都に行っちゃうの? いつ帰る?
慶昭帝の命に従い、臣下数名が賊の亡骸を外に運び出した。
それと入れ替わるように、店の外で剣を回収した朱翠影が戻って来る。
「雪華殿、旅支度を整えるには、どのくらい時間が必要ですか?」
涼やかな声で尋ねられ、雪華は目を瞠った。
今……雪華「殿」と言った?
皇族が平民の名を呼ぶ際に「殿」をつけるなんて、常識では考えられない。
先ほどまでは普通に敬称なしで呼んでいたのに、なぜ……それに言葉遣いも変化している。急に敬語になった。
ありえなすぎて、問われた内容が頭に入ってこない。
微かに眉根を寄せて見上げても、朱翠影は端正な佇まいを崩さず、こちらの返事を待っている。それで仕方なく口を開いた。
「……なぜ私を雪華『殿』と呼ぶのですか?」
「あなたは命の恩人です。敬意を払うのは当然かと」
「いえ違います、私は朱殿の命を救っていません」
硬い声で返した。彼は盛大な思い違いをしているので、正しておく必要がある。
けれど静かに反論されてしまう。
「ですが雪華殿が鋏を使った結果、私は生き残りました」
もう、分からない人だな。
「お忘れですか? 朱殿が投げた茶器を、賊が踏み、足を滑らせた――それで敵は勝手に自滅したのですよ。私は関係ありません」
「あなたは謙虚ですね、手柄を自慢しない」
ち・が・う。
少し不機嫌に朱翠影を眺める。
すると彼が微かに瞳を細め、なだめるようにこう言った。
「……不満はあるでしょうが、受け入れていただくしかなさそうです。私個人の気持ちとして、あなたに対して感謝の気持ちがあるのは本当です。ですがそれ以前に、これは慶昭帝の指示ですので」
慶昭帝の指示……それは先ほど皇帝が、「我が家訓のひとつに『命の恩人には礼を尽くせ』というのがある。翠影にもそれを守らせよう。都までの道中、翠影を好きに扱うがいい」と言っていた、あれか?
皇帝がそう言っても、やはり皇族の朱翠影が平民にへりくだるのはおかしいと思うのだが……。
雪華としては納得がいかないものの、彼のように一本筋の通った人間が何かを決めた場合、外から考えを変えるのは難しそうだった。
雪華が物言いたげに朱翠影を眺めていると、くい、と下から手を引かれる。
眺めおろせば、不安げにこちらを見上げる豆妹と視線が絡んだ。
「二姐――都に行っちゃうの? いつ帰る?」
問われ、雪華はハッとした。
豆妹にとって、雪華は実の姉同然だ。ずっと当たり前のようにそばにいてくれた存在が、突然いなくなるというのは不安だろう。
都に行っても、用が済めばすぐに帰って来るよね? 豆妹がそう信じたがっているのが、言動から伝わってきた。
ごめんなさい、豆妹、私はたぶん……。
胸が潰れそうで、息が苦しくなった。
とりあえず気休めを口にすべき? ええ、そのうちきっと戻るわ――そう言ってあげれば、豆妹は希望を持てるだろう。今この場では傷つかずに済む。
そして幼い彼女はひたすら待つ――明日も、あさっても――半月後も、一年後も――物音がすれば玄関から飛び出して、『二姐が帰って来たかもしれない』と確認する。けれど雪華が戻ることはない。やがて豆妹は期待するのにも疲れ、雪華との思い出を心の中で消していく。
そうなるのが分かっていて、「そのうち戻る」と嘘をついていいの?
どうするのが正しいのか分からない、でも……私なら真実を知りたいと願うだろう。
「豆妹……おそらく私はもう戻れない」
とはいえ運が良ければ、都に行ったあとも外出許可をもらえるかもしれない。けれど下働きの身分では自由などない可能性が高いし、現状、豆妹に約束できることは何もなかった。
「二姐、やだよ……」
裏切られたというように、豆妹が目を見開く。
雪華は豆妹の頭を優しく撫でてやった。
「以前、あなたは自分の夢を話してくれたよね……大きな船に乗って、世界の果てを見に行くのだと」
雪華が語りかけると、豆妹が目を瞬いた。
「うん……いつかきっと、叶えてみせる」
「どうやら今が、私にとって船出の時――豆妹、私は新しい世界に旅立つ」
それを聞き、豆妹の表情が変わった。幼い面差しに、悲しみと、強さと、決意が滲んだ。
「……分かった」
短く答え、豆妹は踵を返して団子屋から飛び出して行った。




