第五章 三話
巻き付いた触手は確かに物体として存在したが、王都を覆う白いものは雲そのもののように、掴むことは出来なかった。深い霧に包まれたような街に降りたアイソリュースは、一メートル先も見通せないような中で、逃げまどう人々の悲鳴と怒号を聞いた。スクリーンに映る影のように、黒い姿がいくつも通り過ぎてゆく。そんななかで、一つの影だけが彼女に近付いて来た。
「アイサさん……」
その姿に、彼女は柔らかく微笑んだ。
「どうしてわかったの?」
「アイサさんとチャンドラー様が飛んで行くのが見えたんだ。二人の下で待っていれば、会えると思った。チャンドラー様はお城に戻ったよ。もちろん、王様たちも」
「なら、お城に行くよ。中までは、この白いものも溢れてないでしょ」
「……強力な魔法が使われた時、発動するんだ。一度巻き付いたら、この魔法陣を解除しない限り外せない」
「魔法陣の解除はリスクが大きい。特に、こんな召喚系はね」
「だから発動前に止めたかったんだ。でも、チャンドラー様の事までは考えていなかった……」
「あなたが気にすることじゃないわ」
歩きだそうとするアイソリュースに、イーリーは抱きついた。
「離しません――」
「同じ手は通用しないわよ」
イーリーの頭に、アイソリュースはそっと手を乗せる。イーリーは抱きつく腕に、力を込めた。
「どうして何だろうって、ずっと考えていました。でもはっきりと『こうだ』って理由を、見つけることは出来ませんでした。ただわかったのは、僕はアイサさんの笑顔を見ると嬉しくなって、アイサさんの事を悪く言われると腹が立つんです。だから、知りたかったんだ……」
「イーリー……」
「アイサさん……大好きです」
「えっ……」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。しかしすぐに、彼女の顔は真っ赤に染まる。その顔を見上げて、イーリーは嬉しそうに笑った。そして――。
「起動せよ!」
空中を漂うような霧状のものが、突然意志を持ったように蠢き、無数の糸のように二人に絡みついた。
「イーリー!」
「ごめんなさい。この魔法陣は、こっちが本当なんだ。マーキングされた獲物を深淵の闇で出来た胃袋に呑み込む、【貪欲なるエルアデス】の召喚。呑み込まれたものは、生きることも死ぬこともなく、闇に溶け、意識だけが永遠に彷徨う……」
アイソリュースはすべてを悟ったように、ぎゅっと目を閉じて小さく息を吐いた。
「どうして……私だけでよかったでしょ?」
「僕は、アイサさんを一人にはしません」
幾重にも絡みついた糸は、二人を地の底に引きずり込もうとする。アイソリュースは、呪文を唱えた。
「嘆きの詩人、鎌手のロウホーストよ、我が声に応え力を貸し賜え――裂風撃破!」
外套で姿を隠し、鎌のような両手だけを出した不気味な姿が浮かび上がると、竜巻のような風とともに糸を切り裂いた。アイソリュースはすぐさまイーリーと共に飛翔し、空中に逃げる。しかし、【エルアデス】の無数の触手は獲物を逃すまいと執拗に追いかけて来た。四方から襲いかかる触手に、二人はすぐに絡めとられてしまう。
「まったく……とんでもないものを呼び出したわね」
「ごめんなさい」
「……私なんか好きになっても、いいことなんてないわ」
「そんなことないです」
イーリーは彼女の身体に顔を寄せた。
「本当は、とても怖かったんだ。でも今は大丈夫なんです。一人じゃないから……アイサさんがいるから、僕は何も怖くないんだ」
「……ばか」
愛おしそうに、アイソリュースはイーリーの頭を抱えた。伝わるぬくもりが、二人の距離を縮める。
「定義!」
アイソリュースの叫びに、イーリーは驚いて顔を上げた。彼女は黙って、微笑む。
「召喚!」
その声を合図に風が巻き起こり、龍の姿をした風の住人が現れた。龍は身体をうねらせながら、触手を切り裂いてゆく。それを横目で見ながら、アイソリュースはイーリーに囁いた。
「顔を寄せて」
「何ですか?」
イーリーとアイソリュースの顔が近付く。
「私は封印されていたとはいえ、二千年も生きたお婆さんだし、闇の魔女と呼ばれる女よ。それでも好き?」
「闇の魔女というのは誤解だったでしょ? それに、アイサさんはお婆さんじゃない。とても……その…きれいだと思う……」
「ふふふ……ありがとう。そんな風に言われたの、初めてだわ」
風の龍が二人を捕らえるすべての触手を切り裂き、自由になる。アイソリュースはイーリーを抱き上げるようにして、くちびるを重ねた。最初は軽く触れるように、そして強く、溢れ出る想いをぶつけるようにくちびるを合わせた。
イーリーは突然のことに、呆然として頭の中が真っ白になった。アイソリュースがいたずらっぽく笑う。
「この前のお返し……」
「えっ――」
トンと、軽く押されただけだった。しかし口付けで腕の力がゆるんでいたイーリーは、アイソリュースから簡単に離れてゆく。あれほど近かった二人の距離が、急激に離れつつあった。
「イーリー、ありがとう。あなたと過ごした短い時間は、私の永遠の中でもっとも輝いていたわ。出会えたことが、きっと奇跡だったと思う。この先、私はあなたの夢だけを見るよ。深い闇の中で、あなたの夢だけを見るよ。一瞬でも幸せだと感じさせてくれた人。私を好きだと言ってくれた人。私は、アイソリュースは、そんなイーリー・シュレイガーが大好きです。ありがとう……さようなら」
イーリーは手を伸ばした。彼女は、笑っていた。今まで見たどんな笑顔よりも輝いて見えた。どんな笑顔よりも、幸せそうに見えた。自分が守りたかったものが、そこにあった。それなのに、届かない。
「アイサさん!」
イーリーは叫んだ。涙の滴が、二人の間を埋めた。
だが、別れた獲物を【エルアデス】の触手は逃さなかった。白い霧状の本体から次々に伸び、落下してゆくイーリーに襲いかかる。その触手たちを切り裂き、風の龍がイーリーの身体を乗せて王都の外に向かった。それを確認したアイソリュースは、そっと目を閉じて心に思う。
(莫迦みたいに抗った二千年も、無駄じゃなかったみたい。たとえ復讐を果たして生き延びたとしても、きっと何も残らなかったもの。あなたの行動、真っ直ぐな言葉が、私を救ってくれたんだよ)
決意の宿る目を見開き、アイソリュースは全身に力を込めた。
「お前の好物はここだよ、エルアデス!」
そう叫び、彼女は大量の魔力を放出した。瞬間、イーリーを追いかけていた触手は動きを止め、しばらく何か考えるように微動だにせず、やがてすべてがアイソリュースを捕らえようと襲いかかったのだ。
両手を広げるアイソリュースに、触手は顔だけ残してすべてを隠すように巻き付いた。その姿は、包帯を巻かれた重傷人のように、どこか痛々しさを感じる。
イーリーは風の龍の背中でその様子を見つめながら、彼女の名前、そして言葉にならない想いを叫び続けた。




