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並行世界(パラレルワールド)は君のいる世界  作者: 方丈 治
第二章

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【番外編6】あの日々に色彩を

 

 クロハが初めてカンナビ・バイカを目にしたのは、バイカが空渡城に初登城した日。


 齢15でカンナビ家を継いだバイカが景王に拝謁するため、王の住まう大殿おおとのの前に来ていた時だった。


「姫様! そちらにお行きになってはいけませんよ!」


 その声に、一人の幼女が振り返る。彼女は、景ノ国の王女クロハ。5歳になったばかりだ。


 クロハは王女なれども、部屋の中でじっとしているのは性に合わず、こうして彼女の住む御殿を度々抜け出しては、城内のあらゆる所へ出掛けているのだった。


 そこへ、一人の女官が息を切らして追いついてきた。クロハは彼女に尋ねる。


「ねぇ、カンボ。わたし、お父さまに朝のごあいさつをしたいの」

「王様は今日、他にお会いになるお約束があるそうですよ。だから姫様は別の場所でお遊びになりましょうね」

「もしかして、あの人?」

「……えっ?」


 女官がクロハの指さす先を振り向くと、そこには一人の若者が立っていた。初登城であるにもかかわらず、空渡城の荘厳たる雰囲気にひとつも飲まれることなく堂々と大殿の前に立つその若者は、鎧を身に着け、腰には剣を携えていた。


「まあ、あの方が噂のカンナビ・バイカ様ですか……何と雄々しいお姿でしょう」

「カンボ、おかおが赤いよ?」


 クロハのその一言に、うっとりと若者を眺めていた女官がハッと我に返る。


「そんなことはいいですから! さあ姫様、もう戻りましょうね?」

「うん……」


 女官に促され、クロハは踵を返した。途中で振り返ると、先ほどの若者は取り次ぎを頼んでいた官吏に連れられ、大殿の中に入っていくところだった。


 大殿から自分の部屋に戻った後も、何だか落ち着かない。とうとう我慢できなくなって、クロハは部屋を飛び出した。


 父王に会えないなら、兄のもとに行こう。


(……お兄さまならしっているかも。あの人のこと)


 兄の住む御殿に着くと、女官に取り次ぎをしてもらい、中に通してもらう。そして、兄の待つ部屋に着くと、思いもよらぬ光景が待っていた。知りたいと思っていた人物が、兄と共に茶を飲んでいたからだ。


「やあ我が妹よ。さては王様がお忙しいから私の元へ来たのだな? 私の友人が来ていて構わないのなら、おまえもこっちに来て共に茶を飲むといい」


 兄のヤワジがニヤッと笑いながら、クロハに向かって手招きをした。


 ヤワジはクロハにとって血を分けたただ一人のきょうだいであり、次代の景王となるべき王子──つまりは世嗣せいしだ。けれども驕り高ぶることなく、穏やかな性格と人徳で、臣下からの信望は厚く、民からも慕われていた。クロハはそんな兄が大好きだったし、兄の方も年の離れた妹を可愛がってくれた。


 そんな自慢の兄なのだが、今は不満でいっぱいだ。仲良くなりたいと思っていた人と、自分より先に、仲良く茶を飲んでいたのだから。


「ええーー? どうして??」


 不満そうに声を上げたクロハの視線を追って、ヤワジが説明する。


「あぁ、大殿でこの男を見かけたのかい? 王様との謁見の後、そのまま寄ってもらったんだよ。せっかく登城してくれたんだ、ついでだろう?」

「ううん、お兄さま、そーじゃなくて……」


 聞きたいのはそこじゃない。もどかしい思いで兄に再度問おうとすると、当の本人が先に口を開いた。


「ヤワジ様と私は同門生なんですよ」


 クロハが見上げると、いつの間にかその男が腰を上げ、自分の前に立っていた。背丈もあり、体格もいい彼が窮屈そうに身を縮こませると、クロハの前にひざまずいた。


「カンナビ・バイカと申します。お初にお目にかかります、小さな姫君」

「バイカ、さま」


 クロハは呟きながら、ちらっとその男──バイカのからだに目を遣った。腰元には立派な剣が提げられており、体は鎧で覆われている。クロハは幼いが、知っていた──彼は女官や官吏など普段接する人とは明らかに種類・・が違う、「戦う者」なのだということを。


 だが、恐ろしくはない。むしろ心強くさえある。この男の眼差しが、声が、仕草が。クロハに、このような第一印象を抱かせた。


 やがて立ち上がったバイカにいざなわれ、クロハも一緒に茶を飲むことになった。クロハの分の茶を淹れながら、ヤワジがバイカとの仲を語り始めた。


「──彼は私の兄弟子でね、昔から仲良くさせてもらっているんだよ」


 この国の王族や珂族の男子は、幼少期から学府に通うのが一般的だ。ヤワジとバイカは同じ学び舎、同じ師のもとで学んだ者として、旧知の仲だった。


 バイカもヤワジに注いでもらった茶を飲みながら、昔を懐かしむように言った。


「ヤワジ様は昔からしっかりしているようでどこかぬけていましてね。放っておけないもので、恐れながら私が世話を焼いていたというわけなんですよ」

「そんなこと、わざわざクロハの前で言わなくてもいいじゃないか、兄さん!」


 最後のその一言にクロハがきょとんとしていると、ヤワジがきまりが悪そうに笑った。


「あ、いや……二人きりの時は昔からそう呼ばせてもらっているんだ……」


 誰からも慕われている世嗣としての顔と、頼もしい兄としての顔。クロハはこれまで、ヤワジの二つの顔しか見たことがなかったが、このバイカの前ではまるでただの弟だ。


 それが不満どころか羨ましくさえあったから、気付いた時にはもう、クロハは二人に向かってこう宣言していた。


「では、わたしもバイカさまをお兄さまとおよびしますね!」

「えぇ? おまえの兄上は私だけじゃないか」

「だって、お兄さまの兄うえなら、わたしにとっても兄うえでしょ?」


 その言葉にヤワジはショックを受けている様子だったが、当のクロハはニコニコとしていて実にうれしそうだ。


 バイカはそんな兄妹を微笑ましく見守りながら、苦笑いでつぶやいた。


「いやあ……これは参ったな」





 それから四年の月日が経った。


 9歳となったクロハは社事教練所しゃじきょうれんじょ(※珂族の娘が嫁入り前に教養や礼法、社交術などを学ぶ学府)に通っており、のんびりとした城内生活をしている訳にはいかなくなっていた。


 それでもヤワジに会いに王城へ時折やって来るバイカとは、都合のつく限りは会う機会も多かった。


 今日もそんな日で、「バイカ兄さんが来るぞ」といつものように兄に呼ばれ、足取り軽やかにクロハは世嗣殿に向かう。


 ヤワジは、もう一人の兄と会える機会を妹と分かち合いたいと思ってクロハを呼んでくれるのだが、この頃のクロハにとって、バイカはただの「お兄さま」ではなくなっていた。


 それでは何かというと、クロハ自身もそれが分からない。ただ、こうしてバイカと会う度に、胸の奥で単なる親愛以上に膨らむものがあるのだ。


 そうして向かった先で、兄妹三人の楽しい時間を過ごせるのかと思いきや、今日はどこか違った。


 違和感の発端は、バイカからの先日祝言を挙げたという報告だった。


「おめでとう、兄さん!」


 無事に祝言を終えることができたとバイカから聞いた瞬間、ヤワジの顔がパッと輝いた。まるで自分のことのように喜んでいるのだ。


「ああ! 私も兄さんの祝言に行きたかった! 本当にそれだけが心残りですよ」

「はは、お気持ちだけで充分ですよ。それに世間の誰からも好かれている世嗣様が現れたら祝言どころじゃなくなりますからね。大事な儀式を邪魔されるのは御免です」


 心底悔しそうなヤワジに、バイカがニヤリと言い返す。二人はいつもの調子で軽口をたたいていたが、クロハだけはいつものように笑えない。


 そんな気持ちを取り繕うかのように、クロハは顔に微笑みをはりつけて尋ねた。


「バイカお兄さまの奥方はどのようなお方なのですか?」


 もちろん、相手が誰なのかは知っている。カンナビ家当主として、景ノ国の将軍として、頭角を現してきたバイカが誰を妻とするのかは、すでに巷でかなりの噂になっていたからだ。その噂が漏れなくクロハの耳に入ってきたのは、至極当然のことだった。


 お相手は、由緒正しき名家の令嬢。だが、クロハが知りたかったのは、そんな上辺だけの情報ではなかった。


「そうですね……器量が良くて、笑顔がとりわけ素敵で、芯も通っている。無骨な私にはもったいないくらいの女人ですよ」


 バイカは少し考えてから、そう答えた。その時の顔が本当に嬉しそうで、優しげで、クロハは胸が痛くなる。自分は彼をそんな顔にさせたことがあるのだろうか?


(……いえ、きっと無いわ)


 ただ、バイカがそんな顔で話すのは納得できた。クロハとは違う社事教練所に通っていた人だから、実際に会ったことはない。だが、彼女を知っている者たちは皆、「できた女人だ」と口を揃えて言う。だから、素晴らしい女人であることに間違いはないはずだ。



(尊敬するバイカお兄さまに素晴らしい方が嫁がれるなんて、喜ばしいことじゃないの。そうよね? クロハ……)


 クロハが物分かりのいい妹のフリをして微笑んでいるとは到底気付くことなく、ヤワジがバイカをからかい始めた。


「おや、さっそく嫁自慢ですか。独り者には耳が痛い話題ですね」

「なに、そういうヤワジ様だって遠くはない話でしょう。その時は私がヤワジ様の奥方自慢の聞き役になりますよ」

「言ったね、兄さん? 昔から兄さんには何一つ勝てるところが無かったけど、私はとんでもなく魅力的な女人を娶ってみせますからね? その時はうんざりするくらい、私の自慢話を聞いてもらいますよ?」


 自信たっぷりにそう言い切ったヤワジに、バイカが真剣な顔でぼそりとつぶやく。


「いくらヤワジ様が次期景王だとしても、妃になりたがる女人がどれだけいるものか……」

「……えっ」

 バイカの一言に、ヤワジがドキリとした表情を浮かべる。それを見たクロハも、つい乗っかってしまう。


「本当に。ヤワジお兄さまはバイカお兄さまみたいに腕っぷしが強いわけでもないし、気も弱いし……」

「クロハ……おまえまで!?」

 ヤワジはもはや泣きそうだ。


「なーーんてね?」

「冗談に決まっているではないですか。評判のいい世嗣様になびかぬ女人の方が珍しいですよ」


 深刻な表情からパッと笑顔になった二人を見て、ヤワジはようやく揶揄われていたことに気付くと、ホッとした顔で怒り出した。


「まったく二人とも、心臓に悪い遊びはやめてください! 国史初の『誰からも妃になりたがられなかった世嗣』として後世に名を残してしまうのかと思いましたよ!!」

「ごめんなさい。でもお兄さまったら、からかい甲斐があるんですもの」

「それは何というか……確かに後世まで名を残しそうですね」

「そうですよ! 万が一そうなれば、兄さんもクロハもそんな世嗣の兄と妹になるんですからね!?」

「えぇ……嫌」

「それはご勘弁願いたいところですね」


 三人は笑い合った。クロハの心のざわつきはあったものの、この和やかな光景はいつもと同じで、そしてこの先も変わらないかのように思われた。


 だが、さらに四年、五年と時が経ち、クロハがそのざわつきの正体を理解し始めた頃、事件は起きた。





 祝言後、程なくして男児を授かり、景王には重用され、バイカ・カンナビは誰が見ても順風満帆な人生を歩んでいた。


 景王の一人息子である世嗣・ヤワジもその後、バイカの言葉通り、妃を娶っていた。


 クロハはといえば、14歳の年頃を迎え、社事教練所通いが佳境に入り、目まぐるしい毎日を送っていた。


 それだけではない。元来城内をのんびりと散策しては、花や虫を愛でる生活を好んでいた彼女にとって、それぞれの思惑を以て近付いて来る珂族の娘たちやその他大人たちには大変気を遣い、疲弊していた。


 そんな折、クロハは久しぶりに兄ヤワジの元に呼ばれ、嬉しさで浮かれていた。そこには久しく会えていない、バイカが来ているとの知らせを受けたからだ。


 もはや想いが叶わずとも、壮健で幸せに暮らしてくれているならそれでいい。一目会えるなら、もっといい。


 そう思い始めていたからか、兄の御殿に元気よく駆け込んでいたことに気付いたのは、声を掛けられてからだった。


「まあ、クロハ姫。今日も元気ね」


 クロハの前に現れたのは、兄ヤワジの正妻・コチョウだ。いつの日かヤワジがバイカに宣言していた通り、ヤワジの妃となったのは誰もが目を見張るほどの麗人で、内面もまるで輝く湖面のように美しかった。民からも愛され、ますます世嗣として内外に認められてきているヤワジにふさわしい妃だった。


 幼い時に母を亡くして以来、内廷におのれ以外の女人がいなかったクロハにとって、コチョウの輿入れはヤワジと同じくらい嬉しいものだった。


 故に、今日もこうして尊顔を拝めることに心の中で感謝しつつ、コチョウに挨拶をした。


「ご機嫌よう、世嗣妃せいしひ様。本日はお招きいただきありがとうございます」

「ふふ、世嗣様も年甲斐もなくはしゃいでいらしたわ。昔からのご友人が遊びに来られているんですもの、仕方ないわよね」


 コチョウがクスクスと笑うと、彼女のつややかな漆黒の瞳と髪が黒曜石のように輝く。クロハがそれをうっとりと眺めていると、コチョウに先に行くように促された。


「私も後で向かうから、貴女は先にお会いしてきて。お茶の用意を頼んでくるわ」

「はい。では後ほど」


 そうしてコチョウと別れ、クロハは世嗣殿の裏にある庭園まで移動した。昔は花の数もそれほどだったのに、コチョウが嫁いできてからはすっかり花の楽園となった。こういうところにもコチョウを大事にしている兄の姿が垣間見えて一人嬉しくなっていると、向こう側から見え覚えのある、大きな人影が現れた。


「クロハ様、息災でいらっしゃいましたか」


 そう声を掛けられ、クロハの足が止まる。


 その声も、その姿も、昔と全く変わらず──いや、最後に見た時よりも、バイカの顔つきはより精悍さを増し、体つきも逞しくなっていた。けれども、優しそうな本質は昔のままだった。


 クロハの胸が高鳴る。嬉しさで思わず叫び出したくなったが、あくまで淑女らしく、恭しく礼をした。それから顔を上げ、ようやく口を開いた。


「はい。バイカおに──」


 ──お兄さまもお元気でいらっしゃいましたか?


 そう言おうとしたが、バイカの隣に美しい女人が立っているのに気付いて、咄嗟に言い直した。

「──バイカ様。ご無沙汰しております」


(──この女性ひとが……)


 隣の女性が誰かなんて、聞かなくても分かる。バイカと仲睦まじそうに視線を交わしているその姿を見れば、誰かなんて。


「来たかクロハ! バイカが登城すると耳にしたから急遽呼んだのだ、すまないな」


 思いがけない出会いに呆然としているクロハに、世嗣である兄ヤワジが陽気に話しかける。


 他の者の手前、“兄さん”とは呼ばないが、バイカに対する親愛は相変わらずだった。世嗣として着実に実績を重ねている今でも、二人の関係性は変わらないようだ。


「バイカの奥方とは初めてだろう。紹介しよう、私の妹のクロハだ。どうだ、愛らしいだろう」


 そう言って、ヤワジはバイカの隣に立つ女人に向かって自慢げにクロハを紹介した。その女人はバイカに促されると、静々とクロハの前に一歩、歩み出た。


「タユキと申します。クロハ様のご聡明さと朗らかなお人柄は主人から伺っております。お会いできて僥倖ですわ」


 恭しく礼を尽くすタユキを見て、クロハは思った。美しく、そして強さを持つ人だ、と。


 コチョウとはまた一味違った美しさを持っている。例えて言うなら、コチョウが透き通った湖なら、タユキは揺るがない大地といったところか。


 大地を嫌う人がいないように、タユキを嫌いになる者はきっといないだろう。クロハももれなくその一人だった。クロハがタユキに対し身構えたのも一瞬のことで、すぐに「彼女とはきっと親しくなるのだろう」と直感したほどだ。


 本来ならば憎むべき恋敵であるはずなのに、それは到底無理な話だった。一言、二言と言葉を交わすたびに、タユキを好きになっていく自分がいたからだ。もはやバイカに抱いていたかつての熱い気持ちさえ、かすんでしまうほどに。


 クロハからも自己紹介を大方終えたところで、ヤワジが次なる紹介を始める。


「ほら、その子がバイカの子だ。利発そうな男の子だろう」


 そうして視線を落とした先には、確かに幼児がいた。母の後ろに隠れていために今の今まで気付かなかったのだが、タユキに促され前に出てきた。


「お姫様にお名前を言うのよ」

「……サイカ」


 そう言うと、男の子はプイッと横を向いてしまった。タユキが「これ」とたしなめたが、ただ照れているだけだとクロハには分かる。この小さき者が何だか愛おしくて、クロハはサイカの前にしゃがみ込むと、優しく口を開いた。 


「はじめまして。私はクロハです」

「…………」

「サイカはおいくつなの?」

「……4つ」


 視線はまだ合わないが、答えてくれたことにクロハは嬉しくなる。そこに、ヤワジがまるで自分のことのように嬉しそうに語り始める。


「今、二人からサイカの話を聞いていたところでな。まだ4つとは思えないほどに、とても利発な子らしいのだ」

「まあ、そうなのですか」


 この二人の子ならさもありなん、である。確かに賢そうな顔立ちをしている、とクロハがサイカの顔を見ていると、向こうの方から美しい声がした。


「お待たせしました。さあ、皆でお茶にしましょう」


 後ろに数人の女官を引き連れ現れたのはコチョウだ。女官たちが速やかに茶の用意を始めると、コチョウがサイカに微笑んだ。


「サイカ、こちらにおいでなさい。美味しいお菓子もあるのよ」

「おかし!」


 顔を輝かせてコチョウの元へ駆けていくサイカの姿を、大人たちは皆、目を細めて見守る。いくら利口だ何だと言われていても、しっかり年相応の子供だ。


 皆で茶を飲みつつ、嬉しそうにお菓子を頬張るサイカを微笑ましく眺めていると、バイカが話し始めた。


「あのようにしていればごく普通の子なんですがね。時折、突飛なことを言い出すのです」

「突飛なこと?」

「はい。この前も、うちの使用人に遣いを頼もうとしたのですが。その者がいざ出かけようとした時に、危ないから行くなとサイカがひどく泣き喚くのです。理由を聞いても答えず、仕方ないから遣いはやめさせたのですが……後から分かったのです。遣いに向かわせようとした先で人斬りが出たと」


 バイカに続いて、タユキが口を開く。


「他にもバイカ様が戦から帰還する日を当てたり、里帰り中の小間使いが子を産んだ日どころか刻まで言い当てたり……。つい今朝方も、来年は水が少なくなるから今の内にたくさんご飯を用意しておいて、と……。誰も知る由もないことを突然言い出すのです」

「ほう……先見の明があるのか。素晴らしい、まさに神童ではないか」


 ヤワジはすっかり感心しているが、バイカとタユキは顔を曇らせている。


「周囲がそう思ってくださる内はいいのですが……私どもは心配しておるのです」

「何を心配しておるのだ?」


 ヤワジが尋ねると、二人の両親は顔を見合わせてから、恐る恐る口を開いた。


「これはいわゆる……天の力ではないのかと。そうでなければ、あの子の天眼通は説明できますまい」

天力テンリキ……か」


 ──『天力』。その言葉が出てくると、さすがのヤワジも黙った。


 そうなる理由は、クロハも分かる。『天力』は人離れした奇奇怪怪な能力であり、それを持つ者はいにしえから鬼神の子として恐れられてきた。母胎にいる時に鬼神にかけられた呪いともされ、天力を持って生まれた子は皆、嫌悪の対象となる。それはその子自身だけではない。産んだ母親や一族もろとも──たとえ珂族であったとしても──、鬼神の子を出した一族として人々から激しい謗りを受けるのだ。


 その風習がいまだ根強く残る景ノ国ではバイカとタユキが怖れるのは至極当然のことで、ヤワジが押し黙ってしまうのも無理ないことなのだ。


「まあ、揃いも揃って難しい顔ばかり」


 その時、優雅に席に着いたコチョウがクスリと笑う。


「今は考えずともよいではないですか。子どもというものは兎にも角にも、ただ愛すべき存在なのですから」

「世嗣妃様……」


 サイカを柔らかく見つめるコチョウを見て、タユキは胸にこみ上げるものがあったようだ。瞳を潤ませると、深く頷いた。


 コチョウも茶を一口飲み、器を置くと、ふうとため息を吐いた。それからサイカを見つめながら、ぽつりとつぶやく。


「……あぁ、私も早く世嗣様の御子を産んで差し上げたいものです」


 その一言に、ヤワジが──いや、その場の全員が固まった。それもそのはず、コチョウは一年ほど前に一度、流産をしていた。世嗣の子を、と周囲から望まれる中、待望の懐妊だった分、失意も大きかったのだ。それはいまだコチョウの中でくすぶっていて、子を産むまできっと続くのだろう。


 ヤワジが意を決したように口を開いた時だった。いつの間にか大人たちの前に立っていたサイカが、さらりと言ってのけた。


「せいしひさまのおなかにも、あかちゃんおりてくるよ」

「えっ?」


 大人たちは皆、唖然としてサイカを見下ろした。それでもサイカは同じ調子で淡々と言葉を続ける。


「まえにおなかにおりてきた子だよ。お空にいったんかえるけどまたおりてくるからね、って言ってる。の子がうまれたら、またもどってくるって」

「……火の子?」


 眉をひそめてつぶやくバイカの横で、ヤワジが身を乗り出して訊ねる。


「本当か? それはいつだ?」

「んー……さむい時にいまのおうさまがしんじゃって、そしたらせいしさまがつぎのおうさまになるでしょ。それからずうっとあと」


 場の空気が一気に張り詰める。王の死について言及することはタブーであり、不敬罪にあたる。それはたとえ幼子であっても同様で、バイカは血相を変えて立ち上がった。


「サイカ! 何ということを……」

「世嗣様、世嗣妃様、も、申し訳ございません……!」


 タユキも青ざめた顔でサイカの元に駆けつけると、ヤワジとコチョウに向かって平伏した。


「構わん構わん。幼子の言うことだろう」


 大変なことを仕出かしてしまったと子の両親が顔色を変えている一方で、ヤワジは柔らかく彼らを制止した。


「子が親の死後を継ぐのは理の当然だ。二人とも、そんなに身構えるでない」

「そうですよ。私たちは何も聞かなかった。それで済む話ですよ」


 コチョウもそう賛同し、バイカとタユキだけではなく、クロハもホッと胸を撫で下ろす。


(よかった……大事にならなくて)


 だが、サイカの言葉が真実であると後に証明されたのは、寒さが身に染みる季節となった丑の月のある日のことだった。





 偉大な景王、突然の病にて死去──。本格的な冬の到来と共に、衝撃的な訃報が景ノ国を駆け巡る。


 病知らずだった父王がこうもあっけなく人生の幕を閉じるとは。クロハにはにわかには信じられず、ゆっくりと舞い落ちる雪を眺めるだけの、ただただ呆然とする毎日だった。


 しかし、世間はそうしていられない。いつまでも王座を空けておくわけにはいかず、父王の国葬の準備と共に、新王即位の準備も着々と進められていくことになった。


 もちろん、兄が王になる時は父が死ぬ時だ、ということはクロハだって知っている。しかし即位の儀に出席したクロハは、正直心はまだ上の空だった。尊敬する兄のめでたい日であるというのに。


 そんなクロハの心とは裏腹に即位の儀は無事終わり、新王ヤワジの治世となった。


 その後、国葬も執り行われた。臣下だけではなく民からも多くの人々が参列し、戦乱の世から景ノ国を守り抜いた父王の死を皆が悲しんだ。


 だが人々は悲しみを残しながらも、新たな王への期待と喜びを持っていた。


 そして、それはクロハにも伝染する。長い喪が明け、新王誕生という希望を胸に抱きながら、少しずつ少しずつ、元の生活に戻っていった。


 そんなある時、今や景王となったヤワジ、そして王妃となったコチョウと夕餉を共にすることになった。


 世嗣時代から質実剛健を良しとしてきたヤワジの考えにより、王の食事といえど質素なものだ。クロハも幼い頃からそれが当たり前だったので、慎ましい食事に特に異論はない。


 だが上位珂族の令嬢として蝶よ花よと育てられてきたコチョウは、嫁いできた当初はさぞ驚いただろう。まあ今は慣れたもので、王と同じものを美味しそうに頂いている。


 しばしの雑談の後、クロハは箸を置き、ヤワジに向かって口を開いた。あの時からずっと、気になっていたことだ。


「ところで王様……心が落ち着いてきた今となって、私は思うのです。あの子が言っていたことは本当だった、って」

「──サイカのことか」


 ヤワジも箸を置くと、真面目な顔で頷いた。


「あの時は子どもの言うことだと思っていたが、そうは言っていられなくなってしまったな。あの子の力は本物だ」

「……此度のことでバイカ殿とタユキが思いつめていないか、心配ですわ」


 コチョウも眉をひそめて、そう呟いた。クロハも同感だった。


 あの忠誠心の強い二人が、王の訃報を予言した我が子がその時は許されたからといって安堵したままではないだろう。不敬な予言が当たってしまったことで、罪悪感はますます募っているはずだ。


「クロハ姫、近頃はタユキとやり取りをしておらぬのですか?」

「はい……」


 コチョウの問いに、クロハは申し訳なさそうに頷いた。


 あの日の出会いから、タユキとは文通を中心に、そして時折お互いを訪れるほどに、仲良くしていた。だがそれも前王の死までだった。父の死によりクロハ自身からすべての気力が失われていたからだ。


 だが、少しずつ回復してきた今、クロハは心に決めていた。タユキに会いに行こう、と。


「私、近々タユキさまに会いに行きます。バイカ様もサイカも、元気にしておられるとよいのですけど……」

「うん、それがいい。私も即位の関係で忙しくて、バイカ将軍に会えていない。今度、将軍を大殿に呼び出してみるとするよ」


 兄もそう言ってくれたので、クロハは少し安堵した。


(きっと大丈夫。たとえ気落ちしていても、いつかまた、あの日のように皆で笑い合えるわ)


 そうと決まれば、文を出そう。クロハは早速、自室に籠って文を書いた。


 久しく連絡を返せず申し訳なかったこと、今は心身共に落ち着いてきたこと。近々カンナビ家を訪れたいこと。文に収まりきらない言葉は会って話すとして、とりあえずこれを届けてもらおう。


 クロハが女官に文を渡しているちょうどその時、王妃付の女官が息を切らしてやって来た。


「クロハ様! 王妃様がお呼びでございます。急ぎの知らせがおありとのことで──」





 女官の切羽詰まった声を聞いた瞬間、良くない報せだと思った。


 クロハの直感は当たった。今はただ、通された王妃殿の部屋の中で、呆然と虚空を見つめることしかできない。


 ──タユキが死んだ。サイカも一緒に。


 母子心中だったらしい。二人の隣に残された遺書には、次のような趣旨のことが書かれていたという。


『王の死を口にした罪は到底許されるものではなく、万死に値するものである。例え許されたとしても、拙きこの身、今後さらなる不敬を重ねるかもしれない。故に命を以て償うと共に、鬼神の子を元の居場所にお返しすることとした。なお、すべては鬼神を産んだ母一人の責であり、カンナビ家当主やその一族に過ちは無いことをここに示す』


(……遅かった。何もかも)


 もっと早く文を出していれば。もっと早くにタユキに会いに行っていれば。


 クロハの頬に一筋の涙がこぼれる。父の死で涙はとうに枯れ果てたと思っていたのに。


 コチョウも一緒に涙を流している。タユキとは社事教練所時代からの顔なじみだった分、衝撃も大きいだろう。





 同じ頃、バイカは大殿に参上していた。


 ヤワジとしてはバイカと共に二人の死を悼むためにこうして呼び出したのに、バイカはただ畏まって陳謝するばかりだった。


「──カンナビ家の者が犯した不敬は、その当主の責でございます。王様、どうか私に罰を」


 先ほどからこのようなことしか言わないバイカに、ヤワジは眉をしかめた。そんなことを言わせるために呼んだのではないのに。


 ヤワジは腹の底に己に対する怒りを溜めて、だが静かに口を開いた。


「……何故、兄さんが謝るのですか。それに、愛する妻子を失ったばかりの兄さんに罰を与えるほど、私が薄情者に見えますか?」

「…………」

「謝らなければならないのは、むしろ景王たる私の方です。この世にくだらぬ迷信を許してきたのは、そんな国造りを行ってきたのは、この王家なのですから」


 今ほど、己の力不足を感じたことはない。敬愛する兄にこんな想いをさせるために王になったのではないのだ。


 しばしバイカは俯いたまま押し黙っていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。その頬には涙が伝っていた。


 ヤワジは少なからず衝撃を受けた。強く逞しい兄が涙を流している姿など、二十年近くの付き合いで見たことがなかったからだ。


 妻子の死は、バイカにとってそれほどきびしいことだったのだ。


 ──ヤワジは深く心に決める。こぶしを血が滲み出るほど強く握り締めると、真っ直ぐバイカを見据えた。


「二人の死を決して無駄にはしません。私は必ずや、天力を持つ者に対する世間の認識を変えてみせましょう。意味のない慣習に振り回される者を、一人でも多く、この世から無くすのです」

「……王様……」


 滲む視界で、バイカは玉座をまぶしそうに見上げた。そこに座る長年の友、そして尊敬する王から後光が差しているかのようだった。


 普通の王であれば、昔からの価値観を変えるという、政治的に無駄なことはしないだろう。


 だが、この王は目に光を宿らせて言い切った。「どうせ口からでまかせだろう」なんてことは思いもしない。幼い頃から近くでこの男を見ているバイカだから、彼が本気で言っているのだと分かるのだ。


 ヤワジが本気だからこそ、バイカは王を諫めた。


「ですが、王様……そんな藪に棒を突っ込んでかき回すようなことをなされば、臣下たちの反発は避けられないでしょう。もちろん、民も戸惑わせることになります」


 王の決心はバイカにとって嬉しく、有難いものだ。だが、現実的であるかと問われればそうではない。


 ゆえに臣下の一人として、友として忠告したのだが、ヤワジから返ってきた言葉はそんなバイカの決心をかすませるほど力強いものだった。


「無論、それを避けるためには、まず私自身が偉大な王にならなくてはいけない。この王が為すことならば、と皆が思うように」


 そこでヤワジはバイカはまっすぐ見据え、口を開いた。


「だからどうか、兄さんの力を貸してほしいのです」


 その瞳を正面から受け止めたバイカは、いつの間にか口元が緩んでいた。


(あの弱虫だった世嗣様がいつの間に……)


 これまでだってこのような名王に仕えることができる自分を果報者だと思っていた。だが、今はそれだけの言葉では表せない。


 バイカは頭を垂れて、心から言葉を述べた。


「──どうぞ御意のままに」



 ◇◇◇



 それからというもの、ヤワジはこれまで以上に王の務めをひたむきに果たした。


 一筋縄ではいかない臣下も中にはいたが、ヤワジの真摯に政を執る姿に感化されたのか、徐々にヤワジの考え方に従う者も増えてきた。


 バイカは景ノ国第一の将軍として武力で王を支える一方、王の腹心と言われるほどまでに朝廷でもますます存在感を増していった。


 ──善き王の元に、良き臣下が集い、幸せな民は増えていく。


 こうして景ノ国がますます繁栄を見せる中、内廷に大きな動きがあった──おてんば姫の婿探しである。


 18歳を迎えた春のこと、クロハはヤワジ王から大殿に呼び出された。何だろうと思いながら赴いた先には、何やら気恥ずかしそうな顔をした兄と、やや呆れ顔をしたコチョウが待っていた。


「気になる殿方……ですか?」


 ヤワジに問われて、クロハはきょとんとした顔で聞き返した。


「う、うむ。おまえももう、いつ夫を持ってもおかしくない年だからな」


 そうヤワジがもごもごと言うのを見て、何故兄がそんな顔をしているか、クロハはピンときた。年頃の妹に、好いている男はいるかなんて聞くのは恥ずかしいに決まっている。


 ただ、どうしてそんなことを聞かれるのか、クロハには分からない。なぜなら王族の婚姻は通常、王や王妃が決めるもの。その決定に、本人の意志など関係があるはずがないのだ。


 つまりクロハがすべきは、この兄夫妻が決めた嫁ぎ先をただ粛々と受け止めることだけ。だからこそ、クロハは兄の質問の意図をはかりかねていた。


 そんなクロハの戸惑いを察したのか、ヤワジが説明を始める。


「おまえも知っての通り、王族ならば無論、婚姻も政治の一環だ。……が! 私は可愛い妹に、好きでもない男と一生添い遂げろなどとは言いたくない。だからだな、もし好ましく思っている男がいるのなら、臣下がいやが煩く口を出してくる前に手はずを整えてやろうと思ってだな……」


 段々とその言葉が尻すぼみになっていったと思いきや、ヤワジの口がピタリと止まる。やがてわなわなと身を震わせながら、言葉を絞り出した。


「いやしかし……おまえがこの城から居なくなるのは寂しいな……。いっそのこと婿探しはやめにして、このまま独り身でいいのかもしれん……」

「王様! 世迷い言もほどほどになさってくださいな。それではクロハ姫が苦労して社事教練所で学んできた意味がなくなります」

「あ、ああ……すまない、少々取り乱したな……」


 コチョウが諫めてくれたおかげで、ヤワジも我に返ったようだ。


 コチョウもどうして呆れ顔をしていたのか、クロハはこれで分かった気がした。自分がここに呼ばれるまで、兄が散々駄々をこねて困らせていたのかもしれない。


「──とまあ、そんなわけだ。クロハよ、考えてみてくれ」


 こほんと咳払いをすると、ヤワジはそう話を終わらせた。


「はぁ……」


 そう答えたものの、クロハは困った。いつかは夫となる者ができるとは思っていたが、いざ「さあ相手を選べ」と言われてもどうすればいいものか。


 自分がずいぶん恵まれた環境にいるのは分かっている。父が生きていれば、きっと政治的に都合のいい相手に嫁がされていただろうから。本来であればクロハに選択の余地など無いはずだった。


 どうしても選べというなら、心に浮かぶのはただ一人。恋に盲目だったあの頃の自分だったら、あの人の名が迷わず口から出ていただろうし、今でも一人の男性としての彼を慕う心が全くないと言えば嘘になる。


 だが、その人の最愛の女人が、そして己にとっても唯一の親友が、子と共にこの世を去ってしまった時からはもう違うのだ。親友が居なくなったからといって、どうして彼女の愛した男の隣に我が物顔で立つことができるだろう。


 仮に王の計らいで後妻の座に収まることができたとしても、彼が失った妻子を生涯忘れることはないだろうし、そんな彼を見て居たたまれなくなるのは目に見えている。


 だから数日よく考えた後、クロハは心に決めていた。





 コチョウはこの日、先日の返答を聞いてほしいとヤワジから頼まれ、クロハを呼び出していた。


 茶を淹れるコチョウの前に座ると、クロハはコチョウの隣の空席を見て尋ねた。


「──ところで、今日は王様はいらっしゃらないのですか?」

「王様なら、『こういうことは女人だけの方が話しやすかろう』とつい先ほど退席なさりましたよ。……でも本心は聞きたくてたまらないみたい。今も扉の向こうで聞き耳を立ててらっしゃいますから」


 そうコソッと付け足したコチョウに視線で促されて、クロハは部屋の扉の方を振り返った。確かに扉の障子に、もぞもぞと動く人影が映っている。


 それを見て、クロハは思わず吹き出してしまった。王となっても、兄は兄だな、と。


「私は気にしませんから、どうせ聞くなら王様もこちらでご一緒なさればいいのに」

「ねえ」


 クロハとコチョウは、くすくすと笑い合う。


 それから湯呑みが二人の前に置かれると、コチョウは居ずまいを正し、クロハをまっすぐ見据えた。


「さて……本題に入りましょう。先日の件ですが……よく考えてくれましたか?」

「はい。わたくし、特別心に決めた方はおりませんので、お相手のご采配は王様と王妃様にお願いしたいのです」


 そうクロハが答えると、コチョウはわずかに目を見開いた。


「──まことに良いのですか?」

「はい」

「…………」

「王妃様?」


 クロハが不思議に思い、顔を上げると、コチョウは嬉しさと悲しみが入り混じったような、そんな顔でこちらを見ていた。


「クロハ姫……すっかり大人になりましたね、良い意味でも悪い意味でも。私がここに来た頃のあなたはまだ子どもらしくまっすぐで、直情的で、こうと決めたらなかなか頑固でしたのに」

「王妃様……」


 それは真実かもしれないが、景の女人たちの憧れであるコチョウに面と向かって言われてしまうと凹むものがある。クロハが顔を赤くしてうつむいていると、コチョウが慌てて謝った。


「あぁ、ごめんなさい。別にからかっているわけではないのです。ただ……クロハ姫、心に蓋をしていることがありませんか?」


(え……フタ?)


 クロハが目をぱちくりとさせていると、コチョウがやさしく微笑んだ。


「バイカ殿をお慕いしているのでしょう?」


 コチョウのその一言で、クロハの顔がさらに真っ赤になる。このことは誰一人として打ち明けたことがないのに。それなのに、どうしてコチョウは知っているのか。


「なっ……何故、それを──?!」

「わかりますよ。だってあなた、バイカ殿の話が出るといつも嬉しそうに目を輝かせるんですもの」

「そっ……あ……?」


 そんなことはないと言いたいところだったが、ふと我に返って思い返してみると、コチョウの言う通りだった気もしてきたクロハである。


「王様はちっともお気付きではないようですけどね。普段はあのような立派な王でいらっしゃるのに、年頃の娘の機微には本当に疎いんですから」


 そう言ってコチョウがジトっと障子を見遣ると、障子向こうの影がビクッと揺れたのをクロハは見逃さなかった。


(それはそう……)


 クロハもそこについては同意だ。にやけそうになるのを我慢していると、コチョウが口を開いた。


「あなたも思うところがあって『心に決めた人はいない』なんて言ったのでしょうけれど……。あなたより少しだけ長く生きているお姉さんとして、言ってもいいかしら?」


 コチョウが手で湯吞みをもてあそびながら言う様はまるで、「こんなことを言ってしまっていいものか」と自分を落ち着かせているようにも見える。


「? はい、もちろん……」


 クロハにはその理由が分からなかったが、こくんと頷くと、コチョウは手を止めて話し始めた。


「……人の一生など、短いものです。その上、私たち珂族の女人は籠の中の鳥そのもの。私もその一人でありつつ、同じ境遇の仲間たちを見てきましたが……嘆かわしい人生を送る仲間の多いこと。もちろん幸せに暮らす人もいましたが、その差は如何ほどか」


 コチョウの言っていることが大げさでも何でもなく真実であることは、クロハも痛いほどよく知っている。珂族の女性の人生がどうなるかは、ほとんど運によると言っても過言ではないのだ。


 コチョウはここで、クロハの目を真っ直ぐ見た。


「私は、可愛い義妹に悔いのない人生を送ってほしいのです。そしてできることなら、幸せに生きてほしい。あなたのお兄様だって、同じ気持ちだわ。ねえ、クロハ姫。あなたは他の令嬢と違い、籠の戸に鍵はかけられていないのです。少しだけ勇気を出して、戸に手をかけてみてはくれないかしら」


(……ああ、私はなんて果報者なの)


 コチョウの真摯なまなざしに、クロハは素直にそう思う。


(私のことをこれほど大切にしてくれる方々に、私は……──)


 少しの間の後、クロハは物憂げに微笑みながら口を開いた。


「……この気持ちはバイカ様を悩ませ苦しめますし、タユキさまを裏切ることになります。だから王妃様、私はもう忘れることにしたのです」

「クロハ姫」

「──でも、」

 コチョウのなじるような声に被せるように言うと、クロハはそこで口を閉じる。


 コチョウが彼女の顔を見て、ハッとした。いつも朗らかに笑っているばかりのクロハの頬に、静かに涙がつたっていたからだ。


 それでもかすれた声で、クロハは言葉を紡ぎ出す。


「王妃様のお言葉で気が付きました。無かったことになんかできないって。忘れようとすればするほど、この想いは膨れ上がっていくのです。あの日、初めてお会いした時から私の心はあの方に奪われていたのです。……王妃様、私は亡くなった親友を裏切る、非道な人間なのでしょうか……」


 そんなクロハの顔を見たコチョウは、思わず抱き締めるしかなかった。クロハの肩を抱きながら、懸命に答えた。


「そんなことはありません、そんなことはありませんよ。私たちは血の通った、一人の人間なのですから」

「でも……」


 袖で涙を拭うクロハに、コチョウが尋ねた。


「それにね、クロハ姫。バイカ殿はあなたの気持ちを知っているの?」

「いえ……」


 ずっと隠してきたのだから、クロハの心の内などバイカは知る由もないはずだ。

 クロハが首を横に振るのを見ると、コチョウは柔らかく微笑んだ。


「なら、人の気持ちを勝手に押し決めてはなりませんよ。その人の気持ちはその人のものなのですから」

「王妃様……」


 二人抱き合う様子を部屋の外でじっと聞いていたヤワジは、ここでバッと立ち上がり、廊下を突き進んだ。


(おのれが恥ずかしい……!)


 クロハのバイカに対する気持ちを初めて知って、驚きは当然ある。


 が、兄としてずっと近くで成長を見守ってきたのにかかわらず、クロハの気持ちに少しも気付けなかった自分を恥じる気持ちの方が断然勝っていた。


(そうとは知らず、私はあの子になんということを)


 クロハの前でタユキの話を何度もしたことがあるし、その上、引き合わせた。結果的に彼女たちは親友になるほど仲良しにはなったのだが、今思えば、ずいぶん無神経なことをしたものだ。


 その罪悪感もあってか、ヤワジがバイカを内々に大殿に呼び出したのはそれから間もなくのことだった。その日は玉座ではなく小さな小部屋で対面し、クロハの婿探しに入っていること、そして、クロハの気持ちをそれとなくバイカに伝えたのだった。


「……突然こんなことを、すみません。でも、今言った通りなんです。妹分だと思っていた子にそう言われては驚かれるでしょうけど……」

「お謝りにならないでください、王様。むしろ言い出しにくいことを話してくださり、感謝しています」


 頭を下げたバイカに、ヤワジはまだ謝り足りない。


「兄さんが奥方とサイカのことを思い出さぬ日など無いのは知っているんです。だからもう少し時を空けてから話そうとも考えた。……でも、クロハももう18。これ以上待つとなると……」

「婚期を逃してしまいますからね」

「そうなんだよ兄さん! 自然を愛するいい子なんだが、おっとりとした性格だし、少し抜けているところもあるからね。相手は早めに決めておくに越したことはないんです。……まあ万が一相手が決まらなかったら、もう一生この城にいればいいと私は思っているんですけどね」

「……それ、王妃様にも呆れられませんでしたか?」


 バイカは苦笑しているが、ヤワジは大まじめな顔で続ける。


「でもね、兄さん。クロハが好いている相手がどうしようもない男だったらと怖かったんだ。だから私は、相手が兄さんでよかったと心底思っている。我が妹ながら、男を見る目は確かなようで安心しましたよ」

「……買い被りですよ。これからクロハ様を傷つけることになりますのに」


 バイカのその一言に、ヤワジがピクリと反応した。


「……やはり、断るんですか?」

「…………」


 黙って杯を傾けるバイカを見て、ヤワジは大きなため息をついた。


「あーあ、残念だなあ。まあ兄さんがこの話を受けてくれるとは思っていなかったですけどね……。でもなァ、もしクロハの相手が兄さんだったらどれだけ良かったか……はぁ」

「……王様? もし私がクロハ様の夫となれば、私が王様のことを『兄さん』と呼ぶことになりますよ。それでいいんですか?」

「そ、それは駄目です……!」

「駄目なんですか」


 青い顔をして答えたヤワジに、バイカがくっくっと笑う。それから真面目な顔に戻ると、バイカは告げた。


「王様、一度クロハ様にお目にかかる機会をいただきたいのです。そこで、クロハ様も私も、胸の内を明かし合うことと致しましょう」

「…………。……なるべく傷つけない言い方でお願いします……」


 ヤワジが苦渋の顔でそう呟くと、バイカは困ったように笑った。





 夜の帳がすっかり下りきった空渡城。官吏が忙しそうに行き来する昼間とは打って変わって静まり返った大殿に、クロハは訪れていた。


 大殿の政務区と生活区を別けるようにして位置するこの中庭も、夜の静けさに包まれている。天井は吹き抜けから気持ちの良い風が入り、さわさわと草木を揺らしている。


「……バイカ様?」


 恐る恐る中庭に足を踏み入れたクロハがそう口を開くと、木の影となっていた場所から返事があった。


「クロハ様、こちらです」


 クロハがよくよく目を凝らしてみると、池のすぐ傍に腰を下ろしたバイカが居る。ホッとしてそちらの方へ近づこうとすると、すかさずバイカが立ち上がり、クロハの手を取った。 


「暗いので足元にお気を付けて」

「は、はい」


 これはバイカの優しさからの行動だ。クロハだって理解している。


 だが、不覚にもクロハの心は期待してしまう。もしかして良い返事が聞けるのではないか、と。


 もちろん、どういった返事がもらえるのか、兄からもコチョウからも何も聞かされていない。今朝になって突然、「バイカ将軍と会ってきなさい」とだけ言われて今に至るのだ。


 いざなわれて、バイカと共に池の前に腰を下ろす。草木のさざめきと虫の声だけしか聞こえないこの静けさで、クロハの緊張は次第に膨らんでいく。


(ダメよ、クロハ……。今まで通り、今まで通りに振る舞うの)


 緊張で口から心の臓が飛び出そうになるのを必死に宥めていると、バイカの方から口を開いた。


「夜分遅くに、こちらまでご足労いただきありがとうございます。クロハ様は植物のある場所の方が落ち着かれると思いましたので。……なに、ご心配なく。夜の大殿は元より人が少ないですし、今は王様が人払いをしてくださっています。誰かに見られることはありませんよ」


 クロハは緊張で頷くだけしかできなかったが、バイカの心遣いに深く感動した。男女が二人きりで会っているところを見られて要らぬ噂が立たぬよう配慮してくれていること、そしてクロハが自然を好むことを覚えてくれていたことに。


(……なんだか緊張が解けてきたかも)


 バイカのおかげで、話せるようになってきた気がする。クロハはポツリとつぶやいた。


「この庭園に来るのは……久しぶりです。幼い頃は、通りがかった父に出会えないものかとよくここに隠れては女官を困らせていました」

「はは、確かに稀に見るおてんば姫でした。王様と私の後もよくついて回られていましたしね」


 その一言で、クロハの顔が真っ赤になる。何も言い訳ができない。


 バイカはそんなクロハを愛おしそうに見つめると、さらりと続けた。


「だが、今や立派な淑女だ。無骨で血なまぐさい私にはもったいないほどに」

「それは……このお話はなかったことに……ということでしょうか?」

「はい」


 バイカが頷くのを見て、クロハは暗い海に突き落とされたような感覚に陥る。だが、バイカの口は止まらない。


「正直に申し上げます。クロハ様のお優しいご性格では、この先一生、この都で煩わしい人間模様にまみれて暮らすには少々おつらいところがあるかと。私は命尽きるまで王様にお仕えすることを心に決めておりますゆえ。それに、今の政治状況を鑑みる限り、王族にとっても私と縁を結ぶことに益はないでしょう。最良のご縁は私以外にあるはずです。……さらに申し上げれば……彼女のことが、まだ私の心から離れそうにないのです。この先しばらく──いや、私は生涯、亡き妻を忘れることはないでしょう」


 暗い海底をたゆたう間も、クロハは理解していた。バイカが言葉を濁さずにここまではっきりと言うのは、クロハを想ってこそだと。


 やがて静かに浮き戻ってくると、クロハはゆっくりと三つ指をつき、深々と頭を下げた。口からは、素直な言葉が出てくる。


「包み隠さずおっしゃっていただき、感謝しております。これで本当に吹っ切れました。もう一人のお兄様として、想い人として、尊い心を教えていただき、まことにありがとうございました」


「……クロハ様のご多幸を心から祈っております」


 クロハとバイカは見つめ合い、微笑んだ。


 後に、クロハは思う──涙を見せることなく笑顔でこの恋に終わりを告げることができたのは、バイカのおかげだと。あの人を好きになってよかったと、心から思ったのだ。


 二人は立ち上がると、向かい合う。


「クロハ様……次にお会いする時まで、どうかお元気で」

「バイカ様!」


 去ろうとしたバイカに、クロハが声を上げる。


「あの、最後にひとつ、お願いが」

「何でしょう?」

「私の祝言が決まりましたら、二人のお墓参りに連れていってはいただけませんか? タユキさまが好きだったお花と、サイカが好きだったお菓子も持って」


 バイカは一瞬目を見開いたが、柔らかく目を細めて答えた。


「是非」


 それから、少しためらう顔を見せた後、バイカは意を決して口を開いた。


「クロハ様……昔、サイカが『の子』のことを言ったのを覚えておいででしょうか?」

「火の子……。ええ、タユキさまとサイカに初めてお会いした時のことですよね」


 ──一度流産した時の子が、「火の子」なるものが生まれたら再び胎に宿る。


 まだ世嗣妃だった王妃にサイカが告げた言葉は、クロハも覚えていた。

 バイカは頷くと、続けた。


「つかみどころのない話で混乱させてはと思い、クロハ様には告げずにおこうと思っていたのですが……あの日・・・の前日、サイカがクロハ様に伝えてほしいと言っていたことです。『火の子のみらいを見とどけてほしい』、と」


 あの日、とはタユキとサイカが亡くなった日のことだろう。自らの死期を認識していたであろうサイカが、その前日にわざわざ言ったことだ。何か意味があるには違いない……が。


「……サイカが、私に? 火の子を?」

「はい。なぜ私や王様ではなくクロハ様なのかは分かりかねますが……あの子の言うことだから、きっと何か意味のあることなのでしょう。……そういえばあの子は、私にも一言残していきましてね。いつもの事だと思ってその時は気にも留めなかったのですが、王様と私が──」


 そこまで言うと、バイカはピタリと言葉を止めた。


「……いえ、言うのはよしておきます。言えば、本当のことになりそうで」


 その穏やかな笑みの奥に垣間見えた苦悶。クロハにとってその時のバイカの顔は印象的で、その意味が分かったのはそれからずっと先のことだった。





 それから一年後、クロハの祝言が行われた。


 相手は景ノ国の雪深き辺境地を治める国守くにもりだった。クロハとは親と子ほど年が離れていたが、真面目で穏やかな性分の男で、都から嫁いできた姫君を生涯大切にした。死別するまでたった十余年ほどの夫婦生活だったものの、二人は仲睦まじい夫婦として国中に知れ渡った。


 輿入れしてから一年ほどして一人の男児が生まれ、タカイヌと名付けられた。


 愛する夫といとしい我が子、そして心優しい辺境の人々と暮らす山里の暮らしは、クロハにとって穏やかで幸せな時間だった。


 タカイヌに物心がつき始めた頃、ヤワジ王からの使いでバイカが時折やって来た。バイカは一人のやんちゃそうな男の子を連れていて、名はライカといった。


 クロハは一瞬、バイカが後妻をめとったのかと思ったが、そうではなかった。ライカは、バイカが使節団の一員として出掛けた先の演ノ国から迎えた養子だった。


 そんな同じ年頃であるライカに、タカイヌはとてもよく懐いた。兄貴分として振る舞うライカに、それまで両親にべったりだったタカイヌが後追いする始末。それはまるで、かつてのバイカとヤワジのようで、クロハは笑いを隠し切れなかった。


「私はあれほど偉そうにはしてませんでしたよ」


 そうバイカは苦笑していたが、クロハにとっては微笑ましく、そして懐かしい光景に違いなかった。


 それから何度目かの来訪で、バイカはクロハに打ち明けた。ライカは天力──それも、「火」の天力を持つのだと。


「天の力を持つあの子を見たとき、天命だと思いました」


 天力を持つ我が子を失ったバイカの前に、再び天力を持つ幼子が現れた。これは、もう一度やり直してみろという、天から与えられた責務なのだと。


 タカイヌと走り回るライカを見つめながら、バイカはそうつぶやいた。


 クロハはここで、サイカの言っていた「火の子」がライカのことだと悟った。数年前にヤワジ王とコチョウ王妃の間に待望の第一子であるマヤ姫が誕生していたが、「火の子が生まれた後に生まれる」と言ったサイカの言葉とも符合する。


(では私は、この男の子の行く先を見届ければよいのですね。サイカ?)


 クロハもライカを見つめながら、心の中でそうつぶやく。


(人々から謗りを受けて影の道を歩むのか、それとも……?)


 天力を持つこの子が、この先どういった未来を歩むのかはわからない。


 けれども、クロハは切に願う。


(どうか、この子には天の光が当たりますように)



 ◇◇◇



「──上、母上」


 その声にいざなわれ、クロハは目を開けた。


 はじめに見えたのは、さわさわと揺れる木々に囲まれた星空だった。


 その後、視線を左右に遣り、大人に成長した一人息子が横にひざまずいているのに気付いて、クロハはようやく自分が大殿の中庭で眠りこけてしまったことを思い出した。


「あら、タカイヌ。こんな所でどうしたの」


 そう言って微笑んだ母親に、タカイヌは呆れ顔でため息をついた。


「それはこちらの台詞ですよ。お願いですから、一国の王太后がこんな場所で一人眠りこけないでください。カンボたちが大慌てで母上を探していますよ」

「あらあら」


 そういえば、夕餉後の腹ごなしにと城内の散策に出かけ、その途中、この庭園に立ち寄ったのだった。通常であればお付きの女官が付いて回るのだが、彼女たちは夕餉の片付けなどで忙しそうだったので、こっそり出てきたのだ。


「カンボにまた怒られちゃうわね。後で謝っておくわ」

「ぜひそうしてください。まったく……ここで寝ている女人なんて、一瞬ナミさんかと思いましたよ……」


 失恋したばかりだというのに、彼女と初めて出会った時のことを思い出させるようなことは勘弁してほしいものだ。タカイヌがぶつぶつとつぶやいていると、クロハはキョトンとした顔で聞き返した。


「え? なにか言った?」

「いえ、何もないです」

「……ふふ、ごめんなさいね。この庭園を来たら、少し昔のことを思い出してしまって。だから眠っている間も、昔の夢を見たのね。長い、長い夢だった気がするわ……」


 そう言うクロハの瞳は、どこか遠いところを見ていた。


 タカイヌはその時、そういえば母は生まれた時から嫁ぐまではこの城で暮らしていたのだと気付き、居心地悪そうに口を開いた。


「この空渡城は母上にとって思い出深い場所ですもんね……。すみません、僕はそれを台無しにしようと考えていた親不孝者です。この庭園なんか、管理の手間と費用がかかるから潰そうかと考えていたんですから」

「あら、残念。つぶしてしまうの?」

「いえ、今は考え直しましたけどね。母上の他にもこの庭園を気に入ってくれている人がいまして……それならば残しておいてもいいのかな、と」

「まあ! 私、きっとその方と気が合うわね」


(ナミさんと母上は茶飲み仲間だから、確かにそうですね)


 うれしそうにはしゃぐ母を見て、タカイヌは心の中でそう思った。と同時に、申し訳なさも感じた。


(王太后と知ってしまったナミさんが、母上とはこれからも変わらず付き合ってくれたらいいんですが……)


 申し訳なさを打ち消すように、タカイヌは話題を変えた。


「そういえば先ほど、気になる上奏文が届きましてね」

「あら、何かしら」

「マヤ姫に恩赦を与えよ、と」


 それまでのほほんとしていたクロハの顔が、姪の名を聞いた途端、引き締まった。


「マヤ姫は……確か、今もシン大神殿で奉仕を行っているのですね」

「はい。この十年、毎日この国と民の安寧を祈るなどして献身的に仕えているようです。彼女のことは民の間でも話題になっているようでして、王の成婚に合わせて恩赦を願う声は大きいようです」

「そうですか……」


 そう呟くクロハの顔は暗い。別に、クロハが兄ヤワジの娘であるマヤを嫌っているわけではない。


 これは単なる恩赦ではなく、新たな火種の到来だからだ。タカイヌの政権を脅かす、波乱の幕開けなのだ。


 そしてその背後には必ず、現政権へ不満を持つ黒幕が存在するものだ。その存在がマヤを使って、タカイヌを脅かそうとしているのだ。


 タカイヌもそのことがわかっているからこそ、母の表情は理解できた。


 しかし、タカイヌはまったく動揺していない。


 この十年で地道に信頼関係を築き上げてきた臣下たち。

 いつも自分の耳目手足となって命がけで動いてくれる鼠。

 そして、新たに運命を共にしてくれることになったカンドル隊。


 彼らがいるからこそ、タカイヌはすでにこの難局に敢然と立ち向かう覚悟はできていた。



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