第35話 誘導妄想
青ざめた顔で立ち上がり、深く頭を下げて声を震わせる。
「も、申し訳ありません……っ! その、先ほどまで子供たちと家の中で『かくれんぼ』をしておりまして……もしかしたら、このお部屋に隠れているのではないかと思い、つい探してしまったのです」
口から出まかせの、苦し紛れの言い訳。心臓の音がうるさすぎて、自分の声が遠くに聞こえる。
栄子奥様は呆れたように腕を組み、底辺の人間を見下すような冷酷な視線を私に浴びせた。
「あの粗暴な子たちが、こんな静かな部屋で大人しく隠れているわけないでしょう。言い訳はいいから、早く出て行きなさい。夫の物を勝手に触って、何か無くなったりしたらあなたの責任になるのよ」「はい……! 本当に、申し訳ございませんでした……!」
私は何度もペコペコと頭を下げながら、逃げるように書斎から小走りで飛び出した。
扉が閉まった瞬間、私は廊下の壁にすがりつき、大きく息を吐き出した。
(……やり過ごした。怪しまれていない)
栄子奥様のあの見下すような目は、私が「ただの無能なシッター」であると信じて疑っていなかった。私がこの家で最も恐ろしい『爆弾』を仕掛けている最中だったことなど、彼女のその高いプライドと傲慢な目では、到底見抜くことはできなかったのだ。
恐怖の余韻で指先はまだ冷たかったが、私の胸の奥には、愛する豊さんのために完璧に役目を果たしたという、熱い充実感が広がっていた。
豊さんの指示通り、私はこの危険な任務を数日間、毎日休むことなく続けた。
朝に設置し、夕方に回収する。
そして運命の日の夕方。いつものように回収のために書斎のキャビネットを開けた私の目は、ある一点に釘付けになった。
(……ずれてる)
ファイルの間に挟んだ封筒が、朝のミリ単位の記憶とは明らかに違う角度に傾いていた。さらに、ハサミで切った封筒の口の開き具合が不自然に広がっている。
間違いない。何者かがこの封筒を引き抜き、中身の『長男と三男の父親が違う』という残酷な事実を確認して、慌てて戻したのだ。
隆史さんはまだ帰宅していない。この家にいるのは、私と子供たち、そして――栄子奥様だけ。
「……つまり奥様が、見た」
私は心臓の高鳴りを抑えながら封筒を回収し、血相を変えて本宅の豊さんの部屋へと走った。
「豊さん! 動いていました! 栄子奥様が、鑑定書を……!」
息を切らして報告する私を見て、トリプルモニターの前に座っていた豊さんは、満足げに、そして酷薄に口角を吊り上げた。
「よくやってくれた、舞子さん。これで、あの女の頭の中では『夫はすべてを知っている』という最悪の疑念が完成したはずだ」
豊さんは私を労うように優しく微笑むと、机の引き出しから、赤黒い染料が入った小瓶を取り出した。
「豊さん……それは?」
「兄さんが宝物のように手入れをしている旧車、ジャガー・Eタイプ。その手入れに使うヴィンテージの工具箱から、何か、波打つような刃を持つ金属工具を探し出し、その刃の根元、金属の隙間にわざとこの赤黒い染料を数滴、付着させてほしい。乾いた血痕にしか見えないだろ? そして、それを兄さんの書斎に隠しておいてほしい。わざと見つかるようにしなくてもいい。きっと彼女は見つけ出す」
豊さんの漆黒の瞳が、モニターの光を受けて妖しく輝いた。
「自分の不倫と托卵を知った夫の部屋に、血のついた凶器があるのを見つければ……栄子の被害妄想は極限に達し、自らを正当化するために、必ず自滅の道を選ぶよう誘導されるはずだ」
豊さんの描く、あまりにも緻密で冷酷なシナリオ。
その恐ろしさに背筋が凍りそうになりながらも、私は不思議と恐怖を感じてはいなかった。この人は、すべてを完璧にコントロールしている。私と、隆史さんと、矢絡深家を守るために。
この狂った母親の元にいたら、あの子たち(三つ子)の心まで壊れてしまう。子供たちを救うためには、私たちが悪魔になるしかない
「わかりました。……私、やります」
私は小瓶を受け取り、愛する共犯者に向けて、力強く頷いた。
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本宅の自室。分厚い遮光カーテンに閉ざされた空間で、俺は青白く発光するトリプルモニターの前に深く腰を沈めていた。
矢絡深家の敷地内に通っているインターネット回線は、一本だけだ。本宅にある大元のルーターを経由して、同じネットワーク上に別宅である新居の回線も構築されている。インターネットの仕組みなど全く理解していないであろう栄子は、自分のスマートフォンを無防備に別宅のWi-Fiに接続し、日夜あらゆる情報を漁っていた。
当然、彼女の端末から発信されるパケット通信の内容や、表示したホームページの閲覧履歴は、すべて本宅のルーターを管理している俺のモニターへと筒抜けになる。
深夜二時。静まり返った部屋に、カチャッ、カチャッと、俺がキーボードを叩く乾いた音だけが響く。
左のモニターには、栄子のスマートフォンからリアルタイムで送信されてくる検索ログの文字列が、黒いコンソール画面の上を滝のように流れていた。
中央のモニターには、俺が敷地内の要所に仕掛けた監視カメラのライブ映像。
そして右のモニターには、江上浩二を惨殺したヤクザの映像データを、警察の匿名通報窓口へ送信するための暗号化メーラーがスタンバイ状態になっている。
三つのモニターを同時に見つめながら、俺はまるで、破滅の交響曲をコントロールするオーケストラの指揮者のような高揚感を覚えていた。俺がタクトを振るたびに、栄子という愚かな駒が、俺の描いたスコア(楽譜)通りに自滅へのステップを踏んでいくのだ。
『ピコン』
左のモニターに、新たな検索クエリがハイライト表示された。
俺は目を細め、その文字列を読み上げる。
「……『旧車 事故に見せかける』、『ブレーキホース 切断』……か」
画面には、栄子が車の足回りに関する専門的な解説ページや、整備士のブログを血眼になって読み漁っているだろう履歴が次々と表示されていく。




