10 凶行の傷跡
「遅すぎる。何かあったのではないか?」
アールファレムの執務室ではアルスラーダが苛々して、歩き回っていた。
「カスパードの件で長引いているだけだろう」
ルーヴェルは肩を竦めながら言ったが、シルヴィンが殊更に部屋を変更した事が、異様だった。アールファレムの私室は応接室と寝室が繋がっている。まさかとは思うが、最悪の事態が頭をよぎった。
「よし見に行こう」
ルーヴェルが言い終わる前にアルスラーダは部屋を出ていた。駆け足で宮殿内を駆け抜けた二人は、アールファレムの私室に繋がる入口で、フィリップと近衛兵達に出会った。
「まだシルヴィン閣下はいるのか?」
アルスラーダは感情を抑えながら尋ねた。
「いえ、先程出てこられました。陛下は当分誰も入れないようにと、仰られたそうです」
「そうか、我々は構わないだろう」
「勿論です。どうぞお通り下さい」
人払いしても、アルスラーダとルーヴェルの二人だけは、いつでも入れる様に言われているので、近衛兵は笑顔で道を空けた。
「アルファ様?」
応接室に繋がる扉を開いたが、アールファレムは居なかった。机の上には飲みかけのお茶が残されていた。アルスラーダは不審に思い、寝室に飛び込んだ。
アールファレムが寝台で眠っていた。
「お休みですか? ……これはっ!」
まず破れた服が目に入り、血のついたシーツが、惨劇を物語っていた。
「あの野郎、殺してやる!」
アルスラーダは部屋を飛び出そうとしたが、ルーヴェルに力ずくで止められた。
「駄目だ。アルス! 落ち着け!」
ルーヴェルは、寝台で横たわるアールファレムを指差した。
「アルファ様をこのままにするのか!」
アルスラーダはよろめきながら、眠るアールファレムに縋り付いた。
「アルファ様、アルファ様……アルファ様」
アルスラーダは泣きながら、アールファレムの名前を呼び続けた。
ルーヴェルは急に息の仕方が分からなくなり、右手で自分の首を押さえた。こんな二人を見たくなかった。
シルヴィンが許せなかった。だが何がシルヴィンを凶行に追いやったのか。何故、今日だったのか、もしカスパードが謀反しなかったら? 恐らく悲劇は起こらなかった筈だ。ではアルスラーダのせいなのか? そもそもアルスラーダは何故カスパードを謀反に追いやったのか?
「アルス、何故カスパードに謀反させた?」
ルーヴェルはこちらを向かないアルスラーダの胸ぐらを掴み上げた。
「答えろ!」
「今、そんな事は関係ないっ!」
「いやそのせいでこんな事になったんだ」
「そんな筈がない!」
「いいから答えろ!」
ルーヴェルは、冷静であろうと心掛けたが制御出来ず、荒れ狂う感情は、捌け口を求めていた。
「アルファ様には敵が必要だ。この方の本能が戦いを求めている。だから奴を用意した。それの何が悪い!」
ルーヴェルの迫力に気圧されたアルスラーダは、不貞腐れながら質問に答えた。ルーヴェルは殴りつけたい衝動にかられたが、なんとか自制してみせた。
ルーヴェルはアルスラーダが正しいのを知っていた。アールファレムは戦いの中で生を実感している。だがアールファレムは必要のない戦いはしなかった。戦乱で疲弊した民衆を救う為、立ち上がったのだ。結果的に平和がもたらされ、アールファレムの敵はいなくなった。だが、アールファレムはそれで満足していた。常に民衆の為、国の為を第一に考え、実践してきた。アルスラーダが横にいたらアールファレムは、それだけで幸せだったのだ。或いはいずれはこうなったかもしれない。だが、今ではない筈だ。
「お前は、もっと他人の感情を考えられないのか! 弟を利用されたシルヴィンの気持ちが、何処に向かうのか、お前は想像もしなかった。いいか! 誰もがお前の思惑通りに動くと思うなよ!」
「私のせいだと言うのか?」
「……アルス?」
二人の諍いが煩かったのか、アールファレムが目を覚ました。
「アルファ様。ご無事ですか」
アルスラーダは恐る恐るアールファレムの頬に触れた。少し身を竦ませたが、振りほどきはしなかった。
「ははっ。あまり大丈夫じゃないな。泣いたのか、アルス」
アールファレムは涙の跡がくっきりと残るアルスラーダの頬に手をばした。
「アルファ様……」
「あれっ、おかしいな。もう大丈夫なのに……ひくっ……アルス、ルーヴェル、すまない」
泣き出したアールファレムの頭をルーヴェルは優しく撫でた。枕元でルーヴェルとアルスラーダはより近い場所をとろうと押し合った。
「アルファ様、大丈夫です。私達がいれば安心でしょう」
「ルーヴェル……。ああ二人がいてくれたら、もう大丈夫だ」
アールファレムはようやく体を起こしたが、いまだに残る鈍痛に顔をしかめた。
「痛っ。……いや、大丈夫だ。心配かけてすまない」
「……無理なさらないで下さい」
アルスラーダはあまりの痛々しさに目を反らした。再び涙が出そうなのを悟られたくなかった。
「アルス。お湯を持ってきてくれないか? 体を拭きたい」
「それにシーツもだ。理由を気取らせるなよ」
ルーヴェルの言葉にアルスラーダは頷くと、走って出ていった。アールファレムは立ち去る背中を視線で追い掛けた。暫く無言が続いたが、アールファレムがぽつりぽつりと話し出した。
「今朝からアルスがアルファと呼んでくれる様になったんだ。昔のように」
アルスラーダはアールファレムが即位してから、ずっと陛下と呼んできた。
「良かったですね」
ルーヴェルが寝台に腰掛け、アールファレムの肩を抱くと、安心したようにルーヴェルにもたれ掛かった。
「なんで、こんな日に……。ルーヴェル、私は弱すぎる。今日ほど、女である事を悔しいと思った事はない」
「シルヴィンを殺しましょうか?」
アールファレムが自分の無力さを嘆くと、ルーヴェルは事も無げに言ってみせた。
「……そういう訳にはいかんだろうな。国には必要な男だ。私にとってもだ。だが素直には従わんだろうな。明日またくると言っていた。まだ何も思い浮かばない」
「私がなんとかします」
「出来るのか?」
「考えてみます。アルスの方も宥めないといけませんね」
「怒っていたか?」
「それはもう、殺すと先程まで喚き散らしていました」
アールファレムは笑おうとして失敗した。いまだに感情が不安定で思い通りにならない事が腹立たしかった。
「アルスは私を嫌いにならないだろうか?」
ルーヴェルは意外な発言にびっくりして、アールファレムを見つめた。
「当たり前でしょう」
「だって汚れてしまった」
どうやら本気で心配しているらしく、笑いながら安心させる為に優しく抱きしめた。
「こんなにアルファ様は綺麗なのに、貴女を汚すなど誰にも出来ませんよ」
「もう駄目なんだ。アルスはきっと……」
「ではアルスに聞いてみましょうね」
ルーヴェルはくすくす笑いながら、頭を撫で続けた。戻ってきたアルスラーダは不機嫌にルーヴェルを睨み付けた。
「いつまでアルファ様に引っ付いているんだ」
眼光鋭いアルスラーダに睨まれても、まったく痛痒を感じないのはルーヴェルぐらいだろう。弟が怒ったぐらいでびびっていたのでは、兄は務まらない。ルーヴェルは嫌がらせのように更に強く抱きしめて見せた。
「アルファ様がアルスに嫌われたと泣くから、私が慰めているんだ。アルスが離れても私がいますからね」
「馬鹿な事を! 嫌う訳ないでしょう」
アルスラーダは顔を歪ませ、ルーヴェルの肩に手を掛けて退かそうとしたが、ルーヴェルは邪険に振り払った。
「アルスはアルファ様の事が大好きで仕方ないんですよ。可哀想だから信じてあげて下さい。それより早く体を拭きましょう。アルス出ていけ」
「私がやる。ルーヴェルどけっ!」
「アルスは嫌だ! ルーヴェル頼む」
「何でルーヴェルはいいんですか?」
即座に拒否されて本気で傷付いたアルスラーダは悔しげに呻いた。
「下心の有無だな。早くいけ」
「アルファ様、変な事されたら私を呼ぶんですよ」
二人から追い払われ、アルスラーダはとぼとぼと隣室に移動した。
ルーヴェルはアールファレムの体を優しく丁寧に拭っていった。晒しを巻いていないアールファレムの体など、アルスラーダに見せる訳にはいかないのだ。
「なんでルーヴェルは大丈夫なんだろうな」
アールファレムは自分でも不思議だった。シルヴィンに酷い事をされ、男に恐怖を感じてもおかしくなかった。
「簡単です。アルファ様にとって私は男ではないからです」
アールファレムの手首や体のあちこちに出来た赤い痣に顔をしかめた。シルヴィンに対して、怒りが込み上げてきたが、口には出さず、頭の中でのみ首を絞めておいた。
「痛みますか」
「……体の奥にまだ違和感がある。大丈夫、気持ち悪いだけだ」
流石に際どい部位は自分で拭い、アールファレムは服を着替えようとした。
「今日と明日はお休み下さいませ。アルスと私に任せて下さい」
「だが……」
ルーヴェルは寝間着を用意し、慣れた手付きで着替えを手伝った。素早くシーツを交換すると、破れた服をくるんだ。
「アルスも明日は休ませます。あいつには頭を冷やす時間が必要です。大丈夫です。アルファ様の留守を守るのは昔から私の仕事です。安心してお休み下さい」
ルーヴェルはアールファレムのおでこに口付けして、眠るよう促した。
「ん、分かった。ルーヴェル。今夜一緒にいてくれないか」
アールファレムは子供の様に甘えると、ルーヴェルは相好を崩し、頭を撫でた。
「分かりました。また来ます。ちゃんと寝て下さいね」
アールファレムは素直に頷くと瞼を閉じた。まだ体はだるかったので、すぐに寝息をたてだした。ルーヴェルはもう一度頭を撫でると、シーツを抱え、アルスラーダの待つ応接室に向かった。
「アルファ様は!」
「お休みになられた。明日まで政務は休んでもらう」
「当然だな。ちょっと出てくる」
「シルヴィンに手出しは許さんぞ」
「本気で言ってるのか? アルファ様をあんな目に遭わせた男をどうして許せる!」
「アルファ様のご命令だ」
アルスラーダは目眩を起こし、机に手をついた。素直に命令を聞くルーヴェルの正気を疑った。
「今は気弱になっておられるから、判断出来ないだけだ」
「命令に背くのか。そんな真似はさせん」
アルスラーダは寝室の方に視線を向けたが、勿論アールファレムの姿は見えない。
「何故だ? あんな奴殺すべきだ。兄弟揃ってアルファ様に仇なす反逆者だ!」
「シルヴィンは反逆者じゃないさ。アルファ様に惚れているだけだ」
「汚らわしい。あんな奴がアルファ様の視界に入るのも嫌だ」
何故シルヴィンを庇わなくてはならないのか、ルーヴェルは馬鹿馬鹿しくなった。シルヴィンのした事は許される事ではない。だがアルスラーダがカスパードにした仕打ちは許されるのか? その判断はアールファレムがしなくてはいけない。なんでこんな馬鹿な男どものせいでアールファレムが苦しまなくてはいかないのか。
「そろそろ気が済んだが?」
ずっと悪態をつくアルスラーダを眺めている内に、冷静さを取り戻したルーヴェルはアルスラーダを椅子に座らせた。
「……私のせいなのか」
「原因を辿ればそうなる」
「私がアルファ様を……」
頭を抱えて悩み始めたアルスラーダを眺めながら、ルーヴェルは思考に耽った。
アルスラーダは危険だ。アールファレムの為なら、何を仕出かすか分からない。問題はあくまで本人基準の判断であり、本当の意味でアールファレムの為にはならないという事だ。
国を破滅させようとした時、アールファレムはアルスラーダを殺さなくはいけない。或いは、今死ぬべきはシルヴィンよりアルスラーダの方かも知れない。このままではアールファレムは壊れてしまう。脆すぎるのだ。
「アルスラーダ。アルファ様を守るという事は、民衆を、国を守るという事だ。今度、無駄な戦いを招く様な真似をしたら、私がお前を殺す。アルファ様はお前がいればいいんだ。戦いなどなくても、あの方は生きていける。だがお前がいなければ、あの方は壊れてしまう」
「私はアルファ様が幸せだったらいいんだ。戦いの中でアルファ様は生き生きとされている。だから私は……」
「先程仰っておられた。アルスがアルファ様と呼んでくれたと、笑っておられた。いいか、たったそれだけでアルファ様は笑えるんだ。難しく考えなくていい。お側にいるだけで、幸せになれるんだ。お前次第だ」
「陛下と呼ぶ事で我慢しようとしてたんだ」
「けじめという訳か。二十二年我慢してきて、どういう心境の変化があったんだ?」
「思い通りにカスパードが謀反を起こし、アルファ様に敵を用意できた。本心では喜んでくださると思ったんだ。今ならアルファ様が受け入れてくれると思ったんだ」
ルーヴェルは憑き物が落ちたように淡々と本心を語るアルスラーダを冷ややかに見下ろした。
「今回の件で、一体、何人の人間が死ぬ事になるのか。アルファ様がお心を痛めるとは思わなかったのだな。アルス、今のお前ではアルファ様をまかせられない」
「ルーヴェル、頼む。私が支えてみせる。お願いだから、アルファ様の側にいさせてくれ!」
「アルファ様がそれをお望みだからな。……シルヴィンに手出しをしないと誓えるか?」
「それとこれとは話が別だ!」
「国にとって、いやアルファ様に必要な男だ」
アルスラーダはきつく目を閉じて、拳骨で自身の太股を叩いた。どれほど考えても結論は変わらない。
「許せる訳がない!」
「カスパードの問題がある以上、皇帝補佐官と大将軍が不仲との噂を立てる訳にはいかん。周囲に気取られるな。これ以上アルファ様に心配を掛けるな」
「カスパードの事が片付いた後ならいいのか?」
「駄目だ。アルス許さん。誰よりアルファ様が望まない筈だ」
「くそっ!」
「汚い言葉を使うな」
こんな時も説教癖が身に付いているルーヴェルだった。
「取り敢えず、今日は仕事に専念しろ。これ以上滞らす訳にはいかん。明日はお前も休んで、頭を冷やしてこい。私の方に仕事を回すよう手配する」
「分かった。明日はアルファ様のお側にいる」
「駄目だ。また怒りが再燃するのが目に見えている、お前は明後日まで会うな。それまでに冷静沈着と噂の補佐官に戻るんだな」
「嫌味な言い方をするな。……分かったよ。だがシルヴィンはどうする?」
「私に任せてくれ。なんとかしてみるさ。昔から困ったらお兄様が解決してきただろう」
「そのお兄様とやらに大事な事を確認したい。そのだな……。いやでも」
アルスラーダは急に視線を下に向け、歯切れ悪く、ぼそぼそ呟くだけだった。
「なんだ。忙しいんだぞ。早くしろ」
「ルーヴェルはアルファ様の裸を見ても、なんとも思わないんだな」
呆れたルーヴェルはわざと大きな溜め息をついた。
「アルス君。アルス君。私がアルファ様に手を出すと、本気で心配しているのかな」
アルスラーダの頭を両手で挟み込むと、渾身の力を込めた。
「痛い! だって、アルファ様綺麗過ぎるだろうが。さっきもあんな可愛く甘えられて、その気にならない方が男として、問題だろうが」
「重ねがさね失礼な奴だな。私はアルファ様の医者代わりをずっとしてきた。今更欲情するか! 勿論アルファ様が望めば、応えるが」
「望んでたまるか!」
「だから汚い言葉を使うな。ともかく、妹相手に手を出さない。約束する。それに抱く女には不自由していない」
「惚れた女はいないのか?」
「アルファ様が妬くからな。本気の恋愛はする気はないさ。遊びで充分だ」
ルーヴェルはアルスラーダの頭を軽く叩いた。
「よし、仕事に戻るぞ」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
未練がましく寝室に視線を送るアルスラーダをもう一度殴り付けた。
「早くしろ!」
最後はルーヴェルが怒鳴って、連れ出すはめになった。




