11 虐待を知られる
一旦声を出してしまったら、恐怖を抑える事はもうできなかった。
ごめんなさい。ごめんなさい。すぐに元気になります。ですからぶたないで。リリアセレナはできの悪い子です。女の子に生まれてしまってごめんなさい。役立たずでごめんなさい。だからどうかぶたないで。リリアセレナはいい子になります。ちゃんとお約束します。だから許して……。
リリアセレナは必死に懇願した。
泣き叫ぶリリアセレナの体を誰かが抱き締めてくる。
リリアセレナは半狂乱になってもがき、その腕から逃れようとした。
けれどどんなに暴れても、その温かな腕はリリアセレナを決して離そうとしなかった。
「大丈夫よ、リリアセレナ。どうか怖がらないで」
優しい言葉が何度となく頭上から落とされる。
頬に押し付けられたふっくらとした胸からは規則正しい心臓の鼓動が聞こえた。
「落ち着いて。もう大丈夫」
柔らかな吐息を髪に感じる。
震えるリリアセレナの体をしっかりと抱き締め、その女性は宥めるように何度もリリアセレナの背中を撫でてくれた。
「貴女をぶつような人はここにはいないわ。
だから怖がらないで。
大丈夫よ。怖い事は何もないの」
リリアセレナはぼんやりと目を開ける。
最初に目に入ったのは、温かみのある淡黄色の絹のドレスだった。
ひくひくとしゃくり上げながら、リリアセレナはおそるおそる顔を上げた。
母のカーラではなかった。
目は母と同じ緑色をしていたけれど、同じなのは色だけだ。
目がつり上がったカーラとは似ても似つかない。
ふっくらとした唇が優しい弧を描き、取り巻く空気はどこまでも穏やかで優しかった。
緑の瞳と真正面から目が合ったが、今度はさっきほど恐ろしいと感じなかった。
リリアセレナは警戒しながらヴィヴィアの服にそっと手を伸ばす。
袖を掴んで表情を探ったが、そこにリリアセレナへの嫌悪や敵意は微塵も感じられなかった。
そっとその胸に顔を埋めれば、優しかったネリーと同じ温もりが伝わってきた。
「いい子ね」
背中にあった手がそっと離れ、リリアセレナの頭を優しく撫でた。
リリアセレナは何度かまばたきをし、それからふわっと一つ欠伸をした。
もう一度ヴィヴィアの顔を見上げ、その目が優しく細められている事を確認してゆっくりと目を閉じた。
額に柔らかな感触を感じ、口づけられた事をリリアセレナは知る。
そのままゆっくりと寝台に寝かされたが、リリアセレナはもう逆らわなかった。
ヴィヴィアは頬を寄せたまま、細い指でリリアセレナの髪をそっとかき上げてくれた。
「眠るまでここにいてあげる。
怖いものは何もないわ。だからゆっくりおやすみなさい」
この女の人なら信じていいのかもしれないとリリアセレナはぼんやりとそう思った。
その後、うとうとと眠りかかっては目を開けてヴィヴィアの姿を確かめ、それを何度か繰り返すうちにリリアセレナは本格的な眠りへと落ちていった。
あの人は敵ではないのかもしれない。
目覚めてリリアセレナがまず思ったのは、新しく義母となったヴィヴィアの事だった。
微熱があったリリアセレナは朝の礼拝に参加せず、一日を寝台で過ごす事になったが、朝餐を終えてしばらく経った頃、そのヴィヴィアがリリアセレナの部屋を訪れてくれた。
「今日の気分はどう?」
優しく問われて、リリアセレナは「だいぶ良くなりました」と小さな声で答える。
「朝は全完食できたと聞いたわ。
よく頑張ったわね」
こんな事で褒められたのは初めてだった。何となく心がくすぐったくなってしまう。
「貴女の額に触っていい?」
リリアセレナは頷いた。
急に手を伸ばされると少し怖いけれど、声をかけてもらってからならば大丈夫だ。
額に手を当てたヴィヴィアは、「もうほとんど熱は下がったわね」と唇を綻ばせた。
「私が触るのは嫌?」と続けられ、リリアセレナはどうだろう……と考える。
「多分、嫌じゃない、です」
言い方が不愛想だっただろうかと思ったリリアセレナは、慌てて付け足した。
「手が気持ちいいです」
「じゃあ、お母様の手が気持ちいいですと言ってみて」
リリアセレナはちょっと躊躇った。
母様という言葉はリリアセレナにとって恐怖を呼び起こす言葉であったからだ。
それでも、優しい手をしたこの女性をお母様と呼ぶ事に嫌悪は感じなかった。
「……お母様の手が気持ちいいです」
おそるおそるそう口に出すと、ヴィヴィアは嬉しそうに笑った。
「よくできました」
ヴィヴィアはゆっくりとその手を伸ばし、リリアセレナの頭をもう一度撫でてくれた。
「わたくしはこれから刺繡をするのだけれど、貴女の傍でして構わないかしら」
リリアセレナは頷いた。
体はまだ怠いし、今日一日はずっとベッドで過ごすようになるだろう。
横になっていてもする事がないし、一人ぼっちで過ごすのは何だか寂しい気がした。
リリアセレナの了解を取ったヴィヴィアは、刺繍道具一式を取ってこさせ、リリアセレナの傍らで針を刺し始めた。
刺繡は貴族の女性の嗜みだと言われていたが、リリアセレナはまだ習った事がない。
布がぴんと張るように枠で固定され、その布地の表面に針が入ったり出てきたりするのを、リリアセレナは物珍しそうに寝台の上から眺めた。
微妙に色の違う刺繍糸が艶やかなグラデーションを作り、濃淡のある美しい模様を仕上げていく。
「きれい……」
思わず呟いたリリアセレナに、ヴィヴィアは優しく微笑みかけた。
「これは貴女のハンカチよ」
「え」
「アンテルノ家の家紋と貴女の名前を縫い取っているの。
名前は貴女の好きな色で刺繍しましょうね」
わたくしのハンカチだったんだ……。
弾けるような嬉しさが胸の奥底からこみ上げてくる。
「わたくしも……いつか刺繍をしてみたいです」
勇気を出してそう言うと、ヴィヴィアはにっこりと頷いた。
「いいわ。元気になったら一緒にしましょうか」
したい事ができたのは初めてだった。
その事が叫び出したいほど嬉しくて、その反面、期待する事が少しだけ恐ろしかった。
義父のロベルトが領地エトワースから帰宅したのは、その翌々日だった。
被害の状況や橋の架け直しに向けた資材の調達や試算などを取りまとめていたため、時間がかかったようだ。
ヴィヴィアの存在には慣れてきたリリアセレナだが、いかにも旧家の当主然としたロベルトは、どこか近寄りがたい威厳があって気怖じした。
無意識にヴィヴィアのドレスの陰に隠れてしまい、それを見たヴィヴィアにくすりと笑われた。
晩餐の席は、以前よりもきちんと会話ができたように思う。
言葉に詰まっても、ヴィヴィアが大丈夫というように微笑みかけてくれたから、落ち着いて返答をする事ができた。
「アンシェーゼとマティスでは、慣習も信仰もかなり異なっている。
戸惑う事も多いだろうが、焦る必要はない」
ロベルトから穏やかにそう言葉を掛けられて、リリアセレナは「はい」と頷いた。
まだ完全に、新しい義父母を信じた訳ではない。
けれどほんの少しだけ、この二人に心を許してもいいような気がした。




