――指――
飛頭蛮退治という、大事な仕事が控えている身だけれど、朱翠影が一緒にいてくれて助かった。落ち着いた彼がそばにいると、心の安定が得られて、雪華はあれこれ思い悩まずに済む。
移動も滞りなく進み、体調万全で、目的地の沶竟に辿り着いた。
まず雪華たちは現場の寺院に行き、裏門下の階段を確認した。飛頭蛮が出て、熊犬の腸を食べたとされる場所だ。
かなり日数が経過しているものの、まだ血のしみがどす黒く広い範囲に残っていて、豊紈から聞いた話と一致した。
そして寺院の人と会い、当日の出来事について裏取りを行うのも忘れなかった。
これもまた豊紈、桃義から聞き出した話と、矛盾なくすべて一致し――残る確認作業はあとひとつとなった。
最後のひとつが、今回、旅をすると決めた目的である。
* * *
「着きましたね」
両端の跳ね上がった壮麗な入母屋屋根を見上げ、雪華は背筋を伸ばした。
目の前にあるのは、閑静な住宅地に建つ、広く立派なお屋敷である。
ふたりは寺院を出た足で、魏祥の実家にやって来た。
娘が行方不明になっている件を、これから両親に確認しなければならない。
「父君の魏県尉は在宅のはずです。話を伺いたい旨、都を発つ前に手紙を出しておきました」
皇族の大切な手紙は早馬で運ばれるため、雪華たちよりも先に届いて、魏県尉は内容を確認しているだろう。
「ありがとうございます」
使用人に取り次いでもらい、屋敷の中に招かれた。
調度類も見事なものだ。紫檀や黄花梨で作られた重厚な家具には、花鳥文、禽獣の凝った文様が彫り込まれている。
「朱殿、救国の巫女殿、ようこそいらっしゃいました」
口髭を貯えた、威厳のある魏県尉が立ち上がり、丁重に迎え入れてくれた。
夫人も歓迎してくれたものの、顔色が冴えない。
椅子を勧められ、雪華と朱翠影は隣り合って腰を下ろした。
対面に夫妻が腰かける。
「――こちらにいる雪華殿は、慶昭帝の命により、ある怪異事件を調査しています」
朱翠影が話を切り出した。
朱翠影と魏県尉はこれまで直接面識はなかったものの、共通の知人がいるとのことで、ふたりで話してもらうことにした。
怪異事件と聞き、夫妻が訝しげな顔つきになる。『まったく予想外のことを言われた』という反応だ。夫妻が不安げに視線を交わすのを見据え、朱翠影が尋ねた。
「どうかなさいましたか?」
「は……いえ……てっきりその……」
魏県尉が口ごもり、そのまま言葉を失ってしまう。
夫人のほうは胸を手のひらで押さえ、体を落ち着きなく動かしている。
朱翠影は聞き取り調査に専念し、あえて淡々と話を進めていく。
「お嬢さんの居場所を訊かれると思っていたから、怪異事件と聞いて驚いたのですか?」
「娘のことはなんとお詫びしたらいいか……」
魏県尉はすっかり青ざめている。
「なぜ詫びるのです? 行方不明ですよね?」
「その……自分で逃げたのか、急病なのか……」
「急病というのはどういう意味でしょう? 今、お嬢さんはご在宅で、寝込んでいらっしゃる?」
「いえ――そんなまさか! 誓って申し上げます、当家には戻っていません。寺院で……行方不明になったと伺っています。ですから急病か何かで、どこかで倒れているかもしれないと思いまして」
「急病だとしても、寺院の敷地内で倒れていれば、すぐに発見されたはずです」
「それは、しかし……」
「お嬢さんは現状、黄賢妃付きの女官です。責任のある立場だし、これまではしっかり期待に応えてきた。それが旅先の寺院で行方不明になったというのに、あなた方は事件性を主張するでもなく、奇妙な言動を繰り返している」
これを聞き、夫人が魏県尉に縋り、泣き出してしまった。
「あなた――どうしたらいいの」
「黙りなさい、だめだ」
「わたくしもう耐えられないわ」
狼狽し顔を歪める夫人と、それを諫める魏県尉――彼らが重大な問題を抱えているのは明らかだった。
朱翠影は痛ましげにそれを見遣り、やがて告げた。
「――指――」
それは静かな声だったが、屋敷中の調度類をすべて叩き壊したくらいの衝撃を夫妻に与えた。
ああ……夫人が大きく口をわななかせ、慟哭する。
魏県尉は歯を食いしばり、涙をこぼした。
「――娘さんの指が、届いたのですね」
朱翠影の残酷な言葉は、夫妻の支えを叩き折った。
これまで彼らは縋っていたのだ――口を閉ざしていれば娘が帰って来るという、絶望的な望みに。
けれど立場上、朱翠影も雪華も、事実を確認しなければならない。
* * *
――都を発つ直前のこと。
朱翠影は慶昭帝からこう言われたそうだ。
「魏県尉に会ったら、『指』と言ってみろ」
慶昭帝の声音は刃のように鋭く、彼の怒りが滲んでいる。
「……なぜですか?」
朱翠影が慎重に尋ねると、慶昭帝から答えが返された。
「余無が仕入れて来た新情報だ。過去半年、沶竟で行方不明になった娘たちがいるだろう――その実家に、切断された指が送りつけられたという噂がある」
余無というのは慶昭帝の隠密である。優秀なやつなので、情報に間違いはあるまい。
「なぜその情報が公になっていないのでしょう? 捜査機関に家族が届け出なかったのが分からない」
「さあな……娘の安全を優先して、親は口を閉ざしているのかもしれん。切られたのが指だけなら、本人はまだ生きていると考えたくなるのが親心だ。おそらく指と一緒に、脅迫状も届いている――『誰にも言うな』と」
非人道的な話を聞き、朱翠影の全身から殺気が漏れ出す。
普段はのらりくらりとしている慶昭帝も、腕組みをして厳しい顔つきだ。
「――近日中に必ず決着をつけろ、翠影」
「承知いたしました」
雪華はこの場にいなかったのだが、慶昭帝とのやり取りはあとで朱翠影から教えてもらった。




