宵闇の顎
「まったく、まんまとはめられたよ。あの切れ者の小娘さえ始末できればこっちのものだと思っていたのに、背後にこんな隠し玉がいたとはな。類は友を呼ぶとはこのことだな」
そう愚痴をこぼして、ジャックは話を終えた。心労で肉が削げ、落ちくぼんでしまったその眼窩には、月が投げかける冷たい光が溜まっていた。しかしジャックの茶色の目は乾いていた。その様はなんも言えず寂しくて、感情の死んだ肉体を差し置いて、霊体だけが勝手に泣いているように見えた。
「それにしても、やけに素直にしゃべるじゃないか。おのれの罪を認めて、改心したのか?」
ガスパール王子の問いかけに、ジャックは自暴自棄めいた笑みを浮かべた。
「ふん、何が改心だ。冥途の土産に教えてやっているのさ。死人に口なし、とは上手く言ったもの、今からお前ら全員、まとめて地獄に送ってやる!」
漆喰の厚塗りされた壁を打ち破り、棘のついた、緑の触手のような物体が飛来した。
穴の向こうに何かが見える。ざわざわ、ざわざわという音を立てて、何かこんもりとしたシルエットが、瓦礫を乗り越え姿を表す。おのおの意思でも持っているのか、影を構成する一本一本の線はずるずると蠢きながら伸び縮みを繰り返していた。
「なにこれ、キモッ」
オレリアが芋虫に威嚇する猫の勢いで悲鳴を上げる。それは、アルエットでさえも見たことのない生物だった。
それは薔薇の茂みに似ていた。
花という花の中央、あのうっとりするような紫の縁取りの奥、しなやかな金蕊のあるべき位置に、縦に長く裂けた瞳孔の、濁った月にも似た金色の眼が覗く。汚らしく血走り、今にも破裂しそうなまでに膨らんだ目玉はぎょろぎょろと動き回り、襲い掛かるべき獲物を意地汚く探索していた。
「そうさ、こいつは普通の薔薇じゃない。こいつは《宵闇の顎》!邪神ルシフ様が、手ずから品種改良を加えてお造りになられた、新種の吸血生物だぞ。それを、俺が魔力たっぷりの自分の血を吸わせて、ここまで大きく育てたんだ。こいつの手に掛かって死ねることを、せめてもの誇りに思うんだな」
いつの間にか、拘束を脱して立ち上がったジャックが、いかにも悪役めいた仕草で両腕を広げる。ジャックはおのれの左手首に黒曜石でできた刃を当てると、熱狂に由来する笑みを浮かべてためらいなくそれを引いた。
「ほら、もっと食え。たらふく俺の血を飲むがいい」
《宵闇の顎》は血の雨を受け、飼い主の高揚に合わせるように、金属質の耳障りな奇声を発した。
一拍遅れて、棘付きの触手が飛んでくる。アルエットは直撃する寸前でそれをいなした。続いて飛びこんできた相手には、爆発性の小さな火球をぶつけ、瞬く間に五本を灰にする。閃光の余波がアルエットの金髪に照り映え、その美貌に神々しい光を添えた。
緑の鞭は休みなく迫りくる。アルエットの顔をかすめた蔓の一つが、異世界版冷蔵庫に当たって、角に特徴的な細い傷をつけた。なるほど、ジャックは蜘蛛の使い魔ではなくて、この薔薇もどきで部屋を荒したのか。あちらでは、別の蔓が垂直の打撃でテーブルを叩き壊す。馬力も十分のようだ。
「ふうむ、吸血生物ということは、無論、血に含まれる魔力の含有量が高い方を好むわけだ。だから、膨大な魔力には敏感に反応する。だから、あれに飼い主の言うことを聞けるほどの知能があって、かつ、邪神ルシフの所有物である『赤い本』に、所有者の膨大な魔力のにおいのようなものがこびりついていると仮定したら、あんなにいい加減な家探しの方法も頷けるだろうねえ」
ホセアが感心したような、のんびりした口調で言ったが、その声からは、緊迫の色が抜けきっていなかった。
「で、新学期からずーっとあいつに携帯されてて、無駄にあいつの魔力を浴びまくった考古学の本も、あのキモい生物にとってはいいエサに思えたってわけね!」
ホセアの背に庇われたまま、絶叫ぎみにオレリアが納得の意を示した。それはもう見事に顔が引きつっている。びゅるびゅると蠢く《宵闇の顎》の気持ち悪いフォルムが、ずいぶんと堪えているらしかった。
かくして、部屋の方々では、人間と薔薇の鞭による、五対の舞踏が繰り広げられた。
五人の踊り手たちは五分の三が優秀な戦士の部類に属する者だったのだが、残念ながら、人間側が圧倒的に優勢とは言い難かった。
何せ、条件が悪すぎるのだ。
こちらは二つの目と二本の腕しかないのに対して、相手は二十数個の目を持ち、触手は無数、切っても切っても生えてくるし、燃やしてもまた再生する。狭い箱の外から一方的に攻撃してくる。それにある程度の知能も持っているようで、触手だけの攻撃が不利と見るや、鞭から棘だけを分離してを発射し始めるし、挙句の果てには本体が催眠ガスを流し始めた。
これはもう、早急に何とかしないと、アザゼルの汚名を晴らすどころの話ではなくなってくる。
「アルエット、何とかしてよぉぉぉぉ。あんたならあれくらい、ちゃちゃっとやっちゃえるでしょ、ねぇ!」
虫類独特の気持ち悪い動きに耐性のないオレリアが、もううんざりだ、あんなものもう一秒たりとも視界に入れていたくない、とばかりに半泣きで絶叫する。この吸血生物の存在そのものが最大級に耐え難いらしかった。親友の名誉とか自分たちの安全とか、下手を打てばここで失われるかもしれない他の一切を差し置いて。
なお、この時部屋にいた男どもは、どうして自分ではなく公爵令嬢に助けを求めるのか大いに疑問に思った。
「わたくしもこれの対処法は・・・・・」
力なく首を振りかけて、アルエットはある可能性に思い至った。
―『3(仮)』の告知用PVに、《宵闇の顎》らしき生物が、一瞬だけ映ってはいなかったか?
その時PCが決めていた技は・・・・・そうだ、《夢幻光》!対魔物・魔法生物に使う目つぶしの魔法だ。閃光弾とミラーボールを足して二で割ったみたいなあの技だ。あれなら『ユメウタ』でも登場した。ということはつまり習得済みだ。『ユメウタ』で登場した魔法は、全て完璧に使いこなせるよう、散々練習したからだ。
―いける!
「食らいなさい、《夢幻光》!」
指先から泡のようにこぼれ出、放たれた無数の光の球が《宵闇の顎》に群がり、総身をすっぽりと包み込む。
「ギョワアアアアアアアアア!」
おぞましい悲鳴が響き、脳が処理できる光量の限界を越えたのか(あれに脳があるとすればではあるが)、薔薇もどきは無秩序に触手を振り回してのたうち回る。催眠ガスと棘の放出は止まった。
その隙に、アルエットは追撃を始める。
「殿下、ヴレンさま、今です!」
アルエットが叫ぶや否や、剣を構えて王子とヴレンが飛び出した。
「殿下!ベルフェゴール家の台所が広くて助かりましたね!」
襲い来る触手を高速で捌きつつ、ヴレンがガスパール王子に声をかける。ヴレンの得物のベルグラムは、黒竜の炎――というより恨みつらみの成分で錬成された魔剣である。誕生から何百年経っても呪いの効果は健在で、「斬る」のではなく軽く「当てる」だけで、緑の茎がぼろぼろと黒く腐り落ちていった。
「そうだね。周りを気にせず思う存分動けるのはありがたいね」
ヴレンの方はろくに見もせず王子が答えた。こちらは細身の剣と風の魔法を駆使して軌道を狂わせ、優位と余裕を保った上で触手を処理していた。知性が光る戦闘スタイルだ。
「でも、それより重要なのは・・・・・」
そこで一旦会話をやめると、王子とヴレンは、背中合わせで横一閃の斬撃を放った。息のあった動きは互いの威力を増幅させ、迫りくる脅威を粉々に吹き飛ばす。
「「おかげでやっと、アルエットに/アルエット様にいいところが見せられる!」」
二人は声を合わせて快哉を叫んだ。
「さあ、決めるんだ、ヴレン!」
「剣に封じられし炎の竜よ、今、汝の怒りを解き放つ!」
ヴレンはベルグラムを顔の高さに構え、化け物目がけて突進する。剣全体を包むように、紫色の炎が燃え上がる。
「はああああっ!」
気合とともに繰り出された斬撃は、薔薇もどきの核を粉々に切り刻む。斬撃の後をたどって禍々しい光が走り、回復不能なダメージを受けた《宵闇の顎》は、爆発・炎上ののち灰となって四散した。
ヴレンの大技、《黒竜哮》が決まったのだ。敵の消滅を見届けたヴレンは、涼しい顔ですっと剣を下ろす。
「やったな、ヴレン」
「ええ。やってやりました」
王子とヴレンは、パン、と乾いた音を立ててハイタッチをかわす。
この二人はここ数ヶ月、邪神教団の台頭によって危機に瀕する自国を救いたいと願い、そしてそれを成し遂げられるほどの実力を持ちながら、出番と言う出番を他でもない堕天使アザゼルにかっさらわれ続け、手持ち無沙汰の状態で騎士団本部に放置されていた。我々にも見せ場くらいあってもバチは当たらないだろう、というかよこせ、というのが、血気盛んな若者たちの切実な本音であった。
そんな内部事情を知る由もないアルエットは、ニヨニヨと緩んでしまう口元を隠しつつ、美男子たちの友情の発露を特等席で鑑賞する。そのアルエットをじろりと睨むオレリア。
「あんた、別にヴレンに頼らなくてもさっきのアイツ自力で倒せたわよねえ。なんであんなことしたのよ」
そんなの答えは単純明快。
「だって、殿下とヴレンのかっこいい戦闘シーンが見たかったんだもの」
大好きなキャラが活躍している所を間近で見たい。ファンとしては至極切実な理由から、アルエットは、幼馴染たちがいるところでの戦闘は手を抜いて来た。
アルエットがその実力に反して、現時点で弟とクロードを除く攻略対象たちから「自分たちが守ってあげないといけない、頑張り屋さんなか弱い公爵令嬢」と思い込まれ、対・魔物戦、対・堕天使戦を含むありとあらゆる戦闘の場から徹底的に遠ざけられている元凶がここにある。
人間の脳というものは、自分の信念にとって都合の悪い情報を無視するようにできているようで、彼らは、巷でもてはやされる幼馴染の武勇伝を右から左へ受け流した。だから、アルエットがいくら悪漢をぼこぼこにしようと、熟練の冒険者でも手こずるような怪物を単身倒そうと、彼女の幼馴染たちが認識を改めることはなかったのである。
しかし、当のアルエットがその事実に気づくことは多分生涯ない。
戦闘が終わってほどなくして、どさくさに紛れて逃走したジャックが連行されてきた。
ジャックは、決戦に際して《宵闇の顎》に血を注ぎ込んだせいで、極度の貧血かつ魔力欠乏の状態にあった。そのため足取りがフラッフラで逃避行がはかどらず、命令を受けて追ってきた騎士たちに袋叩きに合って、いとも簡単に捕縛されてしまった。
真の未遂犯が捕獲できたら、あとは使用人一同に向けて、「ロビン」の冤罪を晴らす作業になる。ひそかにアルエットは、土壇場でジャックが無罪を訴えだすことと、ジャックの人当たりの良さがそれをみんなに信じ込ませてしまうのではないかと心配していたが、それは杞憂に終わった。
観念と言うより自暴自棄になったジャックが、自分から一切合切しゃべってしまったのだ。真犯人による自白は、素のジャックのガラの悪さと先刻行われた破壊行為への怨恨も手伝って、アルエットの予想に反してすんなり受け入れられた。
こうして真犯人が逮捕されたため、晴れて「ロビン」は自由の身となった。
地階の食料庫から連れてこられたアザゼルは、大きく欠伸をした。聞くと、さっきまで就寝の真っ最中だったのだと言う。地上で激闘が繰り広げられていたにも関わらず、その震源地の直下で熟睡していたというのだから、その肝の据わり方は敬服に価する。
さて、友人の身の安全が確保できたところで、この屋敷の主一族には、どうしても確かめなければならないことがある。
「メリッサ、どうしてこんなことをしたんだい?」
ホセアは沈鬱な面持ちを浮かべて、床の上に膝をつかされ、目の前に引き据えられた、冤罪事件の首謀者に問いかけた。ホセアは、態度や物言いにキツイところはあるが、職務に忠実で気配りのできるこの使用人を信頼していた。それがまさか、盗難騒ぎに便乗して娘の物に手を出して、娘の友人を陥れるような真似をするとは、にわかには信じられなかったのである。
「あの女さえいなくなれば、みんなが幸せになるからです」
メイド長メリッサは、教師に指名され、クラスの中でただの一人も解けなかった難問に答える優等生のような態度でこう答えた。それは狂信者の目だった。
「幸せに・・・・・?」
父の傍らでそれを聞いていたアルエットは、声を震わせてその単語を繰り返した。メイド長の言っていることが分からなかったのだ。言葉の羅列としては理解できる。だが、その文字列が表すところの意味を、脳が理解を拒んでいる。
メイド長はアルエットの方に首を向けた。何を当たり前のことを聞いているのか、とでも言いたげな表情をしていた。
「あの女がお嬢様と友達になったせいで、トーラス坊ちゃまは寂しい思いをしておられました。お嬢様が、あの女に使う時間がなくなれば、トーラス坊ちゃまはお嬢様に思う存分甘えられる」
あの女、「ロビン」さえいなくなれば、トーラス坊ちゃまは幸せになれるのです。メイド長は喜悦と狂気のやや入り混じった顔でそう繰り返す。
メイド長は嘲弄の色を浮かべてなおも言いつのる。
「アルエットお嬢様、あなたこそが悪いのです。トーラス坊ちゃまを放っておいて、他に友人を作っているあなたが悪いのです。あなたには、母親としての役目を果たされないゴモリー様に代わって、坊ちゃまの面倒を見る責務がある」
「メリッサ、アルエットはこの子の『母親』ではないんだよ」
激痛に耐えるように眉根を寄せて、噛んで含めるようにホセアは言った。この人も心で泣いているのだろう、とアルエットは思った。
「アルエットだってまだ子どもなんだ。どんな子どもにだって、大人の庇護のもと、安心に、安全に、自由にのびのび育つ権利がある。子どもたちの中で一番の年かさだったと言うだけで、親が放棄した義務を押し付けるなんて、絶対に間違っているはずだ」
「あなたに何が分かるのです。仕事にかまけて、この年になるまで我が子を顧みなかったくせに。あなたは黙っていてください!」
メリッサは咆えた。我が子を盗られまいとする手負いの獅子のように、全身の筋肉という筋肉に怒気をみなぎらせて咆えた。
メリッサもまた、心で泣いていた。
メリッサは、メイド長としての職務を果たす傍ら、トーラスの乳母をも務めていた。
トーラスの生みの親であるはずのゴモリーは、ありとあらゆる快楽を享受すること、自分がちやほやされることにしか興味がない。子を産み落とし、胎が空になって軽くなると、再び愛人を漁りに屋敷を飛び出してしまった。だから、トーラスの実質の育ての「母」は、メリッサということになる。
トーラスの生まれるひと月ほど前に乳児を亡くしていたメリッサは、トーラスに惜しみない愛を注ぎ込んだ。難産で、医者から二度と子どもは授かれない、と言われていたことも、溺愛に拍車をかけた。トーラスも、厳しくも愛情深いメリッサのことを慕った。
メリッサがトーラスに抱く愛情は、母親としての役目を放棄するゴモリーへの怒りも手伝って、理性の制御を突き破るほどに増大していった。
あの子を、本当の我が子にしてしまいたい。
たった一度だけでもいい、お母さん、と呼んでほしい。
だけど、それは許されることではない。どれほどトーラスを愛していても、メリッサは所詮は使用人に過ぎないからだ。だけど、どうして?わたくしはこんなにあの子を愛しているのに。
そのくせあの女はなんだ?ベルフェゴール公爵家の奥方の腹から生まれてきただけで、「姉」と呼ばれ、慕われ、愛情のままに触れることが許される。どこの馬の骨のものとも分からぬ子種から生まれたくせに!
本来、彼女の長所であったはずの控えめで生真面目な性格は、彼女を愛情の化け物に変えてしまった。
屈折した愛情は、トーラスに身内として、心のままに接することのできるアルエットへの憎悪となって、青白い皮膚の下でしずかに沸騰を続けてきた。理性の網を潜り抜けた激情は、皮肉やいやがらせとなってアルエットに向けられた。それでもアルエットは微笑みを絶やさないままでいる。聖母のように優しく慈悲深い、トーラスの大好きな「姉」のままでいる。アルエットの性情はよく人を惹きつけた。光に群がる虫のように、アルエットの元にはたくさん人が集まった。アルエットはそのすべてに微笑み、有り余るほどの愛と思いやりを注いでいる。
その慈悲深さは自分さえも向けられた。あのうつくしい笑顔を向けられるたびに、自分が嫉妬と増悪で肥大化した醜い怪物であるかのような感覚に苛まれた。
返して。わたくしの息子を返して。
あなたには、あなたの愛を受け取ってくれる人がいくらでもいるでしょう。
あなたを愛してくれる人がいくらでもいるでしょう。それでもまだ求めるというの?
わたくしには、その子しかいないのに。
わたくしから、唯一の光を盗らないで。
だから、アルエットに「親友」ができた時に思ったのだ。お前なんか、嫌われればいい。心の内を晒しあえる無二の友なんて、友愛なんて、取り返しのつかない形で永遠に失われればいい。
もしも壊れないというのなら、わたくしの手で壊してやる。
お前に大切なものを奪い去られる、わたくしと同じ目に遭わせてやる、と。
「ええそうです、トーラス様だけではありません。あの女さえいれば、みんなが幸せになれる。みんなもそう思っている」
激痛を胸の奥深くに秘めて、メリッサは叫んだ。猛然と頭を振ったせいで髪が崩れ、地面に落ちた影が形を歪めた。決して、この場にいる人間の何者にも拾い上げられることのない悲哀が飛散する。
「ガスパール殿下だって仰っていたではありませんか。『あの子が来てから、アルエットお嬢様と過ごす時間が極端に少なくなった』、と。ヴレン様だってそうです。あの女が一人で何でもやってしまうせいで活躍の場がないと、嘆いておられたではありませんか。みんなそう思っている。わたくしだけではないはずです」
狂乱が一秒ごとに、メリッサの心臓から血液とともに送り出される。メリッサはつかみかからんばかりの勢いで、ガスパール王子とヴレンに詰め寄った。目を一杯に見開き、四白眼で、歯列がよく見えるまで口を大きく開いたその表情には、何かにすがるものを求めるような心情が現れていた。
メリッサにすがりつかれた王子とヴレンは、当惑の色を浮かべて顔を見合わせた。
「僕は確かにアルエットと過ごす時間が少なくなって寂しいとは言った。言ったけど・・・・・未来の妻の幸せは僕の幸せだ。仲の良い友人ができることは微笑ましいことじゃないか。それに、アルはもうじき王妃になる。例えば毒を盛られるとか、暗殺されそうになるとか、身の危険だってこれから増えるんだ。心を許せる友だちは、ひとりでも多い方がいいだろう」
「まあ、本部での留守番が面白くないことは認めますが・・・・・。その程度のことで誰かを排除しようとし出したら、私はつまらないことで他人を貶めようとする、そこらの暇人と一緒になってしまいます。それこそ騎士の名折れではありませんか。仲間の不幸の上に成り立つ名誉など、幸せの内には数えたくありません」
「・・・・・どうして」
最大の味方だと思っていた人々に突き離され、自己正当化の術を取り上げられたメイド長は手を伸ばしたまま固まった。裏切りだ、あなたが、あなたたちがそうおっしゃったから、と、か細く裏返った声が理不尽を呪った。
現実を拒絶しようと激しく頭を振ったメリッサは、視界の端に最愛のトーラスを捉え、わずかに表情を緩ませた。
「坊ちゃま、トーラス坊ちゃまなら、分かってくださいますよね」
狙いをつけられたトーラスは、恐怖で顔をこわばらせて後ずさりする。彼女の最愛の息子の目にも、もはや彼女は「優しい母親代わり」ではなく、人間と見れば誰彼構わず捉えて食らおうとする、青白い鬼婆としてしか像を結ばなかったのだ。
残されていた最後の希望が自分を見限って去って行ったのを悟り、メイド長は絶望に駆られて叫びをあげた。
「どうして、どうして誰も分かってくださらないのです!わたくしはこんなにも――」
『黙れ』
突如として、メイド長の声が消えた。メイド長は喉元を押さえ、驚いて口をパクパクさせているが、臙脂の唇の隙間から漏れ出てくるのは、意味をなさない空気の塊だけである。
「アルエットであれトーラスであれ、あいつらの最善はあいつらが決める。相手の心を蝕み自己決定権を奪う行為は、友情だの、恋だの、親子愛だの――どんなにうつくしい名前のついたものから出発しようとも、そんなものは依存か、支配欲のどちらかにすぎない」
人差し指を構えたままでアザゼルは言った。
「愛情をはき違えるな。自分の思う最善を押し付けることだけが、相手のためになるわけじゃない」
そう淡々と語る無機質な赤い目には、わずかに懐古と自嘲、鋭い自責の色が浮かんでいるように見えた。
アザゼルが指を下ろす。メイド長は激しくせき込みながら地面にくずおれた。それでも、ダークグリーンの瞳を情念に燃やし、自分の声を奪った犯人を呪詛するように睨みつける。
「・・・・・お前に何が分かると言うの」
「お前こそ、わたしが理解できるものか」
メリッサに背を向けてアザゼルが言う。
「これ以上こいつの妄想を傾聴していても時間の無駄だ。罪状と処遇が決まったのなら、こいつが行くべきところにとっとと連れていけ」
それは周囲を固める、公爵領の騎士たちも同意見だったようだ。硬い表情をしたまま頷き合うと、メリッサを立たせるために前へ出る。このいっそ冷酷とも傲慢とも取れる提案はすんなり受け入れられ、元メイド長は手首を縛られ、連行されようとする。もはや関わり合いになりたくないと言わんばかりの迅速さであった。




