秘密の段
初めて看板を見つけたあの街から更に東へと商隊は移動していく。
その後も訪れたいくつかの街や村には既に同じ看板が立っていた。
商人はあの夜「ここよりもずっと東の街で」と言って傭兵を募集していた。
その目的地がまだまだ先である以上、この先も何度もこの看板を見る羽目になるのだろう。
男はつい先日まで魔女の噂など信じていなかった。嘘だと決め込んでいた。
だから傭兵の募集に名乗りを上げたというのに、気が付けば魔女の噂が日常となっているような場所にいる。
日々鍛え上げている討伐隊員を、それも一度に30という数を殺した魔女の存在が当たり前として話に出てくるような場所にいる。
ここで逃げ出すべきか、とも思った。
逃げ出したところでわざわざ自分を追ってくるような間柄ではないし、傭兵が逃げ出すなど珍しい話でもないだろう。
その後は聖王都とは違う方向へ逃げてしまえば、名前すら聞かれていない自分を探す方法などないはずだ。
だがしかし、と男には逃げ出すことを決断できない理由があった。
それは街を訪れる度に商人から与えられる宿である。
普段自分の金では泊まれないような宿の寝床は大変に心地よかったし、出される食事も普段よりもずっと豪華で、それだけでもこの依頼を受けてよかったと思えるほどのものであった。
たかがその程度で、と言う者もいるかもしれない。
しかし毎日きちんと食べ、きちんと眠ることすらできないほど、これまでの男の日常は貧相なものだったのだ。
そうしてずるずると護衛の仕事を続けながら訪れたある街の宿で、男は奇妙な若い2人組に出会った。
男の方は噂に聞く魔女の髪の色と同じ赤い髪をしており、身に着けている武具は見たことがないような変わったものだ。
一見すると石か金属のように見える片手用の斧槍だが、それが何で出来ているのか判断がつかない。
防具も布や動物の革とも違うような、見たことのない素材の灰色の防具を身に着けており、男は意図せずじっと見つめてしまっていた。
年季が入っているようには見えるが、かと言って古ぼけているわけではない。
そんな風変わりな武具を、しかしきちんと使いこなせるのであろうと思えるような雰囲気を赤い髪の男は纏っていた。
そして女の方はというと、美しく長い黒髪を一つにまとめており、武器のようなものは持っていない。
しかし手甲や足甲を身に着けて動きやすそうな服を着ているところを見ると、まさか素手で戦うつもりだとでもいうのだろうか。
2人は今宿に着いたばかりのようで、受付で親しげに話をしている。
その関係が金の絡む契約でないのは明らかだ。
ちっ、と男は心の中で舌打ちをした。
女連れというだけでも腹が立つのに、それが美人で親しげで。
つまり単に羨ましかったのだ。
「よう」
と男は努めて親しげに2人組に声を掛けた。
別に話したいことなどはなかった。
だが、ただ寝て食べて満足している自分と比べて、美人の女と楽しげに話をしているのがどうにも気に入らない。
(それに、見るからにこいつら、怪しいしな)
もしかしたら魔女の仲間かもしれない。
そんな風に思ったのが、それがただの言い訳なのは男自身も自覚している。
だがそうでも思わないとやっていられないほど男の心は鬱怫としていた。
「あんたらはどっから来たんだい?」
こちらとしては気軽に声をかけたつもりなのだが、赤い髪の男は怪訝な顔をすると女を自分の後ろに下がらせた。
(格好つけやがって)
と内心苛立ちはしたが、男は愛想よく続ける。
「いや、俺は別に怪しいもんじゃねえよ」
商隊の護衛で聖王都から来たが、あそこではこの辺りほど魔女の話は聞かず、看板などもなかった。
魔女やあの看板の内容について、何か知ってることはないか。
と、男自身も特に知りたいわけじゃ無いようなことを口にして場を繋いだ。
男はただ、軽く話しかけただけなのに警戒されたのが面白くなかった。
だからせめて怪しい者ではないと分かってもらいたかった。
別に仲良くなりたいわけじゃない。
警戒を解いて、その気に障る態度を改めてもらいたかった。
「いえ、俺達は何も知りません」
赤い髪の男は短くそう答えると、会釈をして女と一緒に宿の2階へと上がっていった。
(なんなんだ)
最近の若い奴は、と男は大きく舌打ちをして自分も部屋へと戻っていく。
(何もかもが面白くねぇなぁ)
楽な仕事のはずだった。心配の要らない仕事のはずだった。
しかし気がつけば件の魔女という存在が身近にあるような状況になっている。
そんな状況の中、商人の馴染みの傭兵達とは上手く交流が図れておらず、頼れるような相手がいない。
たまたま出逢った2人は話しかけただけで、迷惑そうな顔をしてそそくさと去っていった。
あの商人は未だに名前さえ聞いてこない。
(なんだってんだ、ちきしょう)
俺は何もしてないのに、と男は乱暴に扉を閉めた。
何もかもが上手くいかない。
自分はこんなに頑張っているのに、と寝床に飛び込む。
しばらく目を瞑ってはみたものの、頭の中がどうにも落ち着かない。
男はまた扉を開けて、街の酒場へと繰り出したのだった。




