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17 アンテルノ家での日々


 リリアセレナは今まで自分の傷にばかり心を囚われて、ベルがどんな気持ちでこの家にいるのかなんて考えた事がなかった。

 それどころか、荒れていた時期はベルにも散々当たり散らした記憶がある。


 いつもにこにことリリアセレナに従ってくれるベルだが、よくよく考えれば、ベルはリリアセレナよりたった七つ年上というだけだ。

 とんでもない主に配されてしまったと、嫌気が差していてもおかしくない。


 その晩リリアセレナは、その辺りの事を含めてベルの気持ちを聞いてみようと思い立った。

 リリアセレナが嫁いで以来、ベルはずっと自分の傍にいてくれたのに、自分はベルについてほとんど知ろうとしなかった。何と言う薄情な主であったのだろう。


「ねえ、ベル。ベルはいつからこのお屋敷で働いているの?」


 リリアセレナの着替えを手伝っていたベルは、唐突にそんな事を聞かれ、戸惑ったように顔を上げた。


「十一歳の時からですわ」


「……お父様やお母様と離れるのは寂しくなかった?」


 躊躇いながらそう尋ねると、

「寂しくないと言えば、嘘になりますけれど」

 とベルは笑った。


「わたくしの家は貴族とは名ばかりで、金銭的に余裕もありませんでしたの。

 だから、いずれ行儀見習いに出される事は決まっていました。

 どこの家に出されても文句は言えないと思っていましたら、思いがけず旧家の侍女として雇っていただけるようになって、夢のようでしたわ。

 それに、こちらのお館様と奥様はお優しい方で、使用人に当たり散らすような事もなさいません。

 わたくしはとても恵まれていると思っております」


「それならいいけれど」


 でも、辛い事がない訳じゃないよね……とリリアセレナが思っていると、ベルはいたずらっぽく口を開いた。


「リリア様、世の中には考えられないほど意地の悪い主人もいるのですよ」


「意地の悪い主人って?」


「例えば、小間使いの手癖が悪いかどうかを確かめるために、わざと硬貨を家具の下に置いておくような主人もいるんです。

 きちんと報告してくるか、試すためでしょうね」


「もし、その子がお金を自分のものにしちゃったらどうなるの?」


「解雇になりますわ」とベルはあっさり答えた。


「他にも些細な事で暴言を吐いたり、折檻をしたり、ひどい家を上げればきりがありませんわ。

 それに主家筋や家令が権力をちらつかせて小間使いを手籠めにするという話も耳にした事がありますもの」


 そう口にした後、ベルはあっと口を押さえた。八つのリリアセレナに対して不適切な事を言ってしまったと気付いのだろう。

 だからベルは慌てたように話題を変えてきた。


「わたくしは十一で家を出ましたけれど、農家や商家の子どもはもっと早い時期に奉公に出される事もあるようですわ。

 十になるかならぬかで家を出され、住み込みで働くようになるのだとか。

 朝から晩まで働かされて、お休みは月に一度か二度。なけなしの給料を家に仕送りして、楽しみと言えるような楽しみもないと聞きました。

 それを思えば、わたくしは十分に恵まれておりますわ」



 その晩リリアセレナは、自分だけが不幸だと思い込んで世界を呪っていた頃の事を久しぶりに思い出した。

 離宮という狭い世界に閉じ込められて、言葉を交わす相手は母様と家庭教師と侍女達だけ。

 だから闇雲に母の愛情に縋ってしまい、自分で自分を追い詰めてしまったのかもしれない。


 けれどグラディアの言う通り、傷だと思うから余計に大きく思えるのだ。

 アンシェーゼの母は子どもを愛せない人間だった。

 ただそれだけの事だ。


 今のリリアセレナには優しいお父様とお母様がいて、世界を広げてくれるグラディアがいて、アルラやベルも傍にいてくれる。

 今はまだ僅かな痛みを覚えていても傷はいずれ消えていくものだし、もし一生消えなくてもそれを抱えて生きていけばいいだけだ。




 アンテルノ家での日々は瞬く間に過ぎていき、七つで嫁いだリリアセレナはいつの間にか九つになっていた。

 ベルはいい縁を繋いでアンテルノ家から去り、今はベルに代わって新しい侍女見習いがアルラの下に付いている状態だ。


 九つになったリリアセレナの目下の関心事は、ヴィヴィアお母様を今よりも健康にする事だ。


 リリアセレナは毎日のようにダンスの練習をして、週三日は乗馬に興じる。

 体をよく動かすからお腹も空き、出された食事は好き嫌いなく何でも食べていた。


 けれどヴィヴィアは、家で刺繡をしたり読書をしたりして過ごすのを好むタイプだ。だから食も進まない。

 料理長のレデスに聞いたところ、朝は紅茶とフルーツだけで済ませる事も多いようだ。


 体つきもほっそりとしていて、少し風に当たると、晩には喉の痛みを覚えてしまう。

 月に一度は熱を出し、寝所で過ごしていた。

 ロベルトはそんなヴィヴィアを案じて、南のダナンから珍しいフルーツを取り寄せたり、滋養に効くと言われる食べ物を集めさせたりしているが、余り効果があるようには見えない。


 そんな時、陽をよく浴びると体が健康になると耳にしたリリアセレナは、庭園の散歩にヴィヴィアを誘ってみようと思い付いた。

 早速、かかりつけのフォール医師に相談したところ、体を動かす事は健康にもいいし、夜もよく眠れるようになる筈だと諸手で賛同してくれた。

 ただ、強い陽射しは体に堪えるのできちんと日傘をさし、短い時間から少しずつ体を慣らしていくようにと注意を受けた。


 これまでは侍女達に散歩を勧められても気が乗らないと断っていたヴィヴィアだが、九つの娘から上目遣いにおねだりされたら無碍むげにはできない。

 仕方ないわねと、時々付き合ってくれるようになった。


 そのうちヴィヴィアを誘う回数はだんだん増えていき、いつの間にか軽い散策をする事が、二人にとっての日常に変わっていった。


 いつしか季節は六月になっていて、吹き渡る風が肌に心地よい。

 庭を歩けばさわさわと葉の擦れる音が耳朶じだを打ち、その中で二人は庭園の緑を楽しんだ。


 クチナシの甘い香りが初夏を告げるように鼻をくすぐる。

 庭園を散策しながら二人でお喋りに興じ、気に入った花を見つければ、庭師のクタンに頼んで摘んでもらった。ロベルトの執務室に飾ってもらうためだ。


 夏は夕べに水を撒いてもらい、仄かな涼を二人で楽しんだ。

 暑さに項垂れていた花が水を得て生き返る様を楽しみ、水を撒いた後のむっとする土の匂いに夏を感じた。


 そんな風に散策を楽しむようになって、ヴィヴィアの血色が少しずつ良くなってきたような気がした。

 朝の食事量も増え、月に一度寝込んでいたのが、回数が明らかに減っている。


 ロベルトは大層喜び、冬にもヴィヴィアが散策できるようにと、館の西側にコンサバトリーを建て始めた。

 このコンサバトリーは屋根や壁面がガラス張りになった建物の事で、陽光を取り込みながら冷気や風を遮るため、冬でも比較的暖かい。

 この冬の完成は見込めないが、次の冬には陽の差し込む広々としたコンサバトリーで、散歩を楽しむヴィヴィアの姿が見られる事だろう。




 やがて木々の緑は日ごとに鮮やかさを増していき、色づいた葉が散り落ちる頃に冬がやって来た。

 リリアセレナは十歳になり、一つ大人になった自分を姿見に映して満足そうな吐息をついた。


 嫁いできたばかりの頃は子どもらしい肉付きもなく、弱々しく痩せていたが、今は体つきもふっくらとしている。

 肌は透き通るように白く、小柄な顔をウエーブのかかった美しい金髪が取り巻いていた。


 顔の中で一番のお気に入りは、お母様と同じぱっちりとした緑色の瞳だ。

 ちょっぴり神秘的で、吸い込まれるような深い色合いをしている。


 以前はこの緑の目が好きではなかったが、グラディアから「ヴィヴィア伯母様とお揃いできれいな目ね」と言われ、俄然大好きになった。

 ついでに言えば、金髪だってヴィヴィアとお揃いだし、小顔であるところもよく似ている。

 だからリリアセレナはすごく自分の容姿が気に入っていた。


 さてそのグラディアは、貴族令嬢の間で流行っているという恋愛小説の本をこっそり持って来てくれるようになり、リリアセレナはすっかりそれにハマっていた。

 様々な冒険譚や動物の物語も面白いが、女の子同士で盛り上がれるのはやっぱり恋バナである。


 因みに、「お母様の初恋はいつなの?」とヴィヴィアに聞いたところ、まるで少女のように頬を染めたヴィヴィアから思いっきり惚気話をされてしまった。

 ヴィヴィアはどうやら物心がつくかつかないかといった頃から、ロベルト一筋であったらしい。


 小さい頃のロベルトの話や、いかに優しく格好良かったかとかを怒涛のように話をされて、この話題をお母様に振るべきではなかったとリリアセレナは心底後悔した。

 お父様は確かにハンサムだが、リリアセレナにとってはただそれだけだ。

 ときめきは一切感じないし、そもそも惚気話を延々と聞かされるのがこんなに面倒くさいものだとは思わなかった。


 思わずその事をグラディアに愚痴ったら、さもありなんとばかりに頷かれた。


「アンテルノの伯父様と伯母様は仲が良すぎるのよねえ。お父様なんか、比べられて迷惑だって散々零してたもの」


「比べられるって何を?」


「妻に対する気遣い、愛情、思いやり」

 グラディアは言下に答えた。


「伯母様が体調を崩して寝込んでおられた時は、手ずから食事を口に運んでいたとか聞いているわ。

 普通のご夫君はそんな事はしないわよ。枕辺を見舞うくらいはするでしょうけど、せいぜいそのくらいでしょ。

 だからお父様は、その手の話題をなるべく母の耳に入れないようにしていたみたい」


 それを聞いたリリアセレナは、二人はある意味、傍迷惑な夫婦なのかもしれないなどとつい思ってしまった。


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