第三章 三話
ゼーマンとアイソリュースが街に着いたとき、路上は戦いで傷ついた人々で溢れ、死者を送る声と悲しみの呻きが聞こえていた。人々は憔悴し、どの顔にも絶望が色濃く浮き上がっている。
「次の戦いで流れを変えなければ、精神的に持たないだろうな」
囁くゼーマンの声に、アイソリュースは同意するように小さく頷いた。誰の目にも明らかなほど、人々は追い詰められていた。しかし裏を返せば、だからこそゼーマンの作戦は成り立つことになる。
街の中心部に歩を進めながら、アイソリュースは彼の背中を見つめた。かつてのような頼もしさは薄れ、疑念と不安が溢れてくる。自分の存在は何だろうか? すれ違ったまま交わることのなくなった想いは、一見して平行線をたどるようであって、微妙な角度のまま離れつつあった。修復は、間に合いそうにない。
「少し、待っててくれ」
広場に出ると、ゼーマンはそう言って近くの兵士たちに近付いて行く。広場のあちこちにはいくつものテントが立てられており、疲れきった表情の兵士たちがうなだれ、体を休めていた。何人かが彼女に視線を向けたが、それほど興味を示した様子はない。
やがてゼーマンが戻り、成果を伝える。
「この辺一帯は代々、ハイデル家が治めていたらしい。ずいぶん昔に財産はなくなって力を失ったようだが、当主の信望は厚く、影響力は健在のようだ。彼ら兵士も、ハイデル家のかつての領民が集まって生まれたらしい。当主は少し前までこの街にいたようだが、一人娘が病気で寝込み、戦いも激しくなったため近くの村に避難したんだそうだ。本人はここに残って指揮を取るつもりだったようだが、街の人々が娘のそばにいて欲しいと進言したらしい」
人が人を裏切るのが珍しくもなかった世の中にあって、それほど慕われるということは、ハイデル家の当主とはよほどの人物なのだろうとアイソリュースは感心した。
「今は街の有力者たちが指揮を取っているそうだが、敵の魔法に悩まされているらしい」
「ピーモ族と魔法を結びつけて考えている連中だから、魔法使いがいないのよ」
「そうだ。だからこそ、こちらを売り込むチャンスがある」
アイソリュースは、すぐにゼーマンの考えを悟った。
「無理よ。受け入れない」
「そこまで愚かじゃないさ。現実に人間が魔法を使える街を、俺は見てきた。説得する自信はある」
突然現れた男の要求に、彼らは困惑していた。
「戦闘に参加してくれるのはありがたいことだが、今、魔法使いと言ったかな?」
天幕の中に三人の男性がおり、中央のもっとも年配の男が尋ねた。
「俺は剣士だが、この者、我が従者は幼い頃より魔法を学び習得している。魔法に対抗しうる攻撃は同じ魔法だ」
「人間が魔法を使うなど、聞いたことはない。その者は本当に人間か?」
「俺は西の果てにある故郷を出て旅を続け、様々な街を巡った。ある街では、やはり敵の魔法攻撃に悩まされ、多くの人間が魔法を習得し対抗した。時には治療にも用いられ、その用途は多岐に渡る。闇の術と言うが、古の神々に力を借りる呪文もあると聞く。俺の剣は俺の意思によって悪を斬るが、勝手に動いて善人を斬ることはない。魔法も同じだ。使う者の意思によって、善にも悪にも染まるのだ」
「言いたいことはわかった。しかし我らに信じろというなら、まず、その者の姿を見せるべきではないかな? フードと仮面を取り、人間であることを証明してみせよ」
どうするつもりなのか……アイソリュースがゼーマンを見ると、彼は小さく頷いた。彼女は覚悟を決めて、まず仮面は付けたままフードだけを脱ぐ。結んでいた長い髪と、しなやかな肢体が露わになった。幸い、ピーモ族の耳は髪に隠れているため見えてはいない。
彼らは小さな声を上げ、息を呑んだ。すると、突然ゼーマンがその場に膝を付いたのだ。
「彼女は、俺の婚約者だ」
思わず、アイソリュースは声を上げそうになった。
「旅の途中、激しい戦いに巻き込まれて美しかった彼女の顔は炎に焼かれてしまったのだ。彼女はとても悲しみ、死のうとした。しかし俺は彼女を説得し思い留まらせ、仮面とフードで女であることを隠すことを提案した。そうすることで、余計な詮索や同情の眼差しに晒されずにすむと思ったからだ。女にとって、顔に傷を負うことがどれほどの苦しみなのか、察していただきたい」
ゼーマンは深く頭を下げ、土下座をした。そして、
「どうか仮面を取ることだけは勘弁して欲しい。これ以上、俺の愛する女性を苦しめたくはない」
痛む胸に、アイソリュースは溢れそうな涙を堪えるのに必死だった。彼の言葉を素直に信じられない自分に対する嫌悪と、嘘に晒される恥辱が切なかった。言葉を重ねるほど、互いの心は離れてゆく。
「どうしても俺たちを信じられないというのなら仕方がないが、俺たちにあなた方を騙す気などない。たが、このままでは勝ち目などないはずだ。街の人々は追い詰められている。判断を誤らないで欲しい」
熱っぽく語るゼーマンに、彼らは心を動かされたようだった。しかしただ一人、アイソリュースの心だけは冷たかった。
それから数日後、闇の軍勢の攻撃が再び開始された。街の前方一キロの所に作られた防衛線に兵士が集結し、倍以上の敵の進行を辛うじて止めることが出来ていた。しかしそれも時間の問題なのは、明らかだった。すぐに、ゼーマンの提案した作戦が実行に移されることとなる。
アイソリュースの事は一部の人間にのみ説明され、多くの人にとってはゼーマンの従者としてしか知られていない。むろん、女性であることも秘密である。
魔法を恐れる者もいるため、ゼーマンたち二人は別行動を取ることにした。側面から攻め、敵を混乱させることが任務だ。百名ほどの兵士を付ける提案もされたが、ゼーマンが断った。
「二人で十分だ。これまでもそうして来たし、身軽な方が動きやすい」
まず、ゼーマンたちが闇の軍勢の真ん中ほどに突入し、敵を斬り崩してゆく。その様子を確認して、人間の軍が突入するという手筈になっていた。
岩陰に潜んで敵の様子を伺っていると、ゼーマンが声をかけて来た。
「怖いか?」
アイソリュースは首を振る。
「目に見えるものを恐れはしない」
「では、何を恐れる?」
しかし、彼女は何も答えなかった。すると、ゼーマンは話題を変えた。
「ところで、魔法を学ぶ時には、何か教本のようなものがあったのだろう?」
「突然、何? 本ならあったけど」
「それは今、どこにある? 普通に…たとえば入手しようと思えば簡単に手に入るものなのか?」
「ものにもよるわ。より高度な魔法について書かれた本は、希少価値が高いから簡単には手に入らないと思う。中には世界に一冊しか存在しない本もある。私が使った教本は家に残ってるわ。珍しいものも、何冊かあったはずだけど。どうして? 今、話すようなことじゃないでしょ?」
「世界が平和になった後のことを考えたんだ。闇を完全に払うことは出来ない。力は均衡してこそ、安定する。いずれ多くの人間が魔法を学び、闇に対抗しうる力をつけるはずだ。そのために、どうすべきなのか、ふとそう思った」
アイソリュースは、平和な世の中を想像し思った。その時、自分はどこにいるのだろう、と。