在庫過多の本に何が起こったか
だが、ここで制止の声をあげる者があった。
「ああ、そうだ。お待ちください。彼女の罪状はそれだけではありませんよ」
発言者はヴレンであった。
「メリッサに、余罪があると言うのかい?」
「ええ」
ホセアの問いかけに、ヴレンは灰色の目をすっと細めた。それは猛禽の目だった。獲物を前に猛り立つでもなく、嗜虐に酔うでもなく、ひたぶるに的を絞る、そんな容赦ない目であった。
「知っていますよ、あなた。一昨日の晩、ロビン嬢の荷物の中から本を盗んで、トーラス殿に渡したでしょう」
そう言ってヴレンが取り出したのは、小型カメラと二枚の写真。その長方形の枠内に映し出されていたのは、目元にピースサインをあてがい自撮りをするヴレンと、その背後で、考古学の本を胸に抱えて出て行こうとするメイド長の姿だった。二枚目は、こちらに向かって手を振るヴレンの自撮りと、トーラスのベッドの下に本をしまい込むメイド長の姿だ。
「どうして・・・・・。あの時、わたくしの後ろには誰もいなかったはず」
縛られたまま両手で顔を覆い、メリッサはがっくりと項垂れる。持前の幸福論に続いて完全犯罪の幻想まで破られたのが、余程堪えたようであった。効果は絶大だが至って意味不明なヴレンの奇行について、コメントなりツッコミなりを入れる余裕がないほどに。
「なに、そんなの簡単です」
ヴレンは見惚れるほどに美しいが、表皮の下に悪辣さを隠した顔で、相手にウィンクを投げかけた。
「あなたが鳩よりも愚かだった。ただそれだけの話ですよ」
―鳩ピンポンダッシュ、ちゃんと役に立つ瞬間があったんだ・・・・・・。
それが、この夏一番の衝撃であった。
「というか、気づいていたならなんで言ってくれなかったのよ!メイド長の動きを警戒して、事前に阻止できたかも知れないのに」
すかさずオレリアが友人のために食って掛かった。だが、ヴレンの反応はつれないもので、昨日は一日、ロビン嬢とまともに顔を合わせる機会がありませんでしたので、とだけ返ってきた。それもそうか・・・・・?と首をひねりかけて、まあいいや、とアルエットは思った。ヴレンの行動は突拍子もなくて理解不能なことが多いので、アルエットは例によって無視することに決めた。
背後の理屈がなんだろうと、結果オーライならそれでいいのだ。
よくわからん手段とタイミングで証拠を見せつけてきたヴレンの神経に恐れをなしたメリッサは、すぐさま自白した。アザゼルが困ったり傷ついたりすれば良いと思って、頭陀袋の中から考古学の本を抜き取ったのだと言う。これによってアザゼルが屋敷の使用人を疑い、当然使用人を庇うであろうアルエットと仲たがいをすればよい、とも思ったのだと言う。この本がアザゼルのお気に入りであることは、主人たちとの会話から知っていた。もっとも、地上最強のメンタルを持つ堕天使アザゼル相手には、その効果のほどは発揮されることなく終わったが。
それをトーラスの部屋に隠したのは、同じように「ロビン」を憎む彼ならば、嫌がらせの片棒を担いでくれるに違いないと考えたからであったと言う。
「なんと浅ましい・・・・・」
「お嬢様の客人の荷物に手をつけた上、その隠匿に坊ちゃんを巻き込むなんて」
「だいたい、聖女さまが盗みの犯人だなんておかしいと思ったんだよ。ま、あの子、聖女にしちゃ不愛想だけどな」
昨夜アザゼルを取り囲み、はるかに激烈な調子でアザゼルを責め立てていた人々が、昨夜の異端審問官であった女に向かって眉をひそめ、嫌悪とさげすみの石を投げる。メリッサがすっかり意気消沈し、もはや狂気の権化ではなくなったことも人々の好き放題に拍車をかけているように思われた。
これは止めねばなるまい。どのような悪人であっても、正当な批判の域を超えてなじらせてよい道理はない。アルエットが口を開きかけた時、再び、制止を求める声が響いた。
「メリッサは悪くないよ!」
トーラスだった。トーラスは極度の緊張で顔を青白くし、半ズボンの生地を握りしめて叫んだ。
「オレが、あいつなんか嫌いだって言ったのが悪いんだ。あいつさえいなくなればいいのにって、言ったのが悪いんだ。だって、あいつが来るようになってから姉上は本当に楽しそうだったから、あいつに姉上を取られるみたいで、嫌だったから・・・・・」
少年の言葉は水分を含んでおり、その量は文末に行くにしたがって増大していった。しまいには水分量が臨界値を超え、ぼろぼろと泣き出してしまった。アルエットは弟に歩み寄ると、何も言わずに抱きしめて背中をさすってやった。乳母の、愛情の常軌を逸した重量に戦慄しても、まだ情は残っていたようであった。
「メリッサは、メリッサは悪くないんだよ・・・・・」
彼らの愛する「いたずら好きで活発な坊ちゃん」のただならぬ様子に、使用人たちは顔を見合わせ、急遽弾劾を取りやめることにした。アルエットはこの機を逃さず、トーラスに続きを話すように促した。
トーラスはメリッサを庇おうと、自分の知っていること、考えていたことを全て話し出した。
「ムカつく!あんなやついなくれなればいいんだ!」
空き巣の現場から追い払われた時、トーラスは激しい癇癪を起し、自室の本数冊と白い陶器の花瓶を台無しにし、先祖伝来の銀のお盆を床に叩きつけてひしゃげさせた挙句、止めに来たメイドにティーポットの中身をひっかけ、姉と同い年くらいの彼女に本来不必要な洗濯の用事を押しつけた。
とにかく、むしゃくしゃしていたのだ。
赤いものと白いもの、それから銀色のものを視界に収めておきたくなかった。あとでどれほど後悔することになっても、跡形がなくなるまで打ち壊したい。そうでもしなければ、あの癇に障る聖女の顔が脳裏に浮かんでくるのだ。
トーラスは、あの柘榴石のような、すべての感情を跳ね返す、ガラス光沢の目が嫌だった。
この世の一切、特に愛情や優しさといったあたたかいものを拒絶しきったような顔をしているくせに、あの優しいアルエットからの友愛を、厚意を、信頼を、笑顔を受け取っている。そのくせ、すべてを見透かしたような、その上で憐れむような視線をこちらに投げかけてくる。姉の隣に侍るには似つかわしくない、暗夜の猛吹雪よりも冷酷なあの瞳で。ひどく腹が立った。あの顔、あの瞳を見るたびに、なんとしてでもこの女を除かねばならないと強く思う。排除ができないまでも、ひどく傷つけばいい。
そう、トーラスのこれまで行ってきたいたずら、この時点からすれば未来にあたる時系列で行う偽証は、大好きな姉を取られまいとしてのものだった。
アルエット・フォン・ベルフェゴール。大好きな姉。優しくて、高貴で、きれいで、人気者で、強くて、何でも知っている。やさしく抱きしめて、包み込んでくれる。大切な家族、大好きな弟だと言ってくれる。こっそりおやつもくれる。勉強や稽古を投げ出したくなったときは、困った顔をしながらももいつも励ましてくれる。オバケだとか雷だとか、怖いものからは守ってくれる。たとえば昔、実母の元・愛人が刃物を持って屋敷に乗り込んで来た時も、姉はそいつを完膚なきまでに叩きのめしてトーラスを、屋敷のみんなを守った。
そんな姉の姿を見るたびに思ったものだ。「母親」とはこのようなものなのだろう、と。
だから、誰にも取られたくないと思っていた。
誰にも取られたくないと思っていたから、アルエットに近づいて来る人間の邪魔をした。相手が、心の底からアルエットと仲良くなろうとしているかどうかなど、関係なかった。半径一メートルに入る者は自動で「敵」と認定した。反対に、姉に取り入ろうとか、恥をかかせてやろうとか、悪意を持って近づいて来る相手にも容赦はしなかった。はじめて婚約者を紹介された時は、むこうずねをしこたま蹴っ飛ばした。姉のお茶会に招待された、姉と同年代の「お友だち」に意地悪をした。あちこちで姉の悪口を言いふらすおばさん連中には、馬車の中に虫(それは高確率で蛙)を投げ込んで報復した。虫爆弾とインク瓶トラップは常套手段だった。姉を困らせ、方々へ謝罪に走らせ、メリッサからは散々説教を受けた。それで少し年上の子や同い年の子たちから問題児幼児扱いされてまた癇癪を起した。
トーラスが問題を起こすと、その問題が出来してから消え去るまで、アルエットはずっとトーラスのことを見てくれていた。見たくて見ていたのではないことくらい、ちゃんと分かっている。姉の目を、本来向けられるべきところから不当に奪ってしまっていたことくらい、分かっている。だけど、それが申し訳なくもあり、それでもやっぱり嬉しくて、トーラスは姉に近づく者にちょっかいを出すことをやめられなかった。
『トーラス、ロビンはわたくしの大切なお友達なの。だから、あなたも仲良くしてくれると嬉しいわ』
はじめて「ロビン」の姿を見た時、これまでの「お友だち」とはちがう、と直観的に思った。それは何にもまして恐るべき事象のように思われた。「ロビン」だけは、姉から何としてでも引き離さなくてはならないような気がした。
―だって、そうしなければ、姉上が二度とこっちを見てくれなくなるような気がしたんだ。
だが、いくら意地悪を繰り返しても、「ロビン」は音を上げない。これまでの「お友達」とちがって虫にはビビらないし、自慢のインク瓶トラップは、インクどころかガラスの一片も残さず一瞬で蒸発されて無効化されてしまった。トーラスは、やつが公邸に来るたびに、持ちえる頭脳と技術と不用品(落ち葉とかゴミとか)とを尽くして迎え撃ったが、創意工夫も虚しく必ず撃退されてしまう。これまで、通算138回の「作戦」が失敗に終わった。打てる手はすべて打ち尽くしてしまい、もはやネタがない。
そして何を差し置いても最悪なことは、回を重ねるごとに、肝心のアルエットの顔がどんどん悲しそうになっていくことだった。身体の奥深くについた、古くて、魂の核にまで達する深い傷をこらえるような、見ているこちらまで苦しくなるような表情だ。今までは、どんなにマイナスの反応であれ、姉が自分の注目してくれるのが嬉しかった。だけど、大好きな姉にあんなに辛そうな顔をさせるのはとても嫌だった。でも、あいつが大好きな姉上の側にいて、姉上を独占しているのも嫌なんだ。
トーラスは、もうどうすれば良いのか分からなくなっていた。
それでも何かしなくてはいけない。何か手を打たなければ、アルエットは自分の手の届かないところにいってしまう。自分ではない誰か、それも幼馴染でも婚約者でもなく、よりによって突如として現れたあいつを心の庭に招き入れる。彼女が心から望む贈り物をくれるあいつを。それはおそらく、トーラスには絶対に差し出せないものなのだ。
背中に追いすがって来る焦燥感から逃れるようにトーラスは、ただただ目の前のものを壊した。敵を想起させるものをおのれの目の及ぶ範囲から追放しようとし、罪もないメイドを傷つけ、いらない仕事を増やし、先祖の大切にしていた花瓶やお盆を壊し、あとはもののついでとばかりに嫌悪感しか湧かない活字の群体に不当な懲罰をくれてやったのだ。だが、これだけ壊してもまだ足りない。精神が疼き、何かを渇望し続けている。
「トーラス坊ちゃま!これはどういうことです!」
駆けつけたメリッサが特大の雷を落として、トーラスの破壊衝動は停止させられた。
初手の怒号の爆発が終息すると、メリッサは、今度は論理と道徳を五月雨式に降らせ始めた。人や物に当たったところで何も解決しないのに、どうして破壊活動をやめないのか。他人に迷惑をかけているということがどうして分からないのか。賢くて優しいトーラス坊ちゃまなら分かっているはずだ。メリッサはいつもと変わらず、根気強くトーラスを諭した。
トーラスは精一杯強がり、気を許した相手にだけ見せるふくれっ面をしてご高説を拝聴していたが(そもそも気を許せない相手には屁理屈や悪態で返す)、メイド長の説教を聞くうちに、徐々に態度を軟化させていった。言葉の端々に滲んだ愛情、トーラスを思いやり、その未来を案じ、我が子のように大切に思う気持ちが、いつにも増して身に染みて感じられたのだ。
メリッサはいつも、実の息子のように可愛がってくれるとはいっても、トーラスに対してどこかで一線を引いた態度を取っていたし、物言いも厳しくしつけも容赦なかった。怒らせれば本当に怖かった。メリッサのことは大好きだったが、やられっぱなしは嫌だったので、甘えと自覚しつつも小さな反抗を繰り返していた。それでも、峻厳な態度に隠されていはしても、あたたかな愛情は、確かに触れられるものとしてそこにあった。手を伸ばせば容易く収穫できる、確実な果実として。
―あんなにも欲しかったものを、求めるよりも先に差し出してくれる人がここにいる。
そのことが胸に迫り、トーラスは視界がぼやけるのを感じた。
今思えば、その手をつかんだことがよくなかったのかもしれない。
それは、追う必要もなく、決して追いつくことのできない虚空の星を追っているうちに、足が疲れ、道に迷って弱っている時に、ひょいと目の前に現れた、幽鬼の掲げる灯火だったのだ。本当にほしいものを求めるなら、決してついていってはならない種類の光だったのだ。
「メリッサ、オレ、もうどうしたらいいか分かんないんだよ」
下を向いたまま、トーラスは弱音を漏らした。およそはじめて、人に心の内をぶちまけた。聖母と称される姉への不満は、誰に言っても理解してもらえない気がしたのだ。いや、正直、自分でもよく分かっている。姉は十分に愛情深い。関わりのある人すべてに配ってもなお有り余るほどの愛情に、「もっと」を、「自分だけに」を、求める行為がどれほど非常識で罪深いかなどということは、誰よりもトーラス自身がよく分かっていた。
だけど、いつも自分の幸せを第一に考えてくれるメリッサならば、この思いを分かってくれるかもしれない、この苦痛を理解して、そっと寄り添ってくれるかもしれない、とトーラスは思った。いや、そうしてほしい。たとえそれが、とんでもないわがままなのだったとしても。
トーラスの予想通り、メリッサは、トーラスの言うことを黙って聞いてくれた。一切の否定をさし挟まず、トーラスが言葉に詰まった時でも、無理に先を促さず、静かに微笑んで続きを待ってくれた。安易な肯定を返されるよりも、ただただ否定をされないこと。それがトーラスには心地よかった。だから、その後の言葉も信じてしまった。
「トーラスさまは、これまでおひとりで悩んでこられたのですね。さぞお辛かったでしょう」
膝をついてトーラスと視線を合わせ、メリッサは言った。メリッサの目は暗く、それでも一点、小さくだが激烈な光があり、何かしらの決意を湛えているように見えた。
「わたくしに任せてください。きっと、トーラスさまも、アルエットさまも、みんなが幸せになるような、すばらしい解決策を思いついてみせますから」
口紅で脂っぽい、臙脂色の唇が蠢動する。それは、受容された心地よさを台無しにするに十分な威力を持っていた。熱っぽいダークグリーンの瞳に浮かんだ気味の悪さを、トーラスは、夏の宵闇が首筋に這わす生ぬるい汗のせいにしてしまいたかった。
あとには、何とも言えない心細さだけが残った。
その翌日、ヴレンの祝賀会の次の朝、ベッドの下に隠された本を発見したトーラスは、メイド長の言う「すばらしい解決策」が何なのかを悟った。その本がここにある、大体の事情を承知で隠蔽に手を貸すことに決めた。そうだ、それこそが正解だ。そう思った。思わねばならなかった。もはや後戻りはできないのだ。ならば今更、無駄に迷えば迷うだけ、メイド長の足を引っ張り、事態の展開を悪くするだろう。
だが、理性が導き出した決意の思い切りの良さとは裏腹に、感情はトーラスの脚に重苦しく取りすがり、いつもの行動力を部屋の薄暗がりに押し籠めてしまった。何をする気にもなれず、わんぱくなトーラスには珍しく、自室に、悪事の証拠の隠してある寝室にこもりっきりで過ごした。幸い、屋敷は窃盗犯の噂でもちきりで、トーラスの異変に勘付かれることはなかった。
そうこうしているうちに日は傾きかけていた。その夕べ、何とはなしに廊下を歩いていたトーラスは、「ロビン」の告発の場に出くわし、偽証をすることで飛び入り参加した。
そうすれば、あいつは姉上に嫌われる。あいつは姉上の側からいなくなる。
そしたら、オレが姉上を独占できる。
ことここに至るまで、突っ走った理由はそれだけだった。ただそれだけが頭に合った。
たったそれだけ、それでいて巨大な誘因力を持つ動機が、感情の肉厚な手を振り払って、トーラスを悪行へと駆り立てた。この機会を逃す手はないと思ったのだ。何をしても通じない、あの憎たらしい相手を目の前から永久に排除できる。あの晩、メイド長の目を借りて、目の前に現れた良心からの警告も、小さな眼窩の奥に押し込められて、もはや活発にその姿を表すことはなかった。これで、メリッサの言う通り、すべてが上手くいくと思った。そう思い込もうとした。
姉の、激しく傷ついて取り乱した様子にも、いつもの快活で明るい屋敷のみんなの豹変ぶりにも、必死で目をつぶった。必要な通過儀礼なのだと思おうとした。この嫌なことに耐えれば、たとえ今は傷ついていても、メリッサの言う通り、みんなが幸せになれるのだと。
だが、トーラスの努力は最も大切な人の平手打ちを以て報われた。メイド長との連帯の証である本も、隠匿三日目にして、最も無残な形で白日の下に晒されることとなった。その打撃を受けて後、その惨劇を目にしたトーラスは、自分の行いに重ねて天罰を下された心地がした。自分がいかに取り返しのつかないことをしようとしていたのか覚った。それで、寝巻の生地を握りしめ、一人真っ青になって震えていたのであった。
「あんなことするんじゃなかった。姉上があんなに悲しそうで、あんなにつらそうな顔をするんなら、お屋敷のみんながあんな怖い顔をするなら、あんな嘘をつくんじゃなかった。メリッサがいなくなっちゃうなら、あんなわがまま言うんじゃなかった」
トーラスは、仕立ての良いシャツの袖で乱暴に目元をこすり、何度もしゃくりあげた。
「ごめんなさい、ごめんなさい・・・・・」
蚊の鳴くような声で、誰に宛てるでもない謝罪の言葉を口にし、トーラスはアルエットの腕の中で泣きじゃくった。その様子をメリッサは、憑き物が落ちたような顔で、黙って眺めていたのだった。
夏休みが終わる。客人たちも公爵領を去る。
公爵邸に来た時と同じく、オレリアは馬車で、アザゼルは馬で、それぞれの住処に戻ろうとしている。
「折角いらしていただいたのに、ほとんどバタバタして過ごしてしまったわね。うちの者が多大な迷惑をおかけして、面目次第もございませんわ」
公爵家を代表して、アルエットは深々と頭を下げた。本当は、みんなで楽しい夏休みを過ごす予定だったのだ。それが、国家を揺るがす壮大な陰謀の余波が絡んでいたとはいえ、人事部門の身元確認能力や、身内のゴタゴタから出た厄災によって、事件に次ぐ事件に追い回されるようにして終わってしまった。招待した方としては、申し訳ない気持ちで一杯だったのだ。
そう言われたオレリアは、何言ってんのよ、と声を荒げた。
「まあ、そりゃあもう、計画したことの半分もできなかったし、事の成り行きに冷や冷やさせられっぱなしだったし、厄介事と言うか、面倒事と言うか、神さまの虫の居所を疑いたくなるような出来事が散々あったけど・・・・・・」
オレリアは、天界に苦情受付係があれば、今すぐクレームを入れてやりたいことを指折り数えながら言う。
「とにかく楽しかったわよ、多分。次も楽しみにしているわ。あんたからの招待なら、どんな手を使ってでもスケジュール空けてあげるから、また呼びなさいよ」
そう言って、快活に、わずかに気恥ずかしげにニッと笑う。アルエットは、オレリアのその横柄な物言いに救われた気がした。
「もちろん!冬休みもご招待しますから、次こそは、みんなでお出かけして、思う存分、好きなことを語り合いましょうね!」
この世界で何年を過ごしてもまったく削がれることのない作品への愛情に、アザゼルが苦笑を漏らしつつ言う。
「お前は死ぬ瞬間まで幸せだろうな。あの女はああ言ったが、わたし一人では到底お前を不幸にできん」
そんな他愛もないやり取りをしていると、アルエットのドレスの陰から、しびれを切らした様子でトーラスが顔を出した。アルエットは安心させるように微笑むと、その小さな背中に手のひらをあてがい、さあ、と言って背中を押す。
トーラスは下を向いて、しばらくもじもじしていたが、やがてアザゼルの顔をちらりと見ると、非常にか細く幼い声で、謝罪の言葉を絞り出した。
「嘘ついたり、やっていないことをやったって言ったり、大事なものを隠したりして、その、悪かったと思ってます。ええと・・・・・ごめんなさい」
が、上手くいったのはそこまでだった。傲然と頭を上げ、アザゼルをきっと睨みつけると、顔を真っ赤にしてぎゃんぎゃんわめきたてる。
「これ以上は譲歩しないからな。もう二度と口なんか利いてやらない。言っておくけど、お前に謝ってやっているのは、そうしないと姉上が悲しむからだ。オレに謝ってもらえるだけ、姉上に感謝しろよ!」
トーラスはこの一件で懲りたようで、アザゼルへの対応を、いたずらや魔法によるちょっかいを用いた実力行使から、「徹底無視」という冷戦状態の持続に切り替えたらしい。自分の行いを反省したことと、この冷淡なヒロイン代理とこの先仲良くするかどうかは、まったくの別問題であるようだった。この二人の関係が雪解けするのは当分先のことになりそうだった。
「おい、それでは謝りに来たんだか親切の押し売りに来たんだか分からんぞ」
アザゼルはいつも通りの無機質な目で、しょうもない虚勢に揶揄で返す。少し口元がほころんでいる。感情の疎通を拒むガラスじみた瞳が、ほんのわずかにだけ、柔らかな色を湛えているような気がした。
「うるさい、バーカ!」
相変わらずお粗末が過ぎる罵声を残すと、トーラスは回れ右して建物の中に駆け込んでいった。それを平然と見送るアザゼル。
「相変わらず語彙力のない小僧だ」
もはや感嘆している趣さえある物言いだった。「暖簾に腕押し」と言うことわざの見本として、辞書に載せてやりたくなるような光景であった。
「それじゃ、また」
「それじゃあ」
一人は馬上から、一人は馬車の窓から。別れの言葉を告げる友人たちを、アルエットは手を振って送り出す。
「「「学園で、また」」」
この言葉を口に出し、また口に出してもらえるのを、非常に嬉しく思いながら。




