十
「どうだ?」
「風が弱いっ! これなら踏みふいごのほうが――、あっ、待て……、いいぞ! 炉が真っ赤になってきた」
ネリの父親が満面の笑みを湛えてふいご小屋を出てくる。作業場の裏、据え付けた水車を前に立つマテウスに彼は言った。
「これほどのものとは――、いや、たいしたもんだ。正直言うと、たいして期待していなかったんだがな。おまえ、これを生業にしていたのか?」
「いや、俺はただの木こりだ。旅をしていて出逢った多くのひとが知恵をさずけてくれて俺はそれを実践しているに過ぎない。あの心棒だが――」マテウスが続ける。「水流の激しい時期には緩みが出るかもしれない。毎日見るようにしてくれ。そして、ここ」
ネリの父親は水車の軸に繋げられた鼓状の機械を見る。ドミニクが遅れてやってきた。
「流れが弱いときにはこの皮ベルトを掛け変えてくれ、こうすれば――」
外した心棒の連結を戻すとふいごに繋がった鉄棒が激しく回り始める。
「ほう、回りが早くなるのか」
「そういうことだ。これでふいごに送られる風は安定する。粉を挽かせるには――」
マテウスが使ったのは現代でいうところの無断変速機だ。地面に製粉機の仕組みを書くとネリの父子は食い入るように見つめる。
「こうしてやればいい」
「父さん、これなら俺たちにもできるんじゃないか?」
「そうだな、だが小麦そのものが穫れないのでは話にならん。干ばつだけは儂らの手に負えん」
「それについても考えがある。力を貸してくれ」
マテウスは堰堤とダムを使った灌漑設備をこの村に作り上げようとしていた。
この星が太陽をひとまわりした頃、村には近代化の波が押し寄せていた。当初、半信半疑だった村人たちも設備の完成とともに豊かになる隣人の暮らしを目の当たりにし、灌漑工事や風車やぐらの設置に積極的に参加するようになった。
この数年開かれずにいた収穫祭も復活し、夜逃げの心配がなくなったひとびとに心からの笑顔が戻ってきた。それを見るにつけマテウスは自分の行いが正しかったことを確信した。
――税収が安定すれば領土争いも治まるだろう。知恵はひとのために役立ててこそ価値がある、俺はそう教えられたんだ――
だが、その考えが甘かったことを後日マテウスは思い知らされることになる。
エミール公とオリヴィエ卿の争いは小競り合いの域を越え、もはや一触即発の危機に直面していた。軍事的緊張が高まるなか、風車のためのやぐらは物見用にと徴用され、灌漑用水の水は城の濠に引かれる。麦畑は騎兵に踏み荒らされ、伏兵を恐れたオリヴィエ卿によってぶどう畑も焼き払われてしまっていた。争いの時は準備段階でこれほどまでに国力を消耗させる。マテウスとネリは村を見下ろす丘の上からその光景を眺めていた。それぞれの胸に暗澹たる思いを秘めて。
「わたしには領主たちがなぜ争うのかわからない。あなたが教えてくれた知恵で共に豊かになろうという発想はないのかしら」
「これを教えてくれた男は俺にこう言った。『ひとにはひとを支配しようとする本能がある。争いの時をなくすには、この星からひとが消え去るしかない』と。その時、俺は『ひとはそんなに愚かではない』と反論したのだが……。こうなってみるとあの男の言ったことが真理であるように思える」
「あっ、あれは?」
マテウスはネリの視線を追う。彼女が見ていたのはエミール公の城に向かって行進する兵士たちだった
「西の王国の長弓兵部隊のようだな」
「それがどうしてここに?」
海を挟んで蟠踞する王国は、よく訓練された長弓兵の精鋭部隊を保有しており、兵力に劣るオリヴィエ卿が援軍を申し出たのだ。しかし狡猾さでオリヴィエ卿を上回る長弓隊の司令官は、より報酬を多く支払うというエミール公の側についた。軍備が同等なら、城に篭って守りを固めることで攻める側の疲弊を待つという戦法もとれる。だが数で勝る上に最新兵器までもが加わるとなるとそうはいかない。オリヴィエ卿軍の惨敗は火をみるより明らかだった。
「事情はよくわからない。だが、まずいことになりそうだ」
――関わるな――
マテウスの内なる声はそう告げていた。