第三章 四話
闇の軍勢の数は多いが、大半は知能の低い化け物で仲間意識というものは薄い。ゼーマンが背後から切りつけて身を隠す、という行動を繰り返すと、とたんに仲間割れが始まった。そこへアイソリュースの魔法攻撃が始まり、すぐに人間の軍勢が突入するとあっけなかった。敵のまとめ役がほとんどいなかったのも幸いし、久しぶりの勝利を手にすることができたのだ。
一番の功労者として、ゼーマンは人々の歓声を浴びた。アイソリュースはそれを、群集の中から冷ややかに見つめる。割り切れない思いを隠すように、彼女自身もまた宿舎に消えた。
従者ということでゼーマンと同じ部屋だったが、彼が戻ってくることはなかった。人伝に聞いたところ、ハイデル家の当主が労いの言葉を掛けたいと、食事に招待したのだという。そしてそのまま一泊し、別の、もう少し立派な部屋を用意されたのだった。
ゼーマンはたった一度の戦いで、すっかり英雄のようになってしまった。単身で敵の軍勢を撹乱し、勝利をもたらした……そう噂され、やがて事実と摩り替わってしまったのである。その後何度か戦いがあったが、人々が魔法を恐れるという理由で、ゼーマンたちが戦う姿はいつも遠くにあったのだ。そのため、アイソリュースの存在は何も知らぬ人々の中から消えつつあった。
そんなある日、何度目かの小競り合いから戻った彼女は、ある噂を耳にした。ハイデル家の一人娘、エリーナとゼーマンの婚約が近々決まる、というものだ。自分が結ばれる可能性がないのはわかっていたが、やはりそうした話を聞くと彼女の心は傷ついた。しかし、噂はそれだけではない。
同じ宿舎の兵士たちが、アイソリュースが実は女なのではと囁き始めたのをきっかけに、ゼーマンの婚約者だという作り話がどこからか漏れたのだ。そしてゼーマンはエリーナに恋をし、醜い彼女を邪魔に思うようになったというのである。
「戦いで多くの人が死んでいるんだ。従者一人いなくなっても、誰も気にしないだろうさ」
誰かが冗談めかして言ったその言葉が、アイソリュースの心にいつまでも残っていた。
(私が再生の魔法を自分にかけたのは、それからすぐのこと。出来れば役にたたずに済むことを願いながら、戦場に出かけていたわ。けれどいよいよ、闇に怯えることなく暮らせる世界が来るという、その最後の戦いで、私は彼に捨てられた……)
燃え上がった炎が静かに衰え、二人の周囲にはもの言わぬ屍ばかりであった。
「あなたは私の屍骸の上に、何を築くというの」
「法を築く。それが、この国の礎となる」
「血塗られた法に、人の心は縛られない」
「光が強く輝けば、闇はそれに打ち消され薄くなる。やがて、時がすべてを忘れさせるだろう」
アイソリュースのすべての思い、そしてささやかな夢と願望を、その身とともにゼーマンは切り裂いた。胸に去来するものが何であったのかは分からないが、最後まで、彼女のために流す涙はなかった。
貫く刃の冷たさが、彼の心のように思えた。
(何もかも、気付いていたんだと思う。私が再生の魔法を掛けていたこともね。だから私を封印したのよ。蘇ることがないように。どんな気持ちだったのかしら? 自分が疑われていることも知っていて、それでも優しく語り掛ける彼は、どんな気持ちだったのかしら……それを考えると、とても、恐ろしい)
拒絶するような闇が、イーリーの心を覆った。鼓動に合わせて、アイソリュースの痛みが伝わる。二千年という時間も癒せないほど、染み付いた匂いのような絶望と憎悪。暗闇の中に小さな炎を見つけた時、イーリーは思わず震えた。
凍えるような、炎だ。
(気が付けば、彼はもういない。どれほど恨んでも、憎んでも、虚しさばかりが心を埋めるわ。それでも忘れることが出来ずに、私はずっと彷徨っていた。けれど、いい加減、私も疲れちゃった。だから、ためらいもあったけれど、思い切ってこんなことをしてみたってわけよ)
照れくさそうに彼女は笑った。自分が彼女の助けになれたのなら、イーリーは嬉しいと思う。けれど、どうして自分だったのか。長い時間の中で、チャンスは他にもあったのではないだろうか。
(イーリーに会えて良かったよ。君が卒業して王都を離れる時、私自身を縛っていた呪いも解ける……)
様々なものが遠ざかり、アイソリュースの姿も消えてゆく。その最後に、柔らかな唇が頬に触れた。友達にしては長く、恋人にしては短い時間の、出来事だった。
やがて、意識がはっきりとして目覚めたイーリーは、自分でも驚くほど鼓動が早いのに気付いた。慌てるように周囲を見渡すと、いつの間にか夜になっており、明かりが灯され、テーブルには冷めてしまった夕食が乗せられていた。心の中でプリムに礼を言ったイーリーは、パンを一口頬張った。
とたん、なんだかほっとした気分に包まれる。すべては夢だ……そう思うことで、イーリーは湧き上がる気持ちに整理をつけたのである。
しかし、それでも不安を拭い去れない事がひとつだけあった。それはアイソリュースの心の片隅にある、小さな小さな、だが、決して消えることのない濃密な、復讐の炎だった。
今はもう使われていない、壊れた水車小屋の中に、レンツ・ファラディは身を潜めていた。赤いカーペットを敷き、一人掛けのソファとテーブルを並べ、優雅に紅茶を飲む姿はとても隠れているようには見えない。
卒業試験の任務のためにレンツは、誰も住んでいないはずの屋敷に出入りする怪しい一団を見張る場所として、田畑の中にあるこの水車小屋を選んだのだった。
「お坊ちゃま!」
壁の穴から屋敷を監視していた男が、緊張した声を発した。
本来、任務は自分だけで行うのだが、息子を心配した父親が実家の近衛兵から腕がたち信頼の出来る者を選んで、食事を運ぶという名目で助力を指示していたのである。
「どうした? 何か動きがあったのか?」
「夕暮れの闇に紛れ、屋敷に人が集まっているようでございます。確認できただけでも、十数名はいるかと」
レンツはカップを置くと、腕を組んで目を閉じた。
「はっきりとした目的はわからないが、人助けとも思えない。よからぬ企みがあるのだろう。思い切って、乗り込んでみるか……」
「危険です! 人数も定かではないうえに、どのような相手なのかも不明とあっては――」
「ならば、このまま悪事が行われたらどうする!」
「荒事は兵士に任せるべきです。王都の騎士団に連絡をし、援軍を呼びましょう。お坊ちゃまは任務を果たしたことにはなりますし、悪事も防げます」
彼は少し考え、頷いた。
「ならば、お前が援軍を呼んで来い」
「いえ、私が行っては何かと差し障りがございましょう。手紙をしたため、近所の者に届けさせるのが良いかと」
「よし」
こうして書いたレンツの手紙によって、すぐさま百名ほどの騎士団が派遣。夜明けを待って屋敷に突入し、二十名余りの、黒装束の男女を捕らえることが出来た。しかし数名を逃し、さらに驚くべきものを見つけたのである。それは、城の見取り図に、国王暗殺の密書であった。




