外伝 リリアセレナと刺繍
リリアセレナとユリフォスの日常の一コマを描いてみました。応援店舗様用に書いたショートストーリーと題名は同じですが、内容は別のものです。時系列的には、こちらの作品が先になります。
リリアセレナは、歪な刺繍がされたポケットチーフをテーブルの上に広げ、どんよりとした顔でソファーに座っていた。
ここマティス公国にはある慣習がある。それは、結婚式で新郎が身に着けるポケットチーフを、妻となる女性が刺繍するというものだ。
刺繍が得意な女性ならば、こうした習わしは大歓迎だろう。一針一針思いを込めて刺繍をし、それを未来の夫君にプレゼントする。そして相手からは大感激されて、めでたしめでたしとなる訳だ。
だけど刺繍の下手糞な花嫁はどうすればいい訳? とリリアセレナは膝の上で拳を握り締めた。
リリアセレナは刺繍が大の苦手だ。
初めて完成させた刺繍はリリアセレナの愛馬を図案にしたものだったが、それを披露された父のロベルトはあからさまに動揺した。
妻ヴィヴィアが刺すものとあまりにレベルが違い過ぎて、何と言葉を掛けていいかわからなかったのだろう。
ロベルトは散々悩み抜いた末に、「可愛い犬だな」と声を掛けてきて、気遣い溢れる言葉にリリアセレナは撃沈した。
犬じゃないし!
それに鬣だって、ちゃんと刺繍したし!
物申したい事はいろいろあったが、その後もリリアセレナはめげる事なく、刺繍に精進した。刺繍は貴族令嬢の嗜みとされていたから、しない訳にはいかなかったのである。
だから夫のユリフォスと文のやり取りを始めた時には、手ずから刺繍したハンカチをガランティアに送って、想いを伝えもした。
年の離れた夫は、リリアセレナの拙い刺繍をそれはもう喜んでくれた。
そう言った意味では大成功と言えるのかもしれなかったが、嬉しさのあまりそれを友人達に見せびらかしたと知った時は、腰が抜けそうになった。
よりによって、あの下手糞な刺繍を他国の王族に見られるとは思わなかった。
そういう経緯もあって、リリアセレナはだんだんと刺繍から遠ざかるようになった。
頑張っても実力は伴って来ないし、刺繍なんてできなくても別段困らない。
普通の令嬢は刺繍くらいできないと婚家で恥をかくのかもしれなかったが、リリアセレナの場合、アンテルノの両親はリリアセレナが刺繍下手である事をすでに知っているのだ。
刺繍が下手だからと言って愛情が減る訳でもなく、何の問題もなかった。
何の問題もなかった筈なのだ。予定では。
なのに、大好きなユリフォスとの結婚式がいざ近付いてきたら、とんでもない慣習がリリアセレナの前に立ちはだかってきた。
それが式で新郎の胸に飾るというポケットチーフだった。
こんなはた迷惑な慣習を一体誰が始めたのよ、とリリアセレナはそこら中に叫び出したい気分になったが、習わしと言われればどうしようもない。
仕方なく棚から裁縫道具を取り出して、せっせと刺繍に励む事となった。
で、できた刺繍が今、テーブルの上に載っている。
刺繍した周囲の布には変なしわが寄っているし、表面もなんだか凸凹していて、まるで初めて針を持った子どもが作った作品のようだ。
あまりに下手過ぎる……とリリアセレナが項垂れていたら、ソファーの片側が沈み込み、隣にユリフォスが座ったのがわかった。
「刺繍の部分はどうせポケットに隠れるんだから、そんなに気にしなくていいのに」
慰めてくれているのかもしれないが、その言葉は暗に刺繍がど下手だと認めている。
リリアセレナはいよいよいじけたが、ユリフォスはリリアセレナの手からチーフを取り上げ、愛おしそうに口づけた。
「誰かに見られる事が心配なら、式用のものは人に頼んでもいいんだよ。商家の子とかは、お金を払って裁縫屋に頼むと聞いているし」
「え。花嫁が手ずからしなくていいんですか?」
「うん。身近な親族に頼む場合もあるみたいだ。
リリアの場合なら、母上に頼めばいいんじゃないかな」
そうしようかなとちょっと心が動いたリリアセレナだったが、すぐに大きく首を振った。
「ユリフォス様。それ多分、絶対に駄目なやつです」
「どうして?」
「だって、そのポケットチーフは最終的にユリフォス様のものとなるのですよ。お母様が手ずから刺繍したものが他の男性に渡るだなんて、あのお父様がお許しになる筈がありません」
「……」
父ロベルトは寛容な男だが、妻に関する事に対してはすこぶる心が狭い。執着心と嫉妬心が半端なく、ユリフォスはその事実をよく知っていた。
「うん。最後の案は却下だ」
ユリフォスはあっさりと前言を翻した。
それからリリアセレナの肩を抱き寄せ、そのこめかみに口づけを送りながら柔らかな声で囁いた。
「それに私の本音を言えば、結婚式の時に胸を飾るのはリリアが刺繍してくれたチーフがいい。私の我が儘を叶えてくれる?」
最愛の夫からそう言われたリリアセレナは、ちょっとだけ迷ってから、素直にこくんと頷いた。
それから一つだけ夫にお願いをした。
「このチーフは誰にも見せないで下さいね。人に見せびらかしたりしたら、怒りますよ?」
それを聞いたユリフォスは喉の奥で低く笑い、神妙な声で答えてくる。
「畏まりました、奥様」
二人はくすくすと笑いながら互いの体に腕を回した。
明るい日差しの中、リリアセレナは心から満ち足りて夫の首筋に顔を埋める。
ユリフォスはリリアセレナのつむじや額に蝶が戯れるような口づけを落とし、最後に顔を上げさせて、妻の唇に思いの丈を示してきた。
ユリフォスが帰国してからの二人の様子を、少しでも楽しんでいただけますように。
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