第五章 四話
地面に到着すると、風の龍は形を崩して消えた。イーリーはすぐさま周囲を見渡して、走り出す。行く手には、大きな古木が一本だけ生えていた。使わないことを願いつつも、万が一のことを考えて用意したものがそこにあったのだ。
魔法陣の解除装置――それは、魔法陣そのものを描くことよりも難易度が高く、知識と経験が豊富でなければならない。詠唱魔法よりも大量の魔力を使うことの出来る魔法陣は、その停止に掛かる様々な魔力負荷を分散しなければならないばかりか、召喚系の場合、別の問題も発生する。つまり、獲物をあげるから手伝えと呼び出しておいて、やっぱりあげないと言って追い返すようなものなのだ。当然、怒りの矛先は術者に向けられることになる。
慣れた術者なら安全に解除するための仕組みを組み込むが、初心者のイーリーにそこまで高度なことは無理だった。しかしそれでも、彼は魔法陣の解除を決めた。
「……まだ終わりじゃない。まだ……」
イーリーは古木の根元に到着すると、解除の紋章を描いた石を確認する。この石を破壊すれば、魔法陣は解除されるのだ。しかし、彼は何も道具を持っていないことに気づいた。素手では割れない。足下を見渡して、イーリーは拳ほどの石を見つけると、それを拾って解除の石を叩いた。
傷が付いて少し削れるだけだったが、イーリーは諦めることなく何度も叩き続けた。叩くうちに、様々な想いが脳裏を巡って、胸が詰まった。指が痛み、皮膚が切れて血が滲んでも、イーリーは手を休めない。
父が死んだ時、彼は何もすることがなかった。
母が死んだ時、彼は何も出来ずに悔しくて泣いた。
プリムの母を助けたのも、彼自身ではない。あまりに小さく、無力な自分を感じた。だから、何かを成したいと強く思ったのだ。何かを成せる人間になりたいと願ったのだ。
「その願いが、今叶うなら……僕は彼女を助けたい。初めて好きになった、彼女を……助けたい」
涙が溢れたが、悲しいわけではない。イーリーは笑いながら、止めることの出来ない涙を流し続ける。もう、何も出来ずに泣き叫ぶだけの幼子ではない。自分のすべきことがある、出来ることがある。そのことが、イーリーはとてもうれしかった。
「割れろ、割れろ、割れろ、割れろ、割れろ、割れろ――!!」
渾身の力を込めて叩き続ける。そしてついに、彼の強い思いは石に亀裂を走らせたのだ。すでに手は痺れ、感覚はほとんどない。イーリーはその手を振り上げて、最後の力をありったけ込めると、絶叫と共に叩きつけた。亀裂は全体に広がって、石はいくつかの欠片に分断される。
その瞬間、風のうなるような音が、空気を震わせた。王都を埋め尽くす【エルアデス】の霧状の本体は波打ち、アイソリュースを捕らえていた触手たちは、未練を残しながらも彼女を解放した。契約により召喚された【エルアデス】は、たとえそれが不履行だとしても契約に縛られる。すでに標的ではなくなったアイソリュースを“喰らう”ことは出来ない。今【エルアデス】に可能なのは、報復のみだ。
「――!」
イーリーは素早く地面を転がった。先端を針のように尖らせた触手たちが、目標を彼に定めて襲いかかって来たのだ。触手はまるで、なぶるように右から左から致命傷にならない程度の攻撃を加えてくる。
小さな傷がいくつも、イーリーの全身に刻まれた。それでも何とか攻撃をかわそうとしていた彼だったが、痛みと疲労からか足がもつれ、その場にうずくまってしまう。
荒く息を吐きながら、イーリーは死を覚悟した。だが後悔はない。そっと目を閉じて、その時を待つ。
触手の動く気配がわかった。すでに魔力の供給を絶たれた【エルアデス】は、この世界に留まる限界のはずだった。これで最後……そうイーリーが覚悟を決めた時、どこからか声が聞こえた。
(まだだよ、イーリー!)
驚いて目を開けたイーリーは、空を見た。まるで天使のように、半透明の翼を生やしたアイソリュースが微笑んでいた。
思えばこれで二回目だった。アイソリュースは落ち着いた心で思う。好きになった男はどちらも、自分だけの夢を持っていた。自分はそのための支えになろうと、強く思ったのである。
一人目は自己犠牲に似た悲壮感があった。でも二人目は、希望がある。希望を持つことを、身をもって教えてくれたと言ってもいいだろう。
最初は諦めた。それでも、良い思い出が心にあれば、今までの二千年よりは幸せを感じられただろう。でも彼は、それで満足はしない。
真っ直ぐに進む。何が出来ないかを考えるよりも先に、自分に出来る方法を探す。結果がどうなるのか、そんなことを恐れたりはしない。なぜなら彼が怖いのは、無力な自分だからだ。為す術もなく、大切なものを失う怖さを知っているからだ。
そばに居たいと強く思った。自分だって、もう何も失いたくはなかった。犠牲になるのも嫌だ。一緒に幸せになりたい。ずっと一緒に歩いていたい。もう子供は産めないけれど、それは夢の終わりじゃない。
「あなたが私を諦めないなら、私も何一つだって諦めない。出来ることが、まだあるから!」
息を吐く。力が、溢れる。
自分の夢も幸せも、欲張って全部手に入れる。
「天上の守護者、聖なる剣の十三使徒アルヴァリアよ――」
全身が熱い。引き裂かれるような痛みは、これが彼女の限界だと教えてくれる。この魔法は、アイソリュースが使える最高の呪文だった。
「我が声に応え力を貸し賜え――」
アイソリュースの身体がほのかに光る。まるでその様子を見守るかのように、【エルアデス】の動きは止まっていた。そして……。
「使徒降臨――!!」
天から光が差し、十三本の光の柱が王都を囲んだ。それぞれの光の中から、王都を見下ろすほどの羽衣をまとった美しき巨人が現れる。巨人たちは、荘厳な声で歌った。それは、魔を払う歌だ。
空気は震え、王都を中心に巨大な光がふくらむ。その光は【エルアデス】を呑み込み、イーリーはあまりのまぶしさに目を閉じた。世界中が真っ白になったようだった。
一瞬の静寂。そして、波紋のように激しい風が広がった。砂が舞い上がり、イーリーは飛ばされぬように古木にしがみつく。
やがて風が止み、恐る恐る目を開けたイーリーは、いつもと変わらぬ王都を見た。【エルアデス】の姿も巨人たちの姿もない。
「消え……た……?」
呆然とするイーリーの横に、アイソリュースが降り立つ。
「かろうじて追い返しただけよ。あとちょっとで負けそうだったけど……」
「……街のみんなは?」
「大丈夫……」
アイソリュースはペタンと倒れるように座り込んで、イーリーの肩にもたれた。
「人間には害はないから……」
「そっか……良かった」
ホッとしたのも束の間、近くにあるアイソリュースの顔に、イーリーの心臓の鼓動が早くなった。言いたいことがあったはずなのに、言葉が出てこない。
「イーリー……」
腕を絡めて、アイソリュースが耳元で囁く。
「イーリーの気持ち、もう一度ちゃんと聞かせて欲しいな」
「えっ? ああ……」
照れながら、しかしはっきりとイーリーは言う。
「僕は、アイサさんが大好きです……」
ありったけの勇気を振り絞り、溢れるほどの恥ずかしさ追い出しての告白だった。けれどアイソリュースは不満そうに、小さく唇を尖らせて眉を寄せていた。
「ちゃんと、私の名前を呼んで」
「名前って……あ、そうか」
本当の名前で呼んで欲しいのだと気付いたイーリーは、姿勢を正して彼女の目を見た。
「……アイソリュース、さん?」
言ってから、初めて会った時のことを思い出して、彼は笑みをこぼした。あの時――まだそれほど昔のことではないが――の彼女の恥ずかしそうな姿を思い出し、微笑ましい気分になったのである。思えば自分も、ずいぶんと舞い上がっていたような気がした。
「ねえ?」
「はい?」
笑いながらイーリーは、アイソリュースを見た。彼女は無表情のまま、そっと手を伸ばして彼の頬をギュッとつねったのである。
「今、笑うところじゃないよね?」
「い、痛いですよ、アイサさん……痛っ!」
子供のように頬を膨らませて、アイソリュースはイーリーがちゃんと告白をするまで許してはくれなかった。
その時のイーリーは本当に困っていたし、アイソリュースは本当に腹を立てていたのだが、その様子を第三者が見たとすれば、仲睦まじい恋人同士がじゃれ合っているようにしか見えなかっただろう。




