14 変化
その後、リリアセレナは声が枯れるまで泣き続け、しまいには目も鼻も赤く腫れて、頬に斑点まで浮かんだ。
こんなに泣いたのは生まれて初めてだった。
感情を一気に放出したリリアセレナはしばらく放心状態になっていたが、夜までには何とか落ち着いて、ロベルトやヴィヴィアのいる食事の間へと向かった。
お祈りをすっぽかした事を謝ってもいないし、そもそも行動を改める気もない。
ものすごくばつが悪かったけれど、そんなリリアセレナを、ロベルトとヴィヴィアは何もなかったかのように普通に迎え入れた。
いつもと同じように言葉をかけてくれ、穏やかな雰囲気で晩餐を終える事ができた。
胸に溜まっていた鬱憤を吐き出した事で、リリアセレナの感情は随分と落ち着いた。
ただし、これまで実母から受けてきた理不尽がこの一回の感情爆発で帳消しになる筈もなく、リリアセレナの反抗はその後もしばらく続いた。
相変わらず朝のお祈りはさぼっているし、小さな我が儘は日常茶飯事だ。
本当なら厳しく躾けられて当然だったが、リリアセレナの場合は愛着障害から起こる問題行動だと認識されていたようで、頭ごなしに叱られた事は一度もなかった。
以前はほとんど表情の動かなかったリリアセレナだが、この辺りから自然な笑顔を見せるようになっている。
ロベルトやヴィヴィアの姿を見ると嬉しそうに顔を綻ばせ、頭に手を伸ばされても怯える事はなくなった。
「わたくしの事をリリアって呼んで」
そんな事を言い出したのもこの頃である。
母のヴィヴィアと響きがお揃いなのが気に入って、周囲にそう呼ばせ始めた。
絵本の読み聞かせからは卒業し、家庭教師の授業も素直に受けるようになったが、今度は何を思ったか過食に走り始めた。
アンテルノ家では、離宮にいた頃のようにひもじい思いをさせられた事は一度もない。
けれど満足に食べさせてもらえなかった頃の分を取り戻すように、リリアセレナはお腹がいっぱいになってもまだまだご飯を欲しがった。
リリアセレナは平均より体も小さく、胃も小さくなっていたため、大した量が食べられる訳ではない。
それでも憑りつかれたように食べ物を口に運び、時には後で吐いていた。
食べ過ぎるせいでお腹もよく壊すようになり、そうした報告をアルラから受けたロベルトとヴィヴィアは当然心配したが、リリアセレナを注意をする事はなかった。
医師のフォールから、今は気が済むまでさせるようにと強く言われていたからだ。
幸いな事に、この異常な過食は半月ほどで収まった。
結局、食べ過ぎて苦しい思いをするのはリリアセレナ自身だし、何だか馬鹿らしくなったからだ。
それに何だか顔がぷくぷくしてきた事も気になり始めた。
リリアセレナはまだ七つだが、それなりに容姿は気になるのである。
季節は中夏となり、肌に纏いつくような暑さを覚えるようになっていた。
先ほど雲が急に空を覆ったかと見るや大粒の雨が地面を叩きつけ、ひとしきり雨が降った後にはからりと晴れ上がった。
ひと雨来たせいで、汗ばむような熱気は少し和らいている。
空を見上げれば雲が逃げるように遠ざかっていて、夕立を避けるように木陰に隠れていた小鳥や虫達も、少しずつ顔を覗かせ始めた。
雨に濡れた葉が陽に照り輝いている。
まるで暑さで萎れていた草木が、一気に瑞々しさを取り戻したかのようだった。
リリアセレナは早速、庭園の散策に向かった。雨が上がった後の庭園を五感で楽しみたかったからだ。
雨上がりの庭園はむわっとした独特の匂いが満ちている。土や草木の匂いがいつもより強くなって、照り付ける太陽の匂いまでも感じられる。
そんなふうに夏の庭を楽しんでいると、ヴィヴィアが庭先に姿を見せた。
暑さが少し和らいだため、珍しく庭園に出てきたようだ。
「お母様!」
リリアセレナはぱあっと顔を輝かせた。
そのまま何も考えずにヴィヴィアの許へと駆け出し、そしてその事件は起きた。
濡れた石畳でリリアセレナが足を滑らせ、勢いよく転倒してしまったのだ。
咄嗟の事で受け身も取れなかった。
その上リリアセレナが転んだ先には、角の尖った石のベンチがあった。
ガツンと強く額を打ち付け、そこからの記憶がない。
気付けば、必死の形相でアルラが自分の名を呼んでいた。
右のおでこが痛く、思わず手を伸ばしたら、ぬるりとした赤いものがべっとりと手についた。
リリアセレナはぎょっとして悲鳴を上げようとしたが、目を動かした先に倒れ込んでいる人の姿を認めて息を呑んだ。
ヴィヴィアだった。
元々色白だった顔からすっかりと血の気が引き、人形のようにピクリとも動かない。
その時になって、ヴィヴィア付きの侍女が必死になって主の名を呼び、揺り起こそうとしている事に初めて気付いた。
「お母様……!」
血が逆流するような恐怖がリリアセレナを襲った。
ヴィヴィアの顔は蝋のように白く、侍女がいくら呼んでも固く瞑った瞼を開ける事はない。
リリアセレナはアルラが止めるのも聞かず、よろめくようにヴィヴィアのところに向かった。
「お母様、目を開けて!」
ヴィヴィアの体が丈夫でない事は、これまで何度となくアルラ達から聞いている。
このまま儚くなってしまうのではないかという恐怖で、リリアセレナは恐慌状態に陥った。
「お母様、しっかりして……!
お願い、目を開けてっ!」
その体に取り縋り、必死に揺り起こそうとするリリアセレナを、アルラが慌てて後ろから取り押さえる。
「リリア様! 落ち着いて下さいませ!
誰かフォール先生を……!」
騒ぎに気付いたらしい使用人達がわらわらと集まってくる。
気を失ったヴィヴィアの体は毛布のようなもので大事そうに包まれ、従僕らによって館内に抱き運ばれていった。
「お母様、お母様……!」
顔を半分血だらけにしたまま、リリアセレナはアルラの腕の中で暴れ、泣き叫んだ。
死人のように青ざめたヴィヴィアの顔が頭から離れない。
この世界からヴィヴィアが消えてしまうと考えただけで、世界が暗く押し潰されていく気がした。
この件はすぐにロベルトへと報告され、外出していたロベルトは急いで館に戻ったらしい。
ヴィヴィアの病室には慌ただしく人が出入りし、額の手当てを受けたリリアセレナは自室で待機していた。
ヴィヴィアもリリアセレナも精神的にかなり不安定になっており、二人を近付けるべきではないと医師のフォールが判断したからだ。
リリアセレナの傷は丁寧に消毒され、今は白い包帯が巻かれていた。
痛み止めが処方され、目を真っ赤にしてしゃくり上げるリリアセレナを、侍女のアルラがずっと抱きしめて慰めていた。
「お母様は大丈夫です。
今は薬が処方されて、眠っていらっしゃるそうですわ。そのうち、会いにも行けるでしょう」
泣く事にも疲れ、アルラの胸の中でぼうっとリリアセレナが目を閉じていると、やがてロベルトの訪室が知らされた。
ヴィヴィアの容態を確かめた足で、そのままリリアセレナの様子を見に来てくれたようだ。
リリアセレアの傍に座していたアルラがすぐに席を立ち、ロベルトのために席を空ける。
「お父様……」
ソファーに体を埋めたまま、リリアセレナは泣き濡れた顔を上げた。
ロベルトはその正面に立ち、膝を屈めてリリアセレナと目線を合わせた。
「額の傷は痛まないか?」
「わたくしは大丈夫です」
頭の怪我であったため思う以上にたくさんの血が出たが、傷は深くない。
ちょうど髪の生え際なので、傷が残ったとしてもさほど目立たないだろうとフォールにも言われていた。
「お母様の具合は如何でしょうか?」
「心臓に負担がかかったみたいでね。今は鎮静剤を与えられて眠っている。
目が覚めたら、リリアに会いたがるだろう。
それまで待ってやってくれるかな」
「……お母様の顔色が真っ白で、何度呼んでも目を開けて下さらなかったの」
そう呟いた途端、堪えきれない涙がひとしずく頬を伝って落ちた。
ロベルトは頷き、柔らかな吐息を一つ落とした。
「リリアの額から血がたくさん出たから驚いたようだ。
……ヴィヴィアは一度、我が子を亡くしている。リリアまでも死んでしまったと思い、心が耐えられなかったのだろう」
リリアは、自分が嫁いで来る前のこの家に、もう一人女の子がいた事を思い出した。
ロベルトには子が三人いて、一番上の子は分家してジュベル卿を名乗り、次男のユリフォスが継嗣となっている。
二人ともヴィヴィアの実子ではなく、ヴィヴィアが産んだエリーゼという女の子がアンテルノの名を継ぐ予定であったのだが、二年前に亡くなっていた。
「お母様を傷つけるつもりはなかったの」
リリアセレナはぽろぽろと涙を零した。
「リリアセレナがうっかり足を滑らせただけで、あんなにお母様を追い詰めてしまうなんて思わなかった……」
気を失ったヴィヴィアの顔は青白くて、握った手は氷のように冷え切っていた。
もしリリアセレナの怪我がもっとひどくて、万が一にも死んじゃっていたら、あの優しい人をどこまで悲しませたか想像もつかない。
「もう二度とお母様を悲しませたりしない……」
自分に誓うようにリリアセレナは言葉を絞り出した。
「もう絶対に、こんな風にお母様を心配させたりしない。リリアは病気にもならないし、怪我だってしない。
リリアはもう、お母様をこんな風に傷つけたくないの……」
今まで散々我が儘を言ってきたけれど、どんな我が儘もヴィヴィアは笑って受け入れてくれた。
けれどヴィヴィアは、リリアセレナを失う事だけは耐えられないのだ。
リリアセレナはきちんと愛されていた。
試すような事をわざわざしなくても、リリアセレナはとっくに欲しいものを手に入れていたのだ。
「ごめんなさい」
アンテルノ家に来て初めて、リリアセレナはロベルトに頭を下げた。
「我が儘ばっかり言ってごめんなさい。いっぱい迷惑をかけてごめんなさい」
ロベルトはゆっくりとリリアセレナの傍らに腰掛けた。
しゃくり上げながら一生懸命謝るリリアセレナの肩に手を伸ばし、その頭を自分に抱き寄せる。
「リリアの我が儘など、大した事ではない。
生まれ育ったアンシェーゼでは、我が儘も碌に言えなかったのだろう?
いろんな事を今までずっと一人で我慢してきて、リリアがその事を理不尽だと感じても無理はない」
「うん」とリリアセレナは泣き笑った。
あの憤りと哀しみを誰にもわかってもらえないと思っていたけれど、お父様はちゃんとわかってくれていた。
リリアセレナの心の傷を知り、だから傷が癒えるまで黙って見ていてくれたのだ。




