8.5:月夜の孤独な聖女と剣士
その夜、アイリは腹が立っていた。
突然異世界に喚ばれたらと思ったら、「やることはない」と言われ。さらに、一方的な都合を押し付けられた。
お前に権利はない。
生活は国が管理する。
あれはするな、これはするな。
聖女らしくあれ、国民の手本であれ。
個人の気持ちなどお構い無し。
国のための人形であることが求められた。
別に元の世界に未練があるわけではない。帰りたいと切望しているわけでもない。
「喚ばれてしまったからには仕方がない」と、意外にあっさりこの運命を受け入れていた。
だが、それを押してもあまりの一方的な都合の押し付けようだった。話し合いの余地もない。選択肢に「はい」しか出てこない予定調和のクソゲーを毎日繰り返している。
ここに来てからたったの二週間だというのに、彼女はすっかり辟易していた。
とはいえ蔑まれているというわけではない。むしろ扱いは良い方だろう。
彼女の身の回りを世話してくれる者たちは、丁重に接してくれた。神話上の存在であり神にも等しい聖女に関われるのだ。たとえ彼女自身に何の権力がなくても、彼女と関わること自体に栄誉を感じる人間は少なくない。
だがそれも、アイリとっては腫れ物扱いと変わらなかった。
1人の人間として扱われない。
アイリを「聖女」という記号でしか見ない。
みんなが都合の良い存在であることを彼女に望んでいる。
それが息苦しくて、腹立たしくて仕方がなかった。
(…はぁ、眠れないや)
時刻はとっくに夜半過ぎ。
イライラした気持ちを抱えたまま眠ることができなかった聖女はベッドから抜け出し、私室を出て、気晴らしのために城内を一人で散歩をすることにした。
これを日中にやるとメイドたちにめちゃくちゃ怒られる。「供のものを呼びます」「護衛を手配しますから」と呼び止められ、自分の好きなタイミングで外に出ることもままならない。
しかも供だか護衛だかが常駐しているわけではない。都度、兵士の詰所から手の空いている者を呼んでこなくてはいけないのだ。「なぜ必要なのか」「城内だけなら問題ないだろう」と文句を言っても、返ってくるのは「そういう決まりだから」という紋切り型の回答ばかり。非効率極まりなく、これにもアイリは辟易していた。
(思考停止もいいところよね…、担当つけるとか、城内なら目をつむるとかしてくれればいいのに)
彼女は昼間の出来事にぐちぐち頭の中で言いながら、部屋を出た。平和ボケしてるのか、意外に警備は手薄である。兵士の巡回をやり過ごせば簡単に抜け出せるのは、この2週間ですっかり学習していた。
廊下に出る。
深夜の城内はひんやりとして気持ちが良い。ほとんどみんな寝静まっていて、生き物の音が聞こえない。張り詰めた静寂が温度をいくらか下げている気がした。
窓から差し込む月明かりが照らす城内。一面が真っ青な視界は、寂しくて優しい。
「すべての悩みは対人関係の悩みである」と心理学者のアドラーは言ったけれど、「なるほどそうだ」と彼女は噛み締めていた。孤独はいつもアイリを慰めてくれるし、絶対に傷つけない。それは異世界でも元の世界でも変わらない。彼女の味方は、この柔らかい孤独だけだった。
…のだが。
「あっはっはっはっは、お前うぜえんだよー」
「オルァさっさと立てよ!誰が寝ていいっつったよ!?」
安らぎの時は、不意に破られた。
遠くで男たちの無神経な声が聞こえる。複数人で騒いでいる様子がうかがえた。その内容は、どう聞いても穏やかな状況ではなさそうだ。
(…何?)
アイリは声のする方に歩いていく。どうやら庭から聞こえてくるらしい。2階の廊下から庭を見下ろすと、四人の男たちが、一人を取り囲んでいる様子が見えた。全員が城の兵士の服を着ている。
わかりやすくリンチだ。取り囲まれている青銀髪の男は地面に這い蹲り、されるがまま暴力を受けている。抵抗しない様子が油に火を注ぎ、暴行がエスカレートするに比例して下品な笑い声が大きくなっていく。
(嫌なものを見ちゃったなぁ…どうしよ)
普段だったら、直接は関わらないだろう。たとえば人を呼びに行くとか、彼女は自分の安全を確保した状態で介入することを選ぶタイプだ。平時であれば、それがおそらく最適解である。
しかし時刻は深夜。周りに人はいない。
この廊下は兵士の巡回経路から外れているし、兵舎や使用人たちの居住区からも遠い。うずくまっている男の様子から、あまり時間をかけては手遅れになるかもしれないと聖女は危惧した。
その時。
「…」
這い蹲っていた男が身体を起こそうとして、彼の顔が見えた。
青銀髪をしたその男は、その美しい髪とは不釣り合いなほど目が死んでいる。すべてを諦めている瞳。自分は攻撃されて仕方がないという物分かりの良い態度。この嵐が過ぎるまで耐えるしかないと思っているような表情。
アイリはその顔が気に入らなかった。昔の自分を見ているようで腹が立つのだ。
聖女は自分の手の平を見つめた。グー、パーと手を握ったり開いたりして、感覚を確かめた。召喚される前には感じることのなかった温かいエネルギーが流れるのを感じる。身体の中心から肩を通り、腕、手の平、指先へとエネルギーが移動する。調子は悪くない。
(…せっかくだし、試すか)
開いた手の平をもう一度ぎゅっと固く握り、彼女はスタスタと庭へ向かって歩き出した。
カツンカツンカツン、とヒールの靴音が暗い廊下に響く。
しばらくすると目の前には男たちの大きな背中が4人分、彼女の視界に映っていた。
「ねぇ、うるさいんだけど」
「は?」
「さっきからうるさいの。それ、やめてくれない?いい夜が台無しだから」
庭についたアイリは、不快感を隠さずに声を出した。口調はわざと崩している。ですます調で喧嘩を売っては相手に舐められるだけなのは、喧嘩の経験がないアイリにもさすがに分かっていた。
少し気を抜いたら声が震えてしまいそうだ。ヒーローの真似事は、やってみると意外に難しい。
「なんだお前、どっか行けよ」
「…っ!おい、やめろ!この女、聖女様だ…」
「は?なんだって聖女様がこんな夜中に出歩いてるってんだよ」
「へーっ、聖女様は下々の人助けまでされるんですねぇ~。遅い時間にご苦労様でぇーす」
兵士たちはさすがに彼女の正体に気が付くが、相変わらずヘラヘラ笑って彼女を見ている。アイリに危害を加える様子はないが、だからと言って忠告を聞くそぶりも見せない。
「…やめるの?やめないの?」
この最後通告の返事は、再度蹴りを入れることだった。一人の兵士が勢いよく男を蹴飛ばし、倒れる男を見た残りの数人がどっと笑いだす。
「痛い目見ないと学習しないタイプね。よくわかった」
彼らの反応を確認してから、聖女はその場で目を閉じ両手を胸の前で構えた。手の平と手の平の間には空間が空けられている。
アイリは手の間の空間に意識を集中させた。するとどこからともなく風のような空気のうねりが生まれ、聖女を中心に渦を巻く。彼女の髪や衣服がうねりに従って下から上へとふわふわと揺れる。しばらくすると彼女の手の間には、光の玉が生まれた。それはだんだんと大きくなり、煌々と光っている。
馬鹿笑いをしていた兵士たちは、このただ事ではない雰囲気を前に言葉を失った。
「はい、注目」
バスケットボール程度の大きさまで光の玉が育ったところで、アイリはわざとらしく言ってみせる。
「知ってるよね?聖女ってあなたたちみたいな一般人と違って、魔法が使えるの。悪を滅する正義の光。その昔、国に不幸をもたらしたという闇を祓った救済の刃。これを受けたらどうなるか…この国に暮らす人なら、もちろんわかるよね?」
男たちが絶句した理由がこれである。
この国は建国の伝説に聖女が関わっている。アイリは詳しいことをわかってないが、聖女が魔法で悪を倒したとかなんだとか。この国に住むものなら、子供から老人までだれでも知っている神話らしい。
彼女はこれをブラフに使った。
アイリにもたらされた魔法の内容は「ただ光る玉を作るだけ」だ。当たったところで痛くもかゆくもない。人畜無害な、言い方を変えるとほとんど何の役にも立たない魔法だ。少なくとも戦闘向きではない。
しかしこの事実は世間に公表されていなかった。
それをいいことに彼女は神話を持ち出して「これが当たったらさぞ大変なことになるだろう」とハッタリをかましたのだ。信仰の深い人間なら騙されてくれるだろうと期待して。
その期待は大当たりだった。城に勤める兵士に、伝説を知らないものなど皆無だ。ゆえに彼らは彼女の不思議な力を前に、明らかに狼狽えだした。「やべえ」とか「あ」とか「え」とかが口々に飛び出す。先ほどまでのへらへらした態度はどこへやら。小刻みに震えだし「どうしようどうしよう」とお互いに顔を見合わせている。
「さぁ、映えある聖女の魔法の犠牲第一号は誰かな?」
悪役じみたセリフに合わせて、もう一回り光の玉を大きくした。大いなる未知の力を前にして、蛮勇を振りかざせる者などそうそういない。
声にならない小さな悲鳴を上げながら、男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「はぁ…上手くいったかな」
「…」
「?…ああ、ごめんなさい驚かして。これ当たっても痛くないから、安心してください」
逃げた兵士の行った方を見ていると、後ろからの視線に気づく。男が、ぼーっと光る玉を見つめていたのだ。アイリはすぐに魔法を解除して男に近づいた。辺りは月明かりに包まれる。
「大丈夫…じゃないですよね。どうしよう、起き上がれますか?」
ゆっくりと彼の上体を起こし、声を掛ける。男はうなだれたままで体に力が入っていない。相当ダメージを受けたのだろう。
パッと見た感じは大きな怪我はなさそうだが、服に隠れた打撲が多いのかもしれない。それに地面に倒れたせいで、全身が土まみれになっている。
どこからどうしたものかと聖女は思案し、ひとまず服についた土を落としながら怪我の様子を聞こうと手を伸ばす。しかしその手は、目の前の男によって阻まれた。
「…汚れます」
「?」
男は力の入らない手で、聖女の細い手首を持って制止する。
「あなたの手が汚れるから、捨て置いてください」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ?怪我してるんですから、早く手当しないと」
「…聖女様はご存知ないかもしれないですが」
ゆったりとした動作で、男は顔を上げる。先ほども見た、すべてを諦めている目がそこにあった。
「俺はシャパリュの民で、多くの者から蔑まれています。何百年も前に祖先が悪事を働き、それ以来シャパリュは罪人なのです。俺に関わっては、聖女様の名誉に傷がつきます」
そこまで言い切ると、男は手を離した。これだけ言えば、自分に関わることはないだろうと思って。だからこのあとの聖女の言葉は、彼にとっては信じがたいものだった。
「…それで?」
「え?」
「それが何?あなたがシャパリュだと、どうして私が助けちゃいけないの?別にあなたが何かしたわけじゃないでしょ?」
「っ…ですが、俺は人以下の民族で」
「奇遇ですね、聖女も大して人権ないの。つまり人以下。あなたと同じです」
なおも「自分を救う価値はない」と卑下する男を遮って、聖女は強く言う。彼女はそんな悲しい理由で、自分自身をぞんざいに扱う男が気に入らない。自分のことを大切にできるのは自分しかいないのだ。それを知る彼女は、だから彼の悲しい瞳を無視できない。
「私はアイリ。人権のない者同士、仲良くやりましょう」
「…」
「お名前、聞かせてもらえますか?」
信じられないものでも見るかのように、彼の目は聖女を見つめていた。思考が追い付かず、二人の間に沈黙が流れる。やがて自分の言葉を待っていることに気づくと、彼はやっと口を開く。
「…イーヴ」
「じゃあイーヴさん、立てますか?肩貸しますから、少し移動しましょう」
返事を待たずに、聖女は男の腕を自分の肩にかけてゆっくり立ち上がる。されるがままに男は歩き出した。足に力が入らないが、本能的に「彼女を押し潰してはいけない」とだけ考えて、ありったけの気力でまっすぐ歩くことだけに集中した。
イーヴのこの夜の記憶は、ここで途絶えている。
次に目が醒めた時、彼は柔らかな寝具の上にいた。
肌に当たる布の感触で、清潔な服に着替えさせられていることも、上質なベッドの上に寝かされていることも分かった。普段寝ている粗悪な寝間着や安い寝床とは、肌触りが明らかに違ったのだ。
イーヴは上体を起こしてあたりを見回した。部屋の中は薄暗いが、カーテンの向こうから漏れてくる白い光で、日の高い時間であることが分かる。広い室内は豪奢な装飾がされていて、よく見ればベッドには天蓋がついていた。
ベッドから一番遠い壁に、扉がある。
その向こうから誰かの話す声が聞こえてきた。
「何考えてるんですか聖女様!?シャパリュなんかを従者にするなんて…」
「バジルさんって細い体のどっからそのバカでかい声出てるんですか?息切れしないの?」
「誰のせいで怒鳴ってると思ってるんですか!あなたはこの国のことをわかっていないからこんな非常識なことができるんです!大体シャパリュというのは…」
そっとドアに近づき、ゆっくり開ける。声の主は聖女と聖女の担当官だった。ドアノブをひねるカチャッという音に、声の主たちはイーヴが部屋を出てきたのに気づいた。
「あ、イーヴさん!おはようございます。身体大丈夫ですか?どこか痛いところとかないです?」
「アイリ様!話は終わっていません!」
バジルの非難を無視して、アイリはイーヴに近づいてくる。イーヴが「いえ…」と小さく返事をすると、彼女は満足そうに笑顔を作った。
「イーヴさん。突然で申し訳ないんですけど、私の従者やりませんか?」
「従者…ですか」
「そう。私、困ってたんです。部屋を出るだけで“護衛をつけろ、供をつけろ”と周りがうるさいのに、そのわりに誰も常駐してくれなくて。だから従者として、いつも一緒に行動してくれたらうれしいなーって。でももし嫌だったら、軍に戻ってもらっても大丈夫です。話はつけておいたから」
「…話?」
「はい、穏便に済ませてますから安心してくださいね。もう二度と“しごき”はしないと約束してもらいましたので」
「?、どうやって…」
どうやってそんな約束を取り付けたかといえば。
実は彼女、イーヴが寝ている間に彼の上司に直談判しに行っていた。「イーヴをアイリの従者にする」もしくは「イーヴが軍での勤務継続を希望した場合、二度と“しごき”をしないこと」を要求するために。
これらの要求が通った理由は、シンプルである。彼女は昨夜、蜘蛛の子を散らすように逃げて行った兵士たちの様子を詳細にチクったのだ。「この軍には敵前逃亡をする軟弱者がいるようですね」と。
軍にはいくつか規律があるが、その中でも敵前逃亡は重い処罰が科される重大な違反行為だ。単純な命令違反という以外に、軍内部の士気が下がるし、対外的にも聞こえが悪い。しかも逃亡した相手は、何の武力も持たない聖女である。丸腰の相手にビビって逃げ出した、なんて噂が回れば王国軍のメンツは丸潰れなのだ。今は聖女の魔法の何たるかが公になっていないが、いつかは民衆にも伝わるだろう。そうなった時、今回の出来事は何としてももみ消さなくてはいけない不祥事となる。
アイリはそれをわかっていて、にこにこチクチク昨夜の出来事を詳細に語った。イーヴの上司は、顔を青くしたり赤くしたりしながらそれを聞いて、最終的に彼女の要求を受け入れた。
権利がなくてもやり方はある。アイリは意外に強かな女性だった。
まぁ、これらの事情を全て説明するのも野暮というものなので。彼女は「フフッ」と笑ってイーヴの問いをやり過ごした。
「どうしましょう?考える時間が必要なら1回持ち帰ってもらっても…」
「…いえ」
一連の出来事にイーヴは面食らうと同時に、心が動いていた。自分のような出自の者を助けてくれるばかりか、この先の道を示してくれる人が、まだいたとは。彼は救貧院にいた幼い頃にある貴族の支援を受けたことがあったが、手を差し伸べてくれたのはその人たち以来だ。その時の人物にはもう恩返しができないけれど、今は違う。目の前の恩人に報いることができる。
そう思った彼は、胸に手を当て自然と頭を下げていた。
「謹んでお受けします」
「…ありがとう。よろしくお願いします!」
アイリはイーヴの手を取り、ブンブンと上下に振り回す。その様子には嬉しさや喜びが溢れていた。
「アイリ様!私は認めませんからね!」
「バジルさんが認めなくたって、私とイーヴさんとの雇用関係に全く影響ありませーん」
「ああ言えばこう言う!」
「そのままそっくりお返ししますー」
「きいぃぃぃいいいい!!!!」
バジルが奇声を上げながら部屋を立ち去る。反対しつつも口を挟める立場になく、しかし経費は当然国の税金から出るので、彼のやりきれなさは限界を突破していた。声でも上げてないと精神を保てないのだ。
その様子を見たイーヴは驚き、やっぱり断ったほうがよかったのではと不安になった。
「…本当によろしいのですか?その、俺は…」
「いいのいいの。ああいう手合いはどうせ話聞かないし」
「でも」
「イーヴさん、あのね」
聖女はイーヴに向き直って、彼の顔を覗き込む。
「イロモノって意味じゃ、聖女も負けてませんからね。異世界から来てて、魔法まで使えちゃうんですから。張り合ったって無駄ですよ?」
「…」
何を言ってるのか、と一瞬イーヴは戸惑った。別に張り合ってないし、聖女のことを間違ってもイロモノなどと思ったことはない。なぜこんな話になっているのか…
そこまで思考が巡って、やっと彼は「自分を卑下しなくてよい」と言われていることに気づく。
なぜここまでしてくれるのかイーヴにはわからなかったが、ありがたいやら返事に困るやらで、彼は困り眉で笑うしかできなかった。
「さ、そうと決まればいろいろ用意しなきゃ。行きますよ、イーヴさん!」
「…はい」
聖女は剣士の手を引き、歩き出した。
二人を包むのは、あたたかく穏やかな陽の光だった。
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