10 夫との別れ
朝餐は夫のユリフォスと二人きりでとった。
会話が弾まなくて、気まずい事この上ない。きっと相手も同じように思っているだろう。
朝餐の後、ユリフォスはリリアセレナを応接の間に誘ってきた。
「本当は庭園を散策したかったのだけれど、この雨だから……」
ユリフォスの言葉通り、今日は朝から激しい雨が降っていて、とても散策を楽しめるような天気ではない。
応接の間ならば窓が広く取られているので、ここならば少しは庭園の景色が楽しめるのではと思ったようだ。
「聞いていると思うけど、私はガランティアの王立修学院に在籍している。
一緒にいられるのは今日一日だけで、明日の朝にはもうこちらを発たなくてはならない」
申し訳なさそうにそう謝ってくるユリフォスに、「大丈夫です!」とリリアセレナはやや食い気味に答えてしまった。
気にしなくても大丈夫だという事を伝えたかったのだが、この言い方ではまるで、ユリフォスがいなくなる事を望んでいるかのようだ。
「えっと……あの、これは国で決められた婚姻ですし、気にされるような事は何も……」
言葉がだんだん尻すぼみとなった。
言えば言うだけ、ユリフォスを不快にさせているような気がする。
その後も何とか会話を続けようとしたが、そもそも十九のユリフォスと七つのリリアセレナには接点など何一つもない。
朝餐同様、白けた空気が漂い、リリアセレナはだんだん背中に嫌な汗をかいてきた。
ユリフォスも同じような気分だったのだろう。
「邸内を案内しようか」と言ってきて、二人で意味もなく館内を歩き回る事になった。
昼餐はアンテルノ卿夫妻と四人でいただいたが、この時はヴィヴィアがあれやこれやと話しかけてくれたため、何とか和やかに食事を終える事ができた。
問題はこの後だ。
再びユリフォスと二人きりで過ごす事になり、最終的に二人はバックギャモンという遊びで時間を潰す事になった。
このバックギャモンは、それぞれが五個の駒を盤上に並べ,二つの骰子を振って駒を進めていくという単純なゲームだ。
貴族の子どもが良く遊ぶゲームのようだが、離宮で育ったリリアセレナはこうした遊びをした事がなかった。
ユリフォスが遊び方を教えてくれ、二人で交互に骰子を振ったのだが、何と言えばいいのだろう。ちっとも面白くなかった。
今まで誰かと遊ぶという経験がなかったリリアセレナはどこで喜べばいいのかわからなかったし、そもそも大人のユリフォスがこんな単純なゲームをして楽しいとは到底思えなかったからだ。
とにかく時間が過ぎればいい。
その一心で骰子を振り、駒を進めて、ようやく晩餐の時間になったと知らされた時は心からほっとした。
再び家族四人での食事となったが、一日中気を遣って過ごしていたリリアセレナの精神はもう限界に近かった。
話し掛けられれば律儀に答えるが、自分から話を振る気力もない。
そうした様子が伝わってしまったのか、昼餐よりも会話は弾まなかった。
多分自分がいなければ、この場はもっと和やかであっただろう。
それを思うと、リリアセレナは場にいる事がいたたまれなく、ひたすら早く自室に戻る事ばかりを考えていた。
やっと自室に帰ってきたリリアセレナはほっとした。
けれど、強い緊張から解き放たれれば、今度は激しい後悔が襲ってきた。
やはり自分は駄目な子どもなんだという気持ちばかりが膨れ上がり、その晩リリアセレナは、寝台の中で声を押し殺して泣き続けた。
明け方になってようやくうとうとと微睡み、ほとんど体が休まらぬまま朝を迎える事になった。
碌に会話もできない七つの妻を、ユリフォスはどう思っているのだろうか。
朝餐を二人でとりながら、リリアセレナはおどおどと夫ユリフォスの顔を窺う。
劣等感ばかりが心に渦巻いて、ほとんど会話もできないまま朝餐は終わってしまった。
朝餐後、ユリフォスはすぐに出立しなければならず、リリアセレナはエントランスまで見送りに行った。
ロベルトとヴィヴィアが名残惜しそうにユリフォスに言葉を掛けていて、ユリフォスは笑顔で頷いている。
その輪に入れないリリアセレナがぼうっと突っ立っていたら、ユリフォスがこちらに顔を向けてきた。
「じゃあ、私はそろそろ出発するから」
そう声を掛けられたリリアセレナは「はい」と頷いた。
「道中のご無事をお祈りしております」
他に何か言葉を掛けられれば良かったのだが、心に何も浮かんでこなかった。
ユリフォスも困ったように微笑みかけただけで、そのままリリアセレナから視線を逸らした。
あっけないお別れだった。
三人が見送る中、ユリフォスを乗せた馬車は軽い土ぼこりを上げながら遠ざかっていき、やがて角を曲がったところで完全に見えなくなった。
その日の昼前、アンテルノ家の領地エトワースから早馬の使者が到着した。
昨日の豪雨で橋が崩落したらしく、報告を受けたロベルトは慌ただしく旅支度を整え、そのままエトワースへ出立する事となった。
義父ロベルトを見送ったエントランスで、リリアセレナはぼんやりと立ち尽くしていた。
寝不足と疲労で頭がふわふわとしている。
その顔色を見たヴィヴィアがふと眉根を寄せた。
「ベル。リリアセレナを部屋へ。
ソファーでは疲れがとれないわ。寝台で休ませなさい」
リリアセレナは寝衣に着替え、そのまま寝台に潜り込んだ。
こんな日の当たるうちから横になるなんて、ひどく贅沢な気がした。
うとうとと微睡んでいると、昨日来た医師のフォールがリリアセレナの許を訪れた。
脈をとり、目や口の中を診られ、いくつか質問をされたが、リリアセレナはもう眠くて堪らなかった。
だから「大丈夫です」とだけ答えて、そのまま眠りに落ちていった。
夢の中で、リリアセレナは大好きなネリーがいなくなったあの日の昼下がりに戻っていた。
午睡から目覚めたら、いつもは自分を優しく覗き込んでいる筈のネリーの姿がない。
リリアセレナは半べそになり、ネリーの姿を探し歩いた。
一階に降りてもお庭に出てもネリーの姿は見つからず、リリアセレナは泣き叫んだ。
夢の続きをリリアセレナは知っている。
形相を変えてやって来た母カーラに、思いっきり頬を叩かれるのだ。
その後の生活は地獄だった。
どこにいても何をしていても、カーラがやってきて小さなリリアセレナを罵ってくる。
『お前はどうしようもない疫病神よ』
『なんで女なんかに生まれついたの!』
『お前のせいで私は何もかも失ったわ』
『本当に陰気な子ね。お前を見ていると苛々する』
温もりのない緑の瞳がリリアセレナをじっと追っている。
その眼差しから何とか逃れようと、リリアセレナは必死で廊下を逃げていた。
走ったせいで息が熱い。
はあはあと喉を喘がせ、リリアセレナは床の上に座り込んだ。
頭が重く、体中が火照っていた。
手足には全く力が入らなくて、ただ激しい恐怖だけがリリアセレナを支配していた。
これは夢だとリリアセレナは心の中で呟く。
母カーラとはお別れをした筈だ。もう二度と会う事はない。
夢から覚めなければとリリアセレナは思った。
目を覚ましさえすれば、カーラに掴まる事はない。
リリアセレナは力を振り絞るように瞳を開いた。
けれど目に飛び込んできたのは、真っ直ぐに自分を見つめる恐ろしい緑の双眸だった。
そして悪夢をなぞるかのように、白い手がリリアセレナの方に伸ばされる。
リリアセレナは咄嗟に両腕を交差させて顔を庇った。
「いやぁ……!ぶたないで……!」
悲鳴のような声がリリアセレナの喉から迸り出た。




