助かったは助かった……けれど問題がある
それでどうなったのか?
助かったは助かった……それは確かだ。けれど問題がある。
理屈では説明がつかないことが起きている。
雪華、朱翠影の両名は茫然として、床に転がった死体を眺めおろした。
幼い豆妹は目を丸くして固まっている。
宦官は目を剥き、口をぱくぱくと動かしながら腰を抜かしてしまった。
少し前――雪華が黒い糸を断ち切った直後、賊は剣を滑らかに抜きながら右足を半歩前に出した。
それにより尖った何かを踏むことになる。
――男は何を踏んだのか?
それは少し前まで長方卓に置いてあった茶器だ――朱翠影が雪華と豆妹をかばう前に、とっさに卓上の茶器を右手で弾き、男に投げつけた。額に当たったそれは床に落ちて砕けた。
男の足を包んでいた草で編んだ履の裏が茶器の破片に乗り、勢い良く前に滑る。茶器に入っていた飲みものが床に零れたこともあり、大変滑りやすくなっていた。
転びそうになった男が慌てて腕を捻ったことで、抜き身の剣が制御を失い、鋭利な刃の部分が彼自身の胸下に当たった。それが上着の裲襠にからみつき、手から剣柄がすっぽ抜けたあとも、刃の部分は胸下に当たった状態で留まった。
そのまま男は体をねじりながら床に転ぶ――すると剣が直立した状態で床と男のあいだにしっかりと挟まった。剣柄は床を突き、剣先は男の体のほうを向いて。
倒れていく過程で尖った先が斜め上向きに体を串刺し――肋骨を避けて心の臓まで到達した。
伏せの状態で息絶えた男は膝を折り曲げ、背中から鋭い剣先が突き出ている。
「娘――そなたは妖術使いか?」
戸口から凛とした声が響き、雪華はハッと我に返った。
視線を店の入口に向けると、すらりとした男が立っているのが見えた。逆光になり、ここからだと顔立ちはよく分からない。
しかし……あの見るからに上等な盤領袍と、龍の紋はまさか……?
「――慶昭帝」
朱翠影が礼をとりながら折り目正しく呼びかけた。そして雪華を横目で見て『君も倣え』と視線で訴えてくる。
雪華も朱翠影のやり方を倣って礼をとった。そうしながら前にいる豆妹の袖を引き、なんとか壁際に下がるように誘導する。
七歳でもよく頭が回る豆妹は、椅子を迂回して雪華の隣に並び、さらに後ろに下がった。
腰を抜かしていた宦官も泡を食って立ち上がり、すぐに礼をとる。
なぜ皇帝がこんなところに……眉根が寄りそうになる雪華の疑問を、朱翠影が代弁してくれた。
「……都にいらっしゃるはずでは?」
彼が慶昭帝に尋ねるのを聞き、雪華は『噂のとおり、兄弟仲は悪くないのだな』と思った。慶昭帝が弟を嫌っているならば、目下の朱翠影から気安く話しかけられる空気を作らないだろう。
「面白そうだからお忍びで来てみた」
笑み交じりの声が返される。視線を伏せていた雪華は、慶昭帝が足を進めて店内に入って来る気配を感じ取った。
お忍びで来てみた、って……慶昭帝、その姿だとまったく忍べていないですが……。
龍紋は皇帝以外、使うことを許されない。つまりそれが刺繍された盤領袍を身に着けている時点で、『我は皇帝なり』と名乗っているようなものだ。
普通、皇帝は田舎の山村をこっそり視察なんてしないし、百歩譲ってするならば、もっと簡素な衣装を身に纏うべきである。たとえば体に巻きつける形の深衣とか、動きやすい曲裾袍とか……。
おそろしいのはこれだけ堂々としているのに、手練れの朱翠影に対して、烏解に来ていることをこれまで悟らせなかったことだ。隠密を得意とするやり手の部下がいて、皇帝の姿を上手く隠して移動させたのか? まるで奇術師だな……。
「それで」
慶昭帝が続ける。
「妃のひとりに加わるはずだった向燕珠は、駆け落ちしたって?」
なぜ知っている……雪華は冷や汗をかいた。
その会話はだいぶ前にしたものだ。
ちらりと視線を上げると、慶昭帝は死体のすぐそばまで来ていた。逆光がなくなったので、面差しを確認することができた。
――なんとまあ、華やかな……。
兄弟そろって美しい顔立ちをしている。ただし属性はまるで違う。
朱翠影が『端麗』なら、慶昭帝は『華麗』。
朱翠影が『月』なら、慶昭帝は『太陽』。
朱翠影が『銀』なら、慶昭帝は『金』。




