いて返事して見せた。


「可愛い奴だな。連れて帰りたくなった」

「駄目だ! ジークはうちの子だ」


 アールファレムがまたまたジークを抱き上げようとしたので、アルスラーダがジークを取り上げた。


「はいはい。ジーク、誰にでも尻尾を振るんじゃない。お前はアルファ様の犬なんだ。分かったか」


 わんとジークは尻尾を振りながら答えた。


「賢いのか馬鹿なのか分からんな。飼い主とよく似てやがる」

「馬鹿な子ほど可愛いというだろう」


 アールファレムは親馬鹿全開で、ジークを撫でた。


「朝から港に二人でいったのか? いやらしいな」


 リベリオはアルスラーダを肘でつついた。


「早く目覚めただけだ。何もなかったぞ。アルファ様、少し早いですが朝食にしましょう」

「そうだな。ジーク、お前は先程食べたからな。留守番出来るか?」


 勿論、留守番など出来る筈もなく三人に付いていくジークである。


「捨て犬だったからな。今後は寂しい思いはさせないからな」

「釣りはともかく、昼からは連れていく訳にはいかんだろう」

「大丈夫だと思うがな」

「預かってもらいましょう」


 アルスラーダが無難な意見を述べた。

 食堂にジークを連れていった為、問題が起きた。宿主には了承を得ていた為、同行させるのに苦情は出なかった。アールファレムの膝上で、大人しく座らせていたのだが、問題は女給達だった。アールファレムはいうに及ばず、他の二人も美形である。

 本人達は知らないが、昨夜の給仕でも女給達の間で取り合いになっていたのである。それが今日は子犬付きだ。美形と小動物の組合せは、女給からすれば話し掛ける絶好の好機と言えた。

 戦いを制したのは、古参の女給ロッテだった。若い女給達の騒ぎがあまりに見苦しいので、自分が行く事で場を収めたのだ。ロッテは平常心で給仕しようと心掛けていた。長年この仕事をしていて、たかが美形ぐらいで動揺するなどロッテの矜持が許さなかった。

 三人を視界に入れると、ロッテの矜持は儚く崩れた。昨夜は遠目に見ていただけで、これほど容姿端麗とは思わなかったのだ。しかも三人ともとなると、奇跡である。

 震えそうになる声を抑えつつ、子犬を抱いてる青年に声を掛けた。近くで見ても整った顔は染み一つなく、長い睫毛は女性と見紛うほどである。


「可愛いらしい子犬ですね。昨夜はお部屋で留守番させていたんですか?」

「申し訳ない。今朝、港で捨てられているのを見付けたんだ。食堂に犬を連れ込むなど、非常識なのは分かってはいるんだが、まだ一人にするのは可哀想でね。大人しくさせておくから見逃してくれないかな。ジーク分かっているな」


 優しい手付きで頭を撫でてやると、ジークはわんと鳴き、アールファレムの膝の上で気持ち良さそうに、じっとしていた。


「お優しいんですね。迷惑なんてとんでもないです。ジークが素敵な飼い主に出会えてよかったです」


 ロッテがジークの頭を撫でると、ぱたぱたと尻尾を振り、アールファレムは優しげに微笑んだ。

 ロッテは腰が砕けそうになるのを懸命にこらえた。後ろから悲鳴が起きていたが、ロッテの耳には雑音は入らなかった。


「いつまで滞在なさいますか?」

「明日までは世話になるかな。それ以降はまだ未定だ」

「私でお役に立てる事があれば何でもお申し付け下さい」

「ありがとう。名前はなんというのかな。私はフィリップだ」

「ロッテと申します。フィリップ様」

「ロッテ、短い間だが、よろしく頼む」


 そのやり取りをリベリオは、冷ややかな目で見ていた。


「子犬を利用するとは、卑怯じゃないか。ジーク、次からは俺の膝に来るんだぞ」

「お前の方が卑怯だろうが!」


 アルスラーダは反射的に、リベリオの頭を叩いた。


「下心が見え見えなんだよ。私はジークを見逃してもらう為に、丁重にお願いしただけだ」


 自分の笑顔の価値を自覚してやっているのだから、中々あざといアールファレムであった。

 三人と一匹は釣り道具を宿屋で借りると、港に向かう前に、ジーク用の赤い首輪と犬用ブラシを購入した。


「真っ白だからな。赤い色がよく似合う」


 すっかり飼い犬らしくなったジークが、三人の足元にじゃれ付きながら、ようやく港に到着した。早速、釣糸を垂らし誰が一番か競争しだした。

 まずアルスラーダの釣竿に、当たりがきた。本人よりアールファレムとリベリオが色めきたち、期待を込めて見守るなか、とても小さな魚を釣り上げた。


「はっはっは。フィリップ、俺がお前の分も釣ってやるからな。よしよし、ジークの分も任せなさい」


 リベリオは俄然張り切ったが、釣りはやる気だけでどうにかなるものではない。次に反応があったのはアールファレムの釣竿だった。


「これはっ! 大きいぞ!」


 釣竿の先が大きくたわみ、アルスラーダもアールファレムを支えた。


「きたー!」


 大きい魚が水面に顔を出し、二人がかりで釣り上げた。


「ふっふっふ。若旦那、これより大物は難しいんじゃないかな」

「まだまだ時間はたっぷりあるわ!」


 その後は、順調に釣果を上げ、結果は数ではリベリオ、大きさではアールファレムと、双方満足出来る結果に終わった。

 ジークは魚相手に唸ったり、跳ねた水に驚いたりと、忙しかった。何よりも冷えてきたら、皆ジークを抱いて暖をとった。小さいながらも、大活躍していた。

 アルスラーダはというと、アールファレムより数が多くなる前に釣りをやめ、ジークにブラシをかけてやっていた。何だかんだいっても、世話を焼いてしまうのが、アルスラーダの性分だろう。

 今いる釣り場は大変見晴らしがよく、人が近付けばすぐに気付く事が出来た。四人組の男が明らかにアールファレムらを目指して近付いてきた。遠目では分からなかったが、視認できる距離にくると、アールファレムは眉間を寄せた。その内二人は見知った人物だったからだ。不審人物だからではなく、何故彼らが一緒に、そしてこの場に現れたのか訝しんだからだ。


「さてはアルス、何か知っているな」


 今思えば、昨夜のアルスラーダはやや不自然だった。遊びを優先させるなど帝都にいたなら考えられなかった。

 アルスラーダはすまなさそうに、頭を下げた。そしてマイヤールがイグナーツを連れてきた意味を考えた。どうやら事態は悪い方に進んでいるらしい。


「お久しぶりでございます。……外ではフィリップ様とお呼びした方がいいですね」

「イグナーツ、久しぶりだな。呼び方はそれでいい。それでまだ事情が飲み込めないんだが、誰が説明してくれるのかな」


 アールファレムの微量の不機嫌が伝わってきて、マイヤールは慌てた。だがアルスラーダはそれぐらいは慣れていた。


「申し訳ないのですが、この場で話せるような内容ではありません。マイヤール、どこか部屋を用意していないのか?」

「はっ、はい。勿論用意しております。釣った魚は、うちの下男達に宿に届けさせます」


 二人の男はその為に連れてきたらしい。釣竿と魚籠を恭しく預かると、素早く立ち去った。


「若旦那、こちらがイグナーツだ」

「よろしく頼む」


 リベリオは事情は分からないが、何か起こりそうな気配を面白がり、イグナーツと握手を交わした。

 アールファレムが言うようにイグナーツは、アールファレムとはまったく似ていなかった。真面目そうな優男だ。不安そうな表情を浮かべ、心配事があるのが容易に見てとれた。どうやら嘘の付けない御仁らしい。今からどんな厄介事が起きるのか、わくわくしながら、事の成り行きを見守る事にした。


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