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第1話 記録に残らない仕事

血の匂いが、濃い。


オルクス地下迷宮の第九層。石壁に反響する呻き声の中心で、シャーロットは膝をついていた。


目の前に横たわっているのは、パーティーリーダーのダミアン。左脇腹から流れ出す血が、すでに地面に小さな水たまりを作っている。傷口の周囲がどす黒く変色しているのは、深層徘徊種の毒針によるものだ。


「シャーロットさん、もう……」


同行していた若い白魔導師の少女が、声を震わせた。回復魔法をかけても傷が塞がらない。むしろ悪化しているように見える——毒が体内で暴れている証拠だ。彼女の顔は、すでに諦めの色に染まっていた。


「落ち着いて。順番に処置します」


シャーロットの声は、静かだった。両手をダミアンの脇腹と首筋にそっと置く。


魔力が、傷口ではなく血管そのものに沿って流れていく。出血点を魔力の膜で塞ぎ、毒素の拡散経路を遅らせる。同時に、乱れかけていた心拍のリズムに寄り添うように魔力を通し、呼吸を整えていく。完治には程遠い。だが——


「……あ」


ダミアンの荒い呼吸が、少しずつ落ち着いていく。土気色だった顔にわずかに赤みが戻る。


「毒は消えていません。心臓と呼吸が、これ以上乱れないようにしただけです」


「え……でも、さっきまであんなに顔が白かったのに」


「今ここで完全に治す必要はないんです。治療院までの道中、体が保てばいい」


淡々と告げながら、シャーロットは立ち上がる合図を出した。パーティーの中で最も体格のいい戦士が、心得たようにダミアンを背に負う。地上までの道のりは長い。だが、間に合う。そう確信できるだけの余裕を、たった今作った。



依頼を終え、拠点である銀剣クランの本部に戻ったのは、日も傾き始めた頃だった。


「シャーロット、お前のおかげで今日も誰も死なずに済んだよ」


ダミアンが治療院に運び込まれる姿を見送りながら、パーティーの一人がそう声をかけてきた。他の団員たちも口々に労いの言葉をかけてくる。いつものことだ。シャーロットは小さく頷き返すだけで、あまり多くを語らない。


だが、翌朝呼び出された執務室の空気は、いつもと違っていた。


「シャーロット。単刀直入に言う」


机の向こうに座るのは、新しくクランマスターに就いたヴィクター・ラングドン。書類の束を指先で軽く叩きながら、感情の読めない声で続けた。


「お前との契約を終了する」


一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


「……理由を伺っても?」


「魔力リングの記録を見た。お前の回復魔法の使用実績は、他の白魔導師と比べても著しく低い。過去半年、大規模な戦闘に何度も同行していながら、これだ」


ヴィクターは書類を滑らせるように差し出した。回復魔法使用回数、魔力消費量——数字の羅列が並んでいる。


「感覚や経験則で人員を評価していては、クラン全体の資源配分がいつまでも不透明なままだ。リングを導入したのは、誰に対しても公平な基準で判断するためだ。お前個人を狙い撃ちしているわけじゃない」


「この数字が、私の仕事の全てだとお考えですか」


「数字以外に、何を根拠にすればいい? お前の言う“功績”とやらを、私はどう確認すればいいんだ」


責めるような声ではなかった。むしろ、本気で困っているような響きすらあった。それが、かえって恐ろしい。


「私が同行した現場で、重傷者が出た回数を調べてください。他のパーティーと比較して、著しく少ないはずです」


「それは結果論だろう。運が良かっただけかもしれない」


「運ではありません。事前に危険を察知し、進路を変え、無理な戦闘を止めさせてきた結果です。記録に残らないのは——それが起きなかった事故だからです」


執務室に、しばらく沈黙が落ちた。ヴィクターは書類を見つめたまま、指先で机を軽く叩き続けている。


「理屈としては分かる。だが、証明できないものを評価基準には組み込めない」


「……そうですか」


「攻撃職を二人増やす。負傷への対応は、ポーションで十分だ。それで回る」


シャーロットは、それ以上言葉を重ねなかった。何を言っても、この人には届かない。悪意があるわけではない。ただ、数字にならないものを、この人は判断材料にはできないのだ。


「他の白魔導師たちも、同様の措置を?」


「クラン全体のコスト構造を見直す。お前だけの話じゃない」


やはり、というべきか。予想はしていた。それでも、実際に告げられると、胸の奥に鈍い痛みが広がる。



執務室を出て、廊下を歩きながら、シャーロットは自分の手のひらを見つめた。


昨日、この手はダミアンの命をつないだ。


けれど、ああいう日は珍しかった。


危険な魔物の生息域を避け、進路を変える。疲労が溜まる前に休ませ、無理な進行を止める。そうやって、傷を負ってから治すより先に、傷を負う状況そのものを避けてきた。


昨日は、それでも防ぎきれなかった数少ない一日だった。


その一日だけが記録に残り、防いできた無数の日々は、どこにも残らない。


そのあとは、契約解除に必要な手続きと、担当していた仕事の引き継ぎに追われた。


拠点を出た頃には、陽はすっかり傾いていた。冒険者ギルドの前を通りかかると、掲示板の隅に、小さな紙が一枚貼られているのが目に入った。


「森で行方不明になった弟を探してほしい。誰でもいい、帰ってきてほしい」


差出人の名前はない。ただそれだけの、切実な依頼。誰も受けていないのか、掲示板に貼られてから随分経っているように見えた。


シャーロットは、しばらくその紙を見つめていた。


魔物を倒すことに長けた冒険者は、この街にいくらでもいる。だが——**帰れなくなった者を、専門に迎えに行く人間は、どこにもいない。**


事故を未然に防ぐ仕事は、数字に残らない。ならば、こちらはどうだろう。帰ってこられなかった者を、生きて連れ帰る仕事。それもまた、討伐数のように分かりやすい成果にはならないかもしれない。


けれど。


「——待ってる人が、いるのに」


小さく呟いた言葉が、夕暮れの喧騒に溶けていく。


シャーロットは、その依頼書を、そっと指先で剥がした。

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