9 夫との会話
「リリアセレナ様、少しよろしいでしょうか……」
躊躇いがちに声を掛けられ、ソファーでうとうとと寝入っていたリリアセレナはぼんやりと瞳を開ける。
窓の方を見ると、日は大きく傾いて西の空が赤く染まりかけていた。
身を起こした拍子に毛布が体から落ち、ベルが毛布を掛けてくれていた事をリリアセレナは初めて知った。
「ユリフォス様がご挨拶に来られています。
どう致しましょう」
リリアセレナは慌ててソファーから立ち上がった。
急に動いたためか軽い眩暈を起こし、俯いてしばらく息を整える。
それから手櫛ですばやく髪を撫でつけ、小走りで戸口の方へ向かった。
「入っても構わない?」
ユリフォスは背が高く、リリアセレナの背丈はせいぜい、ユリフォスのお腹辺りだ。
顔を見上げるのも憚られ、リリアセレナは小さな声で「はい」と頷いた。
「どうぞこちらへ」
おずおずとユリフォスを部屋に迎え入れたリリアセレナは、奥側のゆったりしたソファー席にユリフォスを案内した。
「こちらに着いて早々体調を崩してしまい、申し訳ありません」
開口一番、謝罪の言葉を口にしたリリアセレナに、ユリフォスは「気にしないで」と笑った。
「長旅で疲れたんだろう。別に謝る事じゃない」
本心だろうかとおそるおそる視線を上げたリリアセレナだったが、ユリフォスがこちらに向かって手を伸ばしてくるのに気付き、本能的に身を竦めた。
母カーラに頭を打たれた記憶が咄嗟に頭を過ったのだ。
「あ……」
驚いたようなユリフォスの顔を見て、リリアセレナは自分の過ちに気が付いた。
ユリフォスはきっと、小さなリリアセレナの頭を撫でようとしただけだったのだろう。
「ごめんなさい」
リリアセレナは慌てて頭を下げた。
本当に悪い事をしたと思ったからではなく、謝罪する事が口癖のようになっていたのだ。
下手に逆らえば、母から暴力を振るわれる。
だから何も考えずに、何かあればすぐに謝っていた。それがリリアセレナにとっての日常で、それ以外の振舞いを知らなかった。
出しかけた手をばつが悪そうに引っ込めたユリフォスは、戸惑ったようにリリアセレナを見つめていた。
気まずい沈黙が流れ、リリアセレナは唇を噛んで俯いた。
どうすれば年上の夫に気に入られるだろうか。
もうここにしか居場所がないのだから、リリアセレナは周囲から好かれるように振舞わなければならない。
けれど、どうすればいいのかさっぱりわからなかった。
「アンシェーゼのお母様に会いたいのかな」
不意にそう声をかけられ、リリアセレナは思わずぞっとユリフォスの顔を見上げた。
『お前みたいな子どもが向こうで愛される訳がない。お前は醜い出来損ないよ』
最後に吐き捨てられた母の言葉が蘇る。
二度とあそこには帰りたくなかった。
リリアセレナは役立たずの出来損ないかもしれないけれど、何とかここで暮らしたい。絶対に戻されたくなかった。
だから必死になって言い募った。
「いえ、そのような事は……」
リリアセレナの言葉に、ユリフォスは困ったように眉を下げ、「そうか」と呟いた。
「つまらぬ事を聞いて、悪かったね」
再び黙り込んでしまった七つの子に、どう話し掛けていいかわからなかったのだろう。
ユリフォスは小さく咳払いした。
「そうだ。今日はこちらに食事を運ばせると義母が言っていた。
食べやすいメニューに変えたそうだから、食べられるだけ食べてごらん。
お腹がいっぱいになれば、気分も少し楽になる筈だから」
リリアセレナは不安そうに瞳を揺るがせた。
「でも今日は、皆で夕食をとる筈だと……」
「その予定だったけど、長旅が続いてリリアセレナも疲れているだろう?
明日は一緒に食べようか」
それがリリアセレナを思いやっての言葉なのか、一緒に食事をするのを嫌がられているのか、リリアセレナにはわからなかった。
ただ、そう言われた以上、逆らわない方がいいだろうと思った。
それに、実際その申し出はありがたかった。
リリアセレナはひどい疲労を覚えていて、頭重感や気怠さが今もずっと続いている。
晩餐のために着替え直し、言葉に気をつけながら三人の大人と会話するなど、考えただけで気が重かった。
「……ご迷惑をおかけしますが、宜しくお願いします」
ユリフォスの姿が見えなくなると、リリアセレナはほっと息を吐き出した。
体の大きな男の人は本能的に恐ろしい。暴力を振るわれたらひとたまりもないだろうとわかるからだ。
リリアセレナはのろのろとソファーの方に戻り、ぐったりと身を投げ出した。
しばらくして柔らかく煮込んだ肉や野菜の料理が運ばれて来て、リリアセレナは半分ほどそれを口にした。
その後、ベルが湯あみを手伝ってくれ、リリアセレナは早々に床に就いた。
気が高ぶってとても眠れないと思っていたが、うとうとと微睡むうちにいつの間にか眠りに引き摺り込まれ、夢も見ないほどにぐっすりと寝入っていた。
翌朝、リリアセレナは祈りのために起こされた。
「こちらの館では毎朝皆が聖堂に集い、カナ神に祈りを捧げます」
身支度を手伝ってもらいながらそう説明され、リリアセレナは困惑したようにベルを見た。
「部屋で各自が祈るのではなく、わざわざ聖堂に集まるの?」
「はい。使用人も皆、聖堂に向かうようになります。
どうしても持ち場を離れる事ができない者は別ですが」
朝から随分大仰なのね……とリリアセレナは思った。
旅途中に宿を借りた教会では、毎朝聖堂に案内されたが、まさか貴族家でもそうなのだとは思わなかった。
「マティスではこれが普通なの?」
そう尋ねると、
「朝餐を口にする前に、簡単な祈りを捧げるだけの貴族家も勿論ございます。
ただ旧家は特に伝統を重んじますから、聖堂での朝の祈りは必須だと言えるかもしれません」
そう言えば、セクルト連邦の人々は生活と信仰が密着していると耳にした事を思い出した。
神との対話が重要であるとされ、庶民であれば家の片隅に祭壇を作るし、もう少し金銭に余裕がある者は祈りのための一室を家の中に作る。
更に財力のある者は、本邸とは別に聖堂を用意すると聞いていた。
アンテルノ家はマティス公国屈指の旧家であり、遡れば旧大公家の血筋を引く家柄だ。
ならば、朝餐の前に聖堂で祈りを捧げる事はごく当然の事であるのかもしれない。
聖堂で顔を合わせたアンテルノ卿夫妻とユリフォスに、リリアセレナは改めて昨日の非礼を詫びた。
理由はどうであれ、家族揃っての初めての晩餐を自分はすっぽかしてしまったのだ。
「申し訳ありません」
そう言って頭を下げるリリアセレナに、ヴィヴィアは優しく微笑んだ。
「体調を崩すくらい、誰にでもある事よ。気にしないで。
今日から一緒にお祈りしましょうね」
そうして始まった聖堂での祈りは、リリアセレナが思っていたよりもずっと厳かで敬虔なものだった。
「貴方の御心に添える一日でありますように」
最前列の長椅子に座したアンテルノ卿ロベルトが口にするのはその一言だけだ。
他の者達は当主に倣い、胸元に置いた右手を左手で包み込むように組み合わせ、静かに黙祷した。
静謐な時がゆっくりと流れている。
こうした朝の始まりも悪くはないのかもしれないと、リリアセレナは安らいだ気持ちでそう心に呟いた。




