姉がいなくなった
さて――団子屋の娘である向雪華がなぜ朝廷に引っ張り出されて、部下を十名も抱えることになったのか――。
ことの起こりはひと月前に遡る。
* * *
雪華はその朝もいつもどおり、にわとりの鳴き声で目を覚ました。
簡素な臥具から身を起こし、腕を上げて背筋を伸ばす。
――姐姐はとっくに起床しているだろう。
向家は団子屋を営んでいるのだが、朝の仕込みは姐姐が担当し、夜の片づけは雪華が担当するという役割分担になっていた。養父母は雪華がまだ子供の頃に亡くなっているので、団子屋の経営はそのまま姉妹が受け継いだ。
ぼんやりと中空を眺めたあと、血の巡りが良くなってきた頃にゆっくりと動き出す。
掛布団を畳もうとして体の向きを変えたことで、枕元に置かれた鋏に気づいた。
「あれ……これは……?」
細工の凝った美しい鋏だ。親の形見だと言って、姐姐が大切に保管していたものよね?
鋏の下には四つ折りにした紙が敷かれていた。平民である向家にとっては紙自体が高級品である。
……手紙?
雪華は鋏と紙をおそるおそる手に取った。鋏は一旦膝上に置き、初めに紙のほうを確認することにした。畳まれたそれを開く前に、どういう訳か胸が騒いだ。
なぜだろう……確認したくない。けれど見ないことには何も始まらないし……。
強張る指でそっと開く。
中を見ると末尾に署名もあるし、確かに姐姐の字だ――美しくしなやかな筆跡。団子屋の娘であるのに、姐姐は文字が書ける。
『鋏を預ける。肌身離さず持ち歩くように。燕珠』
三度目を通した。一周目、二周目、三周目……どんどん心拍数が上がっていく。
指先が冷え、頭がズキズキしてきた。
雪華は鋏と紙を脇に置き、臥具から立ち上がった。もつれる足で自室を出る。
平屋で広くはないが、家を建てた養父母の好みなのか、簡素な壁で部屋がいくつかに区切られている。
姐姐の部屋に飛び込んだ――布団は綺麗に畳まれていた。
あえぐように息をしながら台所に向かう。普段どおりなら、団子を作っている姐姐の後ろ姿を見ることができるはずだ。
きっといるわ……いつもと同じはずよ……。
けれど期待は裏切られた。台所は静まり返っている。昨夜雪華が片づけた状態から何も変わっていない。
雪華はうつろな瞳で周囲を見回した。
しばらくしてから、のろのろと動き、黙したままふたたび家中を探し回った。「姐姐、どこ?」と呼びかける声がどうしても喉から出てこない――もしも返事がなかったら――おそらく返事はないだろうと分かっているからこそ、耐えられないと思った。
外に出て、家の周囲も見て回る。
ああ……いない。
でも……そのうちに帰ってくるかも。
急に必要なものができて大きな町に買いに出たとか、きっとそんな事情よ。
買いもの? そんな訳ないじゃない――もうひとりの冷静な自分が頭の中で否定する。姐姐がすぐに帰宅するつもりなら、大切な鋏を雪華に託すはずがない。鋏の下に置き手紙をしていったというのも不穏である。
雪華は自室に戻り、長いこと呆けていた。
改めて鋏をこわごわ手に取り、しげしげと眺めおろし、意味もなく布で拭いて、ふたたび眺めおろした。
屋外でにわとりがまた鳴いた。
「……団子を作ろう」
あえて声に出し、雪華は台所に向かった。
姐姐の置き手紙に『肌身離さず持ち歩くように』と書いてあったので、鋏は腰帯に挟んだ。
お店を開けて姐姐を待とう、お昼くらいになれば……きっと帰って来る。
これはなんてことない出来事よ……雪華はそう思い込もうとした。
それで「きっと帰って来る」と声に出して何度か繰り返した。