第四章 四話
重い頭を振って起き上がったイーリーは、慌てて外に飛び出す。どれほど眠っていたのかわからないが、空はわずかに白み始め、日の出はもうまもなくのように思えた。
イーリーは弾かれるように疾走し、王城に向かう。完全に油断だったことを、彼は悔やんだ。魔法を使おうとしても阻止することはできたが、アイソリュースはそれらしい動作は何もしていない。【常駐魔法】と呼ばれるものだったが、イーリーにその知識はなかった。
それよりも、時間が気になった。どれほど眠らされていたのか。アイソリュースならば、国王を殺すことなど容易いだろう。しかし王国最高の魔導師チャンドラーが立ちはだかれば、まだ間に合うかも知れない。
まだ乾いていない道を、イーリーは全力で走る。王都を縦断するかなりの距離を、苦しさに耐えながら休むことなく走り続けた。そしてようやく王城入り口の正門が見えた頃、イーリーは足を止めた。
いつもと違う張り詰めた雰囲気に、イーリーの心臓は高鳴った。間に合わなかったか……そう思いながら、今度はゆっくりと歩を進めた。いつもより兵士の数が多い。その一人が、近付くイーリーに気付いた。
「こんな朝早くにどうしたんだ?」
警戒しているようではあったが、相手が子供ということで口調は柔らかい。
「あの――」
イーリーは言葉に詰まる。まさか「アイソリュースが来ませんでしたか?」とは聞けないだろう。散歩というのも不自然だ。逡巡したイーリーは、以前襲われた黒装束の男を思い出す。
「あの、黒い服の怪しい人の姿を見つけて、それで……」
とたん、兵士の顔色が変わった。
「こっちに来たのか? 何人くらいいた?」
「えっとボクが見たのは一人で、たぶん、こっちの方角だと思ったのですが、途中で見失ったからお城に来たかどうかは……」
「そうか、よく教えてくれた。君は……」
兵士はイーリーを見て、
「それは、養成所の制服だね。そうか、ファラディ殿から、事情を聞いたんだな」
なぜここでその名が出るのかわからなかったが、イーリーは黙って頷いた。すると兵士は納得したように、何度も頷き一人で勝手に話し始めた。
「黒装束の集団が国王を狙っている事は、かん口令が布かれて秘密になっているからね。知らせてくれたのは助かるが、あまり騒がないように頼むよ」
「お城は、大丈夫なんですか?」
「もちろん。警備の数も倍に増やしているし、チャンドラー様が結界を張っておられるから、万が一魔法使いが仲間にいても大丈夫さ。それより問題なのは、もうすぐ行われる式典だよ」
イーリーは兵士から一通り話を聞いてから別れ、書庫に戻りながら考えていた。運が良かったのか、偶然にも王城は今警備が厳しく、侵入は困難だ。きっとアイソリュースも、とりあえず引き下がったのだろう。だが兵士が言うように、問題なのはシュタルク王の即位十周年記念式典の時だ。王城から歴代の王の名が刻まれた石碑までパレードをすることになっている。狙われるとしたら、その時だろう。
なんとか時間は稼げたが、これといった妙案もなく頭を悩ませながら書庫に戻ると、入口の所でプリムが待っており、イーリーの姿を見つけると駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん!」
満面の笑顔でやって来たその様子に、イーリーはアイソリュースの魔法が効いたことを確信する。興奮しながら嬉しそうに笑う少女に、イーリーの心は少しだけ晴れやかだった。
枝葉の広がった木々に囲まれ、膝丈の草に覆われたその場所に、かつて村があった面影はない。月の明かりだけを頼りに、アイソリュースはあるはずもない痕跡を探した。しかし、堆積した腐葉土によってすべてが土に帰ったのである。形あるものは破壊され、残骸が塵ほどに姿を変えるのは容易だった。
黙って立ちつくせば、小さな虫の声と、わずかな空気の流れに擦れる葉音だけが耳につく。孤独なのは慣れていたつもりだったが、思い出の染みついた場所では一層、重く感じられる。
アイソリュースはそっと目を閉じて、脳裏に懐かしい故郷の風景を描く。自分の家はどの辺だろう。畑が広がり、道が真っ直ぐ延びる。小さな家々が身を寄せるように並んで、左手には丘があった。右の道を進めば、小さいながらも学校だってあったのだ。
楽しい思い出も、辛い思い出もいっぱい詰まっていた。失われてすでに二千年以上の時が過ぎ、残ったものは醜いものばかりだった。
彼女は力なく跪き、項垂れる。時間を超えて、懐かしい声が聞こえた。
『アイソリュース』
両親のない彼女を、父のように厳しく、祖父のように優しく慈しんでくれた村長の声だ。村長に名前を呼ばれるのが、彼女は大好きだった。自分という存在を確かに感じられる。ここにいてもいいんだと思わせてくれる。だから、そんな村長のために何かしてあげたいと思うのは、自然なことだったのだ。
魔法の才能には恵まれていたのだろう。多くのことを短期間で吸収したし、何より彼女は楽しかった。新しいことを覚えると、それが力になると実感できたからだ。自分でも役に立つのだということが、喜びになった。
しかし、ゼーマンと出会って彼女の喜びはその対象を変えた。それは初めての想いで、初めて溢れる感情だったから、戸惑った。けれどそれが確かなものだと実感できたのは、ゼーマンが旅立つと決めた時だろう。共に歩こうと、強く感じたのだ。
心残りは、村長と離れることだった。
『いいんだよ、お前がそう決めたのなら』
そっと背中を押す言葉に、彼女は息が詰まった。
『気兼ねすることはなにもないさ。お前はこれまで、たくさんのものを私にくれた。苦労もしたが、喜びはそれ以上与えられたよ。もう、自分のことだけを考えていいんだ。親はいつだって、子供の幸せを願うんだよ。どこにいても、お前が心から笑っていられるのなら、それが私の幸せさ。きっと風が、いつも私の耳にその声を届けてくれるよ。楽しそうに、嬉しそうに笑う声をね。幸せになりに行くのだろう? だったら止める理由などないじゃないか。行きなさい、私の愛しいアイソリュース。私の、娘』
村長は、優しさという言葉のすべてが詰まった声で彼女を勇気づけ、働く者のゴツゴツした誇らしげな手でしっかりと抱きしめた。その温もりは、どれほどの時間でも彼女の中から消えることはない。
瞼の裏に浮かぶ柔和な皺だらけの顔に、アイソリュースの胸は熱くなった。込み上げる想い、呑み込んだ嗚咽が閉じた瞼の隙間から溢れ出る。
自分は何を得たのだろう。大切なものをこの地に残して、何を得たというのだろう。アイソリュースは自分に問いかける。
幾つも幾つも零れる涙の滴が、頬を伝って朝露のように草を濡らした。
「ごめんね……」
絞り出すように漏れた声は、少し震えていた。
「ごめんね……私……幸せになれなかったよ――」
両手を大地に付き、草を握りしめてアイソリュースは泣いた。まるで子供のように、声を上げて泣いた。かつて、彼女の故郷があったその場所で、失われたものの重さに堪えきれず、泣いた。