外伝 リリアセレナの親友は呟く
リリアセレナの親友、グラディア視点の物語です。
オーウェン家の長女であるグラディアは朝からちょっとそわそわしていた。
この日はオーウェン家の縁戚に当たるフォン・アンテルノ家で内輪の宴が催される事になっていて、十三歳のグラディアもその席に呼ばれていたからだ。
この宴はアンテルノ家の継嗣ユリフォス・ジュードの帰国と、その妻リリアセレナの十三歳の誕生日を祝うものである。
近しい親族だけを招いたごく私的な集まりであったため、グラディアの他にもデビュタント前の子女が呼ばれていた。
ただし、ごく内輪の会と言っても、夜会の列席者は五十人を軽く越える。フォン・アルマディーノ家、フォン・ロビン家といった名立たる旧家の面々が顔を揃え、盛大なお披露目会となる事は間違いなかった。
因みにグラディアは、この宴の主役の一人であるリリアセレナの親友である。
アンテルノ家とは血の繋がりはないが縁戚関係にあり、義伯母であるロビン夫人リテーヌに紹介されて以来、リリアセレナとは順調に友情を育んで今に至っていた。
知り合って彼此六年となり、リリアセレナのいいところも弱いところもすべて知っていると自負しているグラディアだが、この友人に関して言えばかなり特殊な背景を背負っていると言わざるを得ない。
そもそも毛並みの良さが半端なかった。庶出とはいえ大国アンシェーゼの皇女様で、七つの時に公国の名門アンテルノ家に嫁いで来た。
夫君であるユリフォスは当時十九歳。
言わずと知れた政略結婚である。
こうした年の差婚は貴族の世界ではさほど珍しい事ではなかったが、それに別居という要因が加わるとなれば話は別だ。
婚姻を結んだ当時、ユリフォスは公国から遠く離れたガランティアという国に留学中で、親が決めた花嫁との顔合わせのために一時帰国はしたものの、またすぐに留学先へと戻っていった。
そして幼い花嫁は夫不在の婚家に置き去りにされてしまったという訳だ。
その話を初めて聞いた時、グラディアはあり得ない……と憤った。
グラディアの叔母は隣国に嫁いでいたが、ここだけの話、嫁姑関係ですごく苦労していた。
国が違えば文化や風習が異なるのは当たり前なのに、ちょっとしたしきたりの違いに戸惑う度にねちねちと嫌味を言われ、怒りのあまり、自室で扇をへし折った事もあると聞いている。
楚々とした雰囲気の叔母様であったため、その話を聞いた時は顎が外れるほど驚いた。
だから敵だらけの婚家に小さな花嫁を残し、自分だけは留学生活を楽しんでいる夫君に対し、グラディアは余りいい印象を抱いていなかった。
と言うか、心の中で結構ぼろくそに言っていた。
ところが、である。
置き去りにされた当の花嫁はと言うと、夫君が不在である事に対して清々《すがすが》しいほど何も感じていなかった。
感じてないというより、夫の事は全く眼中になかったとも言える。
嫁にとっては天敵というべき存在の舅姑から実の子どものように愛されて、婚家での生活を満喫していたからだ。
さてそんなリリアセレナは、三年前、急に夫君と文通を始めた。
ある日、自分が結婚している事に気付いたらしく(基本的に忘れるような事ではないと思うのだが)、ここは夫婦として交流を深めておくべきだと思い立ち、すぐに文を留学先の夫の許に送ったのだ。
留学生活を謳歌していた夫の方も、幼な妻から手紙が届いた事で、自分が妻帯していると久々に思い出したようだ(妻が妻なら夫も夫だった)。
慌てふためいてすぐに返事を書き送ってくれ、以来二人は仲睦まじく文をやり取りするようになった。
顔合わせから三年近く不通であったのが嘘のように二人はせっせと手紙を送り合い、互いの近況を伝え合う内に、確かな信頼と愛情を育んでいったようだ。
夫君から届く手紙をリリアセレナは心待ちにするようになり、グラディアは何度となくユリフォス様が恋しいとリリアセレナから惚気られた。
惚気を聞くのにも飽きてきた頃、六年弱の留学を終えた夫君が、先日ようやく帰国した。
そうしてこの度の宴が華やかに開催される事となったという訳なのである。
夜会も中盤に差し掛かった頃、グラディアはようやくリリアセレナと話す機会を得た。
堅苦しい挨拶回りを一通り終えたリリアセレナが、その足ですぐにグラディアのところへ来てくれたのだ。
壁際で飲み物を頂いていたグラディアは、「グラディア」と名を呼ばれ、慌てて声の方を振り向いた。
見れば、柔らかなペールピンクのドレスに身を包んだリリアセレナが、夫君にエスコートされてこちらにくるところだった。
グラディアは空になったグラスを給仕に渡し、ドレスを優雅に捌いて二人に向き直った。
夫君であるユリフォスはすらりと背が高く、やや小柄なリリアセレナとはかなりの身長差がある。
目尻がすっきりと伸びた辺りが父のアンテルノ卿によく似ていて、瞳の色も父君と同じ柔らかな榛色だった。
「グラディア。わたくしの夫のトラモント卿よ」
トラモントはアンテルノ家が複数持っている貴族位の一つで、継嗣であるユリフォスは現在、トラモント卿を名乗っている。
紹介を受けたグラディアはすっと一歩前に進み出て、渾身のカーテシーを披露した。
「お初にお目にかかります。グラディア・シシル・オーウェンにございます」
「リリアと仲良くしてくれているみたいだね」
ユリフォスは傍らに立つリリアセレナを愛おしそうに一瞥し、朗らかな声でグラディアに話しかけてきた。
「リリアからの手紙には、君の事がよく記されていた。会えてとても嬉しいよ」
「こちらこそお会いできて光栄です。
わたくしもリリアセレナからトラモント卿の事をよく伺っておりました」
そう無難に返した後、グラディアはちょっと心配そうにユリフォスを見上げた。
「ところでトラモント卿は、リリアからどんな事をお聞きになっているのでしょうか。
内容がとても気になるのですけれど」
「あら。そんな変な事は書いていないと思うわ」
笑いながらリリアセレナが言った。
「とにかく一番の仲良しだったから、いろいろな事を書いたのは確かだけれど」
「リリアはいつも君の事を褒めていたよ。しっかりしていて、いろいろな事を知っていると。
そう言えばグラディア嬢はチェンバロの演奏がとても優れているらしいね。
私も一度聞いてみたいものだ」
「お褒めいただくほどのものではございません。ほんの手慰みですわ」
グラディアが謙遜すると、リリアセレナがそれでは不十分だと言わんばかりに口を挟んできた。
「あら。グラディアの腕は手習いの域を超えているわ。
何と言っても、あのクラウディア伯母様がお褒めになるくらいですもの」
ユリフォスの伯母であるアルマディーノ卿夫人クラウディアは、貴婦人の鑑とも言われている人物だ。
そのクラウディアがお墨付きを与えられたという事は、貴族令嬢にとってこれ以上ない価値を持つ。
「それはすごいね」
ユリフォスが感嘆したように言い、手放しの称賛にグラディアはちょっと頬を赤らめた。
「それはそうと、リリアはチェンバロの腕はどうなの?」とユリフォスが妻の方を見た。
「ほら、嫁いで来た翌日に邸宅を案内していた時、チェンバロが弾けるかと尋ねたら、お聞かせするほどではありませんと答えてきただろ?
単なる謙遜なのか、それとも本当に下手なのかがわからなくて悩んだんだ」
「そんな事がありましたか?」
リリアセレナは小さく吹き出した。
「当時は七つでしたけれど、それなりに弾けたと思いますわよ。
社交辞令でそう言ったのではないでしょうか」
「リリアの腕は確かですわ」
横からグラディアも言葉を添えた。
「リリアは何をしても器用ですの。
語学や修辞学は勿論、ダンスや乗馬も得意ですし、できない事を見つけるのが難しいくらい。
不得手なのは刺繡くらいではないかと」
つい口が滑り、余計な事を言ってしまった。
グラディアはすぐにその話題から遠ざかろうとしたが、生憎ユリフォスの方がそれを許してくれなかった。
ユリフォスは「刺繍?」と呟いて、それは嬉しそうにリリアセレナの顔を見た。
「そう言えば文通を初めて間がない頃、リリアは手ずから刺してくれたハンカチを私にプレゼントしてくれたよね」
「あ。ええ、まあ……」
その話題を続けたくなかったリリアセレナは相槌を打つだけに留めたが、そんなリリアセレナの気持ちは夫君には全く伝わらなかったようだ。
「一針一針、リリアが私のために刺繍してくれたのだと思うと、嬉して堪らなかったよ。
あの翌日には友人達にハンカチを見せびらかしに行ったものだ」
ユリフォスは心底嬉しそうにそう言ったが、見せびらかしたという言葉にグラディアは思わず眉根を寄せた。
夫君に送る前にリリアセレナがそのハンカチを見せてくれたので、グラディアはその出来栄えを知っている。
はっきり言って壊滅的に下手糞だった。
あのすさまじい代物を一体誰に見せたのか、友人としては非常に気にかかるところである。
「あのう、ご友人達って例えばどのようなお方に……?」
遠慮がちに尋ねたグラディアに、
「修学院の寮で親しくしていた者達だ。
ガランティアのアルルノルド殿下には一番に見せに行ったな」
満面の笑みでユリフォスがそう答え、グラディアは思わず顔をひきつらせた。
え。よりによって他国の王族にアレを見せたの?
グラディアがおそるおそるリリアセレナの顔を窺うと、リリアセレナは死んだような目で明後日の方向を見つめていた。
「いいのよ。あれがわたくしの実力だわ。
それに当時はまだ十歳だったもの。子どもの手習いだと思えば、きっと許容範囲よ」
自分に言い聞かせるような言葉に、グラディアはそっと頷いた。
まあ、見せてしまったものは仕方がない。
この先リリアセレナがガランティアの王子殿下にお会いする機会はおそらくないだろうし、このまま忘れてしまうのがきっと一番だろう。
「殿下からは、婚約者と仲睦まじくて何よりだと言われたなあ。
私が余りに周囲に自慢するものだから、誰彼構わずそれを人に見せるのは止めた方がいいのではと、カルロから控えめに忠告されたけれど」
「カルロ……?」
やさぐれた顔で遠くを見つめていたリリアセレナがその名前にぴくりと反応した。
「カルロ様って、まさか……」
そのまま言葉を途切らせたリリアセレナに代わって、グラディアが遠慮がちに口を開いた。
「あのう、カルロ様って、エクゼス卿の御子息のカルロ様ではないですよね」
「ん? 勿論、そのカルロだけど」
うわあっ……とグラディアは顔をひきつらせた。
エクゼス卿は現大公殿下の従弟に当たり、国務卿としてマティス公国で大きな発言力を持っておられる方である。
その嫡男であるカルロはいずれこの国の要職に就かれるだろうと将来を嘱望されていて、そんな相手にあの刺繍を見られたと知った時のリリアセレナの衝撃を思うと、グラディアはもはや何と言葉を掛けていいかわからなかった。
「あのハンカチは私の宝物なんだ。
当時の事を思い出す度に幸せな気分になれるから、時折チェストから出して眺めているよ」
打ちのめされているリリアセレナとは裏腹に、ユリフォスはじーんと幸せに浸っている。
なのでグラディアは仕方なく言葉を返した。
「まあ、心が籠っていますものね」
それだけは確かである。
「お気持ちは嬉しいのですが、しまいっぱなしで十分ですわ。いえ、いっそ捨てて下さっても……」
力なく笑うリリアセレナに、
「捨てるなどとんでもない。あれを見る度に、私は勇気をもらっているんだ」
とユリフォスは力強く言い切った。
勇気ってどういう意味だ? とグラディアは思ったが、それについてはスルーする事に決めた。
傍で見ていて、リリアセレナの心がどんどん削られていくのがわかったからだ。
グラディアは親友の危機を救うべく、口を開いた。
「トラモント卿はリリアをとても大切に思って下さっておられるのですね。とても素敵なご夫婦だと思いますわ」
「ありがとう。他ならぬ君にそう言ってもらえてうれしいよ」
「トラモント卿からお便りが届く度、リリアはいつも嬉しそうにわたくしに報告してくれましたわ。
ユリフォス様がこう書かれていた。ユリフォス様はすごいでしょう。リリアが話すのはそんな内容ばかりでしたの」
「私もリリアからの便りが来るのが楽しみでならなかったよ。
三年近く妻を放っておいたのに、リリアは寛大な心で私を許してくれた。果報者だと思っているよ」
「ユリフォス様は、わたくしが初めて出した恋文の内容を今も覚えていて下さっているのですって」
ようやく気分が浮上したのか、リリアセレナが会話に混ざってきた。
ユリフォスが優しい目でリリアセレナを見下ろした。
「妻からの初めての恋文だ。忘れる筈がない」
「まあ、どんな内容でしたの?」
話の流れでつい、そう聞いてしまったグラディアは、次の瞬間自分の言動を思いっきり後悔する事になった。
「確か浮気の確認だった。
妻や恋人と別れて暮らす男の人は浮気に走る事が多いとグラディアが教えてくれたけど、浮気はしていませんよね? ってリリアは尋ねてきたんだ」
「え」
思わぬところで自分の名前が出てきて、グラディアはその場に固まった。
思わず目だけを動かしてリリアセレナの方を見ると、思い当たる節があるのか、リリアセレナは軽く苦笑した。
「そうね。確かにそのような事を書きましたわ」
「何でも男の甲斐性というらしいね」
ユリフォスが楽しそうにそう続け、グラディアは背中にぶわっと汗をかいた。
「つい、そんな事を言った覚えはありますけれど……。
でも何で、そんなどうでもいい事をそのまま書いちゃうかな」
後半の部分はリリアセレナに向けられた言葉だ。
恨めしそうな視線に、リリアセレナは「ごめんね。ついつい筆が乗っちゃったの」と、言い訳にもならない謝罪を返してきた。
「でもそのお陰で浮気疑惑が払拭されたわ。グラディアにお礼を言いたいくらい」
「浮気はしてないし、ついでに甲斐性もなかったよ」とユリフォスは笑った。
「何と言っても当時は無収入だったしね。
まあ、これから領地経営にも携わっていくけれども、私はこの先もリリア一筋だ」
思わぬ愛の告白に、リリアセレナが嬉しそうにユリフォスを見上げる。
「そうなのですか」
「勿論だ。これほど素敵な妻を手に入れたんだ。
浮気は絶対にしないと、君の親友の前で誓うよ」
あら、とグラディアは目を見開いた。
同年代の令息ならば、こんな恥ずかしい台詞を本人やその友人の前で言う事はできないだろう。
異性を意識し始める年頃でもあり、好きな女の子を前にすれば尚更、照れくささからそっけない態度を取ったり、心にもない憎まれ口を叩いてしまったりしてしまう筈だ。
けれど十二も年上の夫君であれば、そうした言葉を口にするのに一切の躊躇いはないようだった。
実のところ、グラディアは少し二人の事を心配していた。
顔合わせが済むや、親交も碌に温めぬまま六年間の別居生活に突入してしまった二人である。
文を取り交わす中で徐々に互いの事を知ってきたとはいえ、閨の相手もできないような幼い妻を夫君が本当に大事にしてくれるだろうかと密かに気を揉んでいた訳だが、こうした様子を見る限り、どうやらそんな心配は要らなさそうだ。
二人の間には確かな信頼と愛情がある。
感性が鋭く、その分どこか繊細で脆い一面を持つリリアセレナを支えるのは同年代の男性では難しいかもしれないが、このトラモント卿であればおそらく大丈夫であろう。
様々な経験を積んだ大人の男性であり、リリアセレナの感情が不安定にぶれる事があっても、大らかな愛情で包み込んでくれるような気がした。
そんな事をぼんやりと考えていれば、不意にリリアセレナがグラディアの腕に手を絡ませてきた。
「ねえ、どうして何も言わないの? もしかしてわたくし達に呆れちゃった?」
心配そうに顔を覗き込んでくるリリアセレナに、グラディアはくすくすと笑い出した。
「呆れるに決まっているでしょう?
とにかくお二人はとてもお似合いよ。年の差はあるけれど、わたくしの目にはこれ以上ない素敵な夫婦に見えるわ」
グラディアがそう太鼓判を押すと、リリアセレナは花が開くようにぱあっと顔を輝かせ、傍らのユリフォスを見上げて幸せそうに微笑んだ。




