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清隆学園の夏休み  作者: 池田 和美
7/15

七月の出来事・⑦

 時間は流れて二学期も始まろうとしていた。

 由美子は、最後の夏休み開館をした清隆学園高等部図書室の業務を終えてから、制服のままで小さな花束を抱えて寄り道をした。

 強化ガラスの自動ドアを通り、薄桃色をした絨毯張りの真っすぐな廊下を進んで行った。

 そこはF市北部に位置する公立病院の癌病棟への渡り廊下だった。

 彼女はいつも学校指定の革靴ではなくピンク色のスニーカを履いているため、足元の絨毯と相俟って、遠くから聞こえてくる別の病棟からの雑音以外は、何もその白い壁に反響しなかった。

 廊下はしばらく行くとエレベーターホールにつながっていた。

 そのエレベーターホールに先客がいた。中年の男女が一組で、エレベーター待ちをしていた。

 男のほうはスーツ、女のほうはカジュアルな黒のツーピースである。二人の姿はまるで喪服のようだった。服だけではない、何かしらの疲労感がこの二人を打ちのめしており、表情のそこかしこにそれが垣間見えた。

「あ、こんにちは」

 由美子の顔見知りだったのか一礼した。それで運行中のエレベーター表示を見上げていて気がつかなかった二人も振り返って相手が誰なのか確認した。

「いつもお見舞いに来ていただいて、すみませんね」

 女の方が柔らかく微笑んだ。その眼差しは池上透とウリ二つだった。

「トールの具合はあれから…」

「安定していますよ。あの娘に良い思い出をありがとう」

 横からネズミ色のスーツ姿の男が頭を下げた。

「いえ、そんな」

 その時エレベータが来て三人はそれに乗り込んだ。

 二人は池上透の父母であった。

 三階の東端の部屋になんとなく黙ったまま三人は進んだ。

 その部屋の入口表記は一人だけであった。

 透はその部屋のベッドに色々な医療器具に囲まれて横たわっていた。腕には点滴、脇からはドレーン、鼻には酸素吸入チューブが刺さっていた。

 しかし、由美子が透のそんな痛々しい様子に気がついたのは後になってからだった。

 その病室はまるで花屋が引っ越してきたかのように色とりどりの花で埋められていたからだ。

「こ、これは」

 透の父母もこれを初めて見るらしく動揺していた。

 そこへ担当看護師がやって来た。

「ああ、おとうさんおかあさん。今朝早く贈られて来たんですよ。あいにくと贈り主が判らないんですが…」

 透の父母と看護師の会話を聞き流しながら、由美子は酸素吸入チューブを差し込まれたままで、彼女に微笑む透に近付いた。

 彼女の指が弱々しく上げられて、サイドテーブルの上を指差した。

 そこには小さな紙切れがアロマジェイルの花に囲まれて置いてあった。

 それは鉄道の切符だった。未使用のそれはこの間海に行った時に降りた駅までのものだった。

 どうやらそれが贈り主からのメッセージカード代わりらしい。

「まさか、郷見?」

 由美子の脳裏に二人を残して覗いていたバスの待合室の風景が甦った。

(今度はもっと元気な池上さんが見たいな)

「あのバカわかってて…」

 透は涙目で頭を横に振った。

 風邪をひいたような枯れた声を、苦しそうに絞り出した。

「郷見さんは何も知らなかった」

 少し喋るだけでも負担が大きいのだろう。溜息のように息をついて休みながら言葉をつないだ。

「ただ親切な人が花を贈ってくれた。それだけです」

 透はしばし目を伏せた。

「だから私が居なくなっても、郷見さんは気にする必要は何もない。だって、なにも知らないのだから」

 由美子にデートがしたいと打ち明けた時の約束であった。自分が重病人であることを弘志には知らせない。なぜなら義務感でやさしくされたくないから。

「トール」

 由美子は彼女の髪をそっとなでつけてやった。



 いつの間にか高くなった青空が、喫茶店〈コーモーディア〉の窓から一面に覗くことができた。

 空調の効いた店内には残暑の気配が感じられないから、より一層次にやって来る季節を感じさせた。

「なんだよ、お前たち他に行くところは無いのか」

 あきれ顔のマスターが三人に声をかけた。

 いちおう窓際に陣取った三人のテーブルには、それぞれのノートが広げられていた。

 残ってしまっている夏休みの課題を、いっきに片づける予定なのだ。

「まあね」

 弘志は両肘をついてそこに顎を乗せ、大きな窓から空を見上げていた。愛用のシャーペンをぶらぶらと揺らしており、言葉にもまったく気が入っている様子はなかった。

 空には、はやばやと秋を感じさせる雲が一つ二つあるだけだ。

「弘志が慢性の病にかかっているのだ」

 喫茶店のメニューに無い湯呑みの茶をずーっとすすってから、いつもの通り文庫本を片手にした空楽が代わりにこたえた。

 彼は無事に正美のノートを写すことを終えたのだ。

「恋の病とか」

 ウエイトレスがキャーと声をあげた。

「ちがうよ。弘志のは金欠病」

 正美が口を挟んだ。

 あとは弘志が写せば終わるのに、いっこうに彼がノートに集中しないので、少々機嫌の悪い声だった。

「あ、そうなんだ。伝染らないように離れてよ」

 ウププッとお盆で口元を隠して彼女が吹き出した。

「なんだよ、それじゃオレの金欠病は慢性で伝染性なのかよ」

 呆けていた様子だった割にちゃんと耳に入っていたとみえて、彼女の声に振り返った弘志はとんがった声を出した。

「その通りじゃん」

 正美の軽口にキッと振り返る。しかしその怖い顔も長続きせず、元気なくまた両肘をついてそこに形の良い顎を乗せ、空へ視線を戻してしまった。

「重症の肋膜腫。本来ならば今年の春までの命だった」

 ぼそぼそと空楽が口を開いた。弘志に気を取られていた正美が彼に振り返った。空楽はあいもかわらず文庫本に目をやっていた。

「なんの話?」

「独り言だ。忘れてくれ」

「ふーん」

 話しの見えない顔の正美は諦めたように、テーブルに置いた湯呑みのお茶をすすった。

「もう秋だねぇ」

 ただでさえ銀縁眼鏡をかけているため実際の年齢より上に見られがちな正美が爺くさい発言をした。

 弘志は相変わらず高くなった空を見上げていた。そんな弘志に空楽は、わざわざ手にした文庫本をテーブルに置いて声をかけた。

「弘志」

「なんだぁ」

 呼びかけられても彼の薄い色をした瞳は空に流れる雲を追っていた。

「『ゆゑもなく慕はれるひとの面影を夏のおもひにゑがきながら』」

「なんだって?」

 弘志が空楽を振り返って眉をひそめてみせた。

 空楽はただ肩を竦めてみせた。

「いや、そんな詩があったな、と」


 その冬のこと。とある葬儀場で藤原由美子は参列者名簿の中に「郷見弘志」の名前を見ることとなる。


七月の出来事・おしまい



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