都までの道中、翠影を好きに扱うがいい
義務……なんの? 雪華は訝しく思った。朱翠影にはなんの義務もない。
大体……私が本気を出そうが出すまいが、そんなことは些事ではないか。
確かに、雪華の目の前で賊が奇妙な死に方をした。それにより皇帝の弟である朱翠影は死なずに済んだ。
けれどそれは私の功績なんかじゃない。
あの時雪華が鋏を使わなかったとしても、朱翠影は生き延びていたのではないか?
だって賊は朱翠影が投げた茶器を踏んで足を滑らせ、勝手に死んだのだから。
慶昭帝が続ける。
「彼女は国の脅威になりえる――片時も目を離すな」
「承知いたしました」
朱翠影は静かにそう答えた。どう考えても皇帝が無茶を言っているのに、反発する気配もない。
これほど綺麗な佇まいで他人の話を傾聴する人間を、これまで見たことがない……雪華は衝撃を受けた。
あと慶昭帝、先ほどさらりと「彼女は国の脅威になりえる」とおっしゃいました? ひどくないですか?
ふくれつらになりそうなのを我慢していると、ふたたび慶昭帝の視線がこちらに戻ってきた。
「雪華――我が家訓のひとつに『命の恩人には礼を尽くせ』というのがある。翠影にもそれを守らせよう。都までの道中、翠影を好きに扱うがいい」
……は?
雪華がまじまじと慶昭帝を見返すと、彼が続けた。
「翠影はなんでも言うことを聞くはずだ。試しに今夜『寝所に来い』と誘ってみては――」
「――慶昭帝」
ずっと従順な態度を崩さなかった朱翠影が、途中で口を挟んだ。
相変わらず端正な物腰であるが、なぜかこの時の彼には迫力があった。声は少し低く、有無を言わさぬ強さがある。
「なんだ、怒っているのか翠影」
「雪華は真面目な人です。からかうのはよろしくないかと」
「からかっちゃいない――私はいつだって本気だ」
慶昭帝はそうあしらって、近くにいた例の雌鶏宦官の襟首を掴んだ。
「お前――名前はなんだっけ?」
「わ、わたくしめは、で田……た丹た丹丹」
緊張しすぎて名乗れていない。あの宦官、女子供にはあんなに強気だったのに、お偉いさんの前だとひどいものだな……雪華は思わず半目になった。時代によっては皇帝の御前で言葉を噛むだけで不敬とされ、即死罪だぞ。先の自己紹介だけで五回以上死ぬ必要がある。
慶昭帝が眉根を寄せる。
「丹丹丹? 奇妙な名だ――姓が丹で、字が丹丹? ふざけているのか?」
責め立てるふりをして慶昭帝はからかっているのだろうか……おそらく宦官は田丹という名だ。先ほどの名乗りは確かに噛んでいたが、一応は田という姓から始まっていたように思う。それなのに田の部分はなかったことにされている。
「あのあのあの……」
「なんだ本当は『丹丹丹あのあのあの』というのか……長すぎる。狂気の沙汰だな」
「あいやあ!」
混乱したからといって、皇帝に「あいやあ!」はだめだろう……雪華は他人事ながら居たたまれない気持ちになった。
慶昭帝の楽しそうな顔を見ると、宦官がこれを機に『丹丹丹あのあのあのあいやあ』に改名させられそうで心配だ。
店内で剣を振り回した大馬鹿宦官がどうなろうと知ったこっちゃないが、その名前を呼ぶ破目になる周囲の人たちが気の毒である。




