18 夫の存在を思い出す
朝の光が差し込むモーニングルームで、ヴィヴィアは静かに刺繍をしていた。
刺繍は貴族女性の嗜みとされていて、ヴィヴィアは毎年、ロベルトの誕生日に自分が刺繍したものを贈っている。今年は寝所に飾るサシェにしようと決めたらしく、数日かけて図案を決め、いよいよ針を刺し始めたところだった。
一針一針心を込めて刺繍するヴィヴィアの傍で、リリアセレナは飽きもせずにその様子を眺めている。
サシェの中に入れるポプリはすでに準備できていて、刺繡が終われば生地をサシェの形に縫い上げ、中にポプリを入れるだけだ。
ヴィヴィアの手によって刺繍されていくそれは、魔法のように鮮やかだ。
微妙に色の異なる刺繍糸がいくつも用意されていて、美しいグラデーションを作っていく。
その様子にうっとりと見入っているリリアセレナだが、見る事は好きでも、自分で刺繍をするのは余り好きではなかった。
何と言うか、リリアセレナにはその手のセンスが皆無であったからだ。
リリアセレナだって自分がやってみるまで、己がこれほど刺繍に向かない人間だとは思ってもいなかった。
辛抱強くヴィヴィアに教えてもらったが、なかなか思うように上達しない。
配色だけならば、アドバイスをしてもらえば何とかなる。けれど、ちょっとした針の刺し位置とか力の入れ具合だとかは、結局本人の技量になってしまうのだ。
これではいけないと思い立ったリリアセレナは、半年前、思い切って大作に挑む事にした。
小さいものをちまちまと作るから下手糞に見えるのだ。可愛がっている愛馬のキャリーをモデルに刺繍したら、きっと素敵な作品が仕上がるに違いない。
そう思ったリリアセレナは四か月という時間をかけて、何とかキャリーの刺繡を完成させたのだが、結果は惨憺たるものだった。完成品を見たロベルトはあまりの下手さに言葉を失い、ようやくかけてきた言葉が、「可愛い犬だな」だ。
子どもながらにリリアセレナは大いに傷付いた。
本当はもう刺繍なんてしたくもなかったが、一応淑女教育の一環となっているので、地道に精進は続けている。
それにまだ、リリアセレナはたった十歳だ。
今は下手でもそのうち上手になるかもしれない。そんな望みを捨てきれずにいた。
「お母様はいいなぁ」
胸に抱いた大きなクッションに顔を埋めるようにしてリリアセレナは呟いた。
「何だか魔法の手みたい。きれいな図案が次々に布の上に浮かび上がってくるし、お父様のために刺繍するお顔がとても幸せそう」
そしてつい言っちゃった訳である。
「お母様にとってのお父様みたいに、素敵なだんな様がリリアにも現れないかしら」
それを聞いたヴィヴィアは刺繍を刺していた手を止め、くすくすと楽しそうに笑い出した。
「リリアにはもうだんな様がいると思うけれど。
もしかしてもう、忘れちゃった?」
言われたリリアセレナはあっと声を上げた。
そう言えば自分はもう人妻だった。
そもそも自分は政略結婚でユリフォスの許に嫁ぎ、この家に迎え入れられたのだ。
お父様やお母様に愛される日々が楽しくて、すっかりその事を忘れていた。
「あのぅ、お母様」
眉間にくっきりと皺を寄せて、リリアセレナはヴィヴィアの顔を見上げた。
「あの……、ユリフォス様ってどんな人でしたっけ? もうお顔も全く覚えていないんですけれど」
その夜、リリアセレナは机に向かってせっせと書き物をしていた。
相手は言わずと知れたユリフォスである。
自分に夫がいる事を久しぶりに思い出したリリアセレナは、円満な夫婦関係の構築を目標に、夫との距離を縮めていこうと思いついたのだ。
『ユリフォス様、覚えてますか。妻のリリアセレナです』
夫に向かって、覚えていますかと尋ねるのも妙な話だが、実際に忘れられているような気がするのでこう書いて構わないだろう。
『突然のお手紙で、驚いていらっしゃると思います。
実は昨日、リリアは久しぶりにユリフォス様と結婚しているのを思い出しました。
お父様とお母様はとっても仲が良くて、私もお父様みたいな人と結婚したいなあとお母様に言ったところ、リリアにはもうだんな様がいると思うけれど、とお母様に笑われたからです。
そう言えばそうだったと思い出しましたが、ユリフォス様の事を忘れていても仕方がないと思います。
リリアは一度もユリフォス様からお手紙を頂いた事がありません。
お誕生日にリリアにプレゼントを下さった事もありませんよね』
これは恨み言に聞こえてしまうかしらと、リリアセレナは自分の文章を読み返しながら心の中で呟いた。
でもまあ、自分も結婚している事を忘れていたと素直に告白している訳だし、手紙を書かなかったのもプレゼントを贈らなかったのもお互い様なのだから、そう気にしないだろう。
ただ、確認しておきたい事はあった。
先日グラディアとお喋りしていた時に出てきた言葉がとても気になってきたからである。
『もしかしてユリフォスさまは浮気とやらをなさっているのでしょうか』
これはリリアセレナにとって由々しき問題だった。恋を夢見るリリアセレナにとって、妻以外に恋人がいるなんて許せる筈がない。
『妻や恋人と別れて暮らす男の人は、浮気に走る事が多いとグラディアが教えてくれました。何でも男の甲斐性というらしいです。
甲斐性という言葉を本で調べたところ、根性があり、働きがあって頼もしい気性と書かれていました。
誉め言葉なのに、それがどうして浮気と結びつくのかリリアにはわかりません』
素直に思ったままを書いたらいいとお母様から言われていたため、リリアセレナは思いついたままを書き連ねていった。
『結婚しているのを思い出してから、お母様にユリフォス様の事を色々聞きました。
とても学問が好きで、王立修学院への進学を自ら希望されたとか。数術の基本過程を終え、今は農学を勉強なさっているのだと言われました。
お顔も思い出せませんとお母様に言ったら、お父様と同じきれいな金髪で、瞳の色もお父様と同じでとてもやさしい薄茶色の瞳をしているのよと言われ、そこから何故かお父様の惚気が始まりました。
延々と続くので、リリアは最後にはあくびが出ました』
お母様にお父様の惚気をさせてはならないと注意していたのだが、いつの間にかお父様の話になっていた。油断も隙もあったものではない。
物心ついた頃からお父様にあこがれていたというお母様は、お父様愛を語らせたらいくらでも喋り続ける。
ある時、その場に偶偶お父様がやって来られ、これでやっとこの話から解放されると思ったところ、お父様は照れるどころか、満足そうにその話に聞き入っておられた。
この二人は一体何なの? とリリアセレナが思ったとしても無理からぬだろう。
今思い出しても体が痒くなるけれど、まあ、そんな事はどうでもいい。
それよりも今日は伝えたい事があって、こうやって手紙を書いているのだ。
『お父様に愛されているお母様のように、リリアもだんな様に大切にされたいのとお母様に言うと、じゃあお手紙を書いたらどう? と言われました。
ユリフォスは優しい子だから、きっとお返事をくれる筈よって。
リリアは期待していいでしょうか。
最後になりましたが、わたくしの事はリリアと呼んで下さいね。お母さまとお揃いの名前みたいでとても気に入っています。
リリアより』
恋文を書き終えたリリアセレナは、達成感と共に筆をおいた。
封筒に入れると、蝋の入った小さな柄杓を持ってきてもらい、ランプに翳して蝋を溶かす。
張り合わせの部分に溶けた蝋を垂らし、固まらない内に印鑑を押す。
これで封蝋は完成だ。
明日、郵便を扱う業者に頼んだとして、ガランティアに届くのはいつだろうか。
うまくいけば三、四日で着く筈だが、巡り合わせによっては十日近くかかるかもしれない。
この手紙を読んだユリフォスはどんな事を思うかしらとリリアセレナは考えた。
祖国に置いてきた幼い妻の事をちゃんと思い出してくれるだろうか。
返事が欲しいなとリリアセレナは思った。
このままひと月もふた月も放置されたら、リリアセレナは泣いてしまうかもしれない。




