猫の段
その後、ギルは空腹感を覚えるまで外で斧槍を振り続けた。
ラドリアスに言われたことを理解しようと何度も斧槍を振り続けてきたが、朝から何も食べずに動き続けるのには限界があった。
宿に戻り主人に何かないかと尋ねたところ、「すぐにお食事を」と台所へ向かってくれた。
その直後に温められた料理のいい匂いがしてきたことを考えると、きっとギルが外にいるうちから用意してくれていたのだろう。
有り難い、そう思いながら適当に座ろうと周りを見回すと、眠っている猫を膝に乗せ、その背を撫でているロザーナを見つけた。
「昼間は大人しいんだな」
向かいに座るギルの言葉にロザーナが頷く。
「こうしてね、ずっと寝ているの」
近くで見る猫は痩せ細っており、四肢が細い。
体毛は毛割れを起こしており、肋や背骨も浮き出ている。
「こんなにお婆ちゃんなのに、あんなふうに鳴くなんてね」
ロザーナの口調は優しい。
「本当に何かいたのだとしたら、この子は必死にこの場所を守ろうとしてたのかな」
そう言いながら優しく背中を撫でている。
夜中の鳴き声が加齢や痴呆からきているものではなく、外にいる何者かを威嚇するためのものだとしたら随分と立派なことである。
しかし、ギルはまだラドリアスの言葉に対して半信半疑だった。
昨夜外は静かなものであったし、朝になって宿屋の周辺を見てきたが何者かがいたような痕跡もなかった。
だが確かにラドリアスには不思議な感の良さがある。
だから疑っているわけではないのだが、かといって信じられる証拠は今のところ何もない。
もしかしたら、本当にただ呆けてしまっている猫が鳴いているだけなのかもしれないのだ。
それを確かめるには今晩、もう一度夜を迎えるしかない。
「猫、好きなのか?」
食事を運んできた主人に頭を下げ、ギルは大きく一口を頬張るとロザーナに尋ねた。
「好き、なのかな?」
可愛いとは思うけど、とロザーナは首を傾げた。
「猫との思い出は何もないし、好きかどうかって聞かれると」
とロザーナは唸る。
「ちょっと、分からないかな」
困ったようにはにかみながら「なんかね」とロザーナは続ける。
「この子はどこで生まれたのか分からない。どこから来たのかも分からない。けど、ここの人に拾ってもらえた」
そんな猫を見ていると、ロザーナは自分のことを考えてしまうのだと言う。
「ほら、私もね、どこで生まれてどこから来たのか分からなくて、そしてギルに助けてもらったでしょ?」
そんなことはない、とギルは思った。
「助けてもらってるのは俺の方だよ」
ロザーナに出会って、理想よりもずっと退屈だった旅がとても充実したものになった。
もう止めてしまおうかと思っていたのが嘘のように楽しい旅をしてこれた。
それだけじゃない。
戦いの度に助けられ、命を救われた。
ロザーナがいなければ、いや、そもそも出会わなければ狒々と戦うことにはならなかったのだが、それでもロザーナがいなければあの夜自分は死んでいたと思っている。
魔物に占拠された村でも、攻撃を躱したゴブリンの一撃を防いでくれたのはロザーナだ。
こうして思い返せば思い返すほど、むしろ自分の方がロザーナに何もしてあげられていないように思う。
記憶のないロザーナを連れ回すばかりで、結局何も見つけられていない。
マシューやラドリアスとの会話も任せっぱなしで、苦手なことを押し付けてきた。
助けられてばかりで、助けることなどできていない。
ギルは慌てて早口になりながらもそう答えた。
「そんなことないよ」
ロザーナはくっくと笑いながら続ける。
「あの夜、私を見つけてくれたのがギルでよかったと思ってる。何も覚えていないけど、それでも不安になんてならなかったのは、ギルがそばにいてくれたからだよ」
もしかして、とロザーナは顎に指を当てた。
「何も覚えていないから、何も心配することがないのかな?」
どうなのだろう、とギルは考える。
確かに少しでも記憶が残っていれば、それを起因として不安になることがあるかもしれない。
何も覚えていない方が、逆に気楽になれるものなのだろうか。
そんな事を考えながらうんうんと唸るギルを見て、ロザーナは遂に吹き出してしまった。
「ね?そうやって一生懸命に考えてくれるんだもん。ギルと一緒にいて心配になることなんて何もないよ」
ロザーナは一頻り笑ったあと「ただね」と少し表情を曇らせた。
「ヴェラさん、だったよね。そのヴェラさんから私の名前が出たって聞いた時、その時だけはね、ちょっと不安になったんだ」
討伐隊を皆殺しにした魔女、その魔女に呼ばれる自分は一体何者なのかと、ロザーナは1人になった夜の森の中でずっと考えていたと言う。
「ごめん、あの時はそうするしかないと思ったけど、君を1人にするべきじゃなかった」
ヘルマンの治療の為、街へと急いだギルは討伐隊員の死体が荒らされないようにロザーナに留守を頼んだ。
だが今になって思えば随分と危ない役を押し付けてしまったと反省している。
「ううん、私にできることはあれしかなかったから、それはいいの」
むしろ、とギルと出会って初めて迎える1人の夜は考え事をするのにちょうどよかったらしい。
「私もね、初めはすぐに自分のことが分かると思ってたんだ」
どこで生まれ、どこから来たのか、それくらいすぐに分かるだろう、と。
「でも何も分からなくて、ヴェラさんにカンザイコ?まで来るように言われて、私もね、ちょっといっぱいいっぱいで」
自分には何も記憶がない。
そしてその記憶の鍵を握っている人物が大量虐殺者である魔女となれば、ロザーナが不安になるのは当然のことだろう。
「ごめん。俺がもっとしっかりするべきだった」
ヴェラのことで自分が一番不安になっていると思っていた。
理由の分からないことの連続で、自分が一番混乱していると。
しかし違ったのだ。
普段何も言わないロザーナだからこそ、自分はもっとロザーナに対して気を配るべきだったのだとギルは猛省した。
「あ、でも」
とギルは早口で続ける。
「俺はロザーナがどういう人間であっても、関係ないと思ってる」
ロザーナはいい人なのだから。
ロザーナのおかけでたくさん救われてきたのだから。
ロザーナと共にカンザイコまで来いと言ったヴェラが、例えどんな話をしてきても、絶対にロザーナを守るのだと、ギルは熱く想いを伝えたのだった。




