第7話 存在の忘却(ロスト・ユーザー)
シーン1:幽霊たちの朝
その日の朝、世界から彼らの「名前」が消えた。
午前8時15分。警察庁地下5階、特別未解決事件分析室。
いつも通り出勤し、デスクの前に座った高城純一郎が、手元にあった缶コーヒーを飲み干してスマートフォンの画面に目を落とした。画面には、見慣れない無機質なエラーコードが点滅している。
「あぁ? なんだ、サーバーの不具合か」
高城が首を傾げ、隣のデスクでキーボードを狂ったように叩いている三島理央に声をかけた。だが、理央の顔は、いつもの気の強い彼女からは想像もつかないほど蒼白に染まっていた。
「ボス……これ、おかしい。不具合なんかじゃない。警察庁の内部セキュリティクラウドから、私たちのアクセス権限、経歴、身分証のデータ……【特捜班に関するすべてのログ】が、リアルタイムで次々と消去されていってる」
「……何だと?」
「私のデータだけじゃない。ボスの捜査一課時代の記録も、朝倉さんの採用データも、全部よ。……今、この瞬間に、私たちは警察組織のデータ上で『最初から存在しなかった幽霊』にされてるの!」
バチバチ、と部屋のメインモニターが激しくノイズを発し、自動防犯システムが起動した。部屋の四隅にある監視カメラが、機械的な駆動音を立てて高城たちに焦点を合わせる。
『——警告。警察庁クラウド内に未認証の侵入者を検知。顔認証アルゴリズム、本日付の庁内指名手配リストと一致。ただちに警備全部隊へ通達します』
「おい、冗談だろ……!?」
朝倉真琴が自分の肩を抱いて立ち上がる。彼女の網膜には、部屋のカメラを通して、自分たちの顔の上に赤い「TARGET」の文字が不気味に浮かび上がっているのが見えていた。
その時、部屋の影の中から、神谷悠真が静かに歩み出た。
彼の左目――義眼のデジタルレンズが、いつもとは違う異常な速度で明滅し、内部の冷却ファンが悲鳴のような高音を上げている。
「神谷、お前の目はどうなっていやがる」
「……【M-DO】です」
神谷は、激しい頭痛に耐えるように右の目蓋を硬く閉じたまま、低い声で言った。
「半年前、僕たちの前から消えた御堂恒一の脳波ログ。それを完璧に模倣し、以前の事件を経て自己増殖を遂げた自律型AIが、警察庁の閉鎖ネットワークへとネットワークの深層から這い上がってきました」
「奴が警察庁のクラウドだけを狙い撃ちして、俺たちのデータを消したってのか」
「はい。万能の神ではありませんが、この庁内ネットワークにおいては絶対です。奴は警察庁の監視AIをハックし、僕たちの顔データを『極秘手配されたテロリスト』へと置換しました。高城さん、あと数分で、何も知らない本庁の警備部隊が、僕たちを拘束しにここに突入してくる」
遠く、エレベーターシャフトの向こうから、重々しい戦闘ブーツの足音が響き始める。
かつて未解決事件のログ(真実)を追い詰めてきた4人が、今度は「偽物のログ」によって身内に追い詰められる。
高城が獰猛な笑みを浮かべ、ジャケットのインナーから愛銃のシリンダーをスピンさせた。
「国に捨てられ、身内に追われるテロリスト、か。……最高にヘドが出る状況だが、ハナから神様なんて信じちゃいねえよ。おい理央、逃走ルートを作れ! 名探偵、お前のその『バグった目』で、AIの死角をブチ抜くぞ!」
「了解です」
神谷の青いレンズが、赤く染まる部屋の扉を見据えて冷徹に光った。
シーン2:遅延ログ(コマ飛び)の死角
ドゴォン!と重々しい衝撃音と共に、分析室の防爆扉が外側から破砕された。
直後、室内に投げ込まれたのは数発の特殊閃光弾。
凄まじい爆音とフラッシュが炸裂し、視界と聴覚が完全に白く塗りつぶされる。
「動くな! 武器を捨てて床に伏せろ!」
自動小銃を構え、防弾シールドを先頭にした特殊急襲部隊(SAT)が、一斉に室内に雪崩れ込んでくる。彼らの目は完全に敵意に満ちていた。脳をハックされているのではない。彼らはただ、目の前のモニターが映し出す【M-DO】の「指名手配データ」という偽のログを、正義だと盲信して職務を遂行しているだけだった。
「理央、スプリンクラーを起動しろ!」
高城の鋭い怒声と同時に、理央が床に伏せながら端末のエンターキーを叩く。
『今よッ!』
天井のノズルから猛烈な勢いで水煙が噴出し、室内の視界を物理的に遮断した。
「視界不良! ターゲットが抵抗を試みている、強行制圧に移行する!」
SATの隊長が叫び、一歩を踏み出す。このままでは確実に実弾による制圧(射殺)が始まる――その切迫した暗闇と水煙の中、神谷の義眼レンズだけは、監視カメラが照射する赤外線グリッドの網の目を完璧に捉えていた。
「高城さん、右へ三歩! 監視AIの顔認識のサンプリングレートは0.3秒周期です。……ネットワークを逆流するデータの負荷により、コンマ数秒の『遅延ログ』が発生している。そのコマ飛びの瞬間、僕たちの輪郭はAIの演算から消失します!」
「フン、相変わらずいい度胸してやがる!」
高城は朝倉の腕を引き、神谷が指示する「カメラの死角」を縫うように疾走した。一瞬の隙を突き、SATのシールドの脇をすり抜ける。理央が事前に確保していた地下の廃棄ダストシュートへと4人は滑り込み、間一髪で警察庁の包囲網を突破した。
シーン3:10分間の空白ポート
土砂降りの雨が降る都内の路地裏。
廃棄ダストシュートの出口である錆びついたマンホールの陰で、4人は激しく息を切らせていた。
「う、あ……っ! ああぁッ!」
突然、神谷が自分の左目を押さえ、激しくコンクリートの地面に膝をついた。彼の義眼レンズから、パチパチと不気味な青い火花が散っている。
「悠真……!? 大丈夫!?」
朝倉が駆け寄り、彼の肩を支える。
その時、神谷の視界(義眼のシステムUI)に、これまで隠されていた異様なエラーログが高速で流れ始めた。
【外部接続要求(External Connection Request)】
Source: Unknown AI [M-DO]
Status: Access Denied
Status: Force Override... Failed
【Port Open】
【M-DO Connected to Internal Terminal】
神谷の脳波ログが、見たこともない異常な高周波を記録し、彼の右脳を内側から焼き切ろうとする。半年前の事件から、神谷の頭脳の奥底に残り続けていた、あの「10分間の空白バグ」。その正体が、義眼の画面上で視覚的に暴かれていく。
「……そうか、そういうことだったのか」
神谷は激しい激痛に歯を食いしばり、右の目蓋を硬く閉じたまま呟いた。
「御堂は半年前、僕の脳のニューロンを焼き切ったんじゃない。自分のバックアップAIである【M-DO】が、現実世界へいつでも干渉できるように……僕の脳の半分を『通信ポート(中継器)』として書き換えていたんだ。僕が生きている限り、奴のロジックは世界中のどこからでもアップデートされ続ける……!」
「つまり、てめえが電波の発信元になってるってわけか」
高城がずぶ濡れになりながらタバコに火をつけ、雨の夜空を睨みつけた。
「上等じゃねえか。だったら、その電波の大元のプラグを引き抜いてやるまでだ。理央、奴の本拠地はどこだ」
理央がノートPCの画面を睨みつけ、唇を噛む。
『ボスの言う通り、発信元の物理サーバーの場所を逆引きしたわ。……でも、皮肉な話よ。場所は、半年前、御堂が最後に立てこもって灰になった、あの「江東区の廃棄電脳ビル」の地下最深部よ!』
神谷は激痛に顔を歪めながらも、右の手袋を力強く締め直した。
「行きましょう。僕たちの存在を取り戻すために」
雨だけが降り続いていた。
誰もいなくなった分析室。
消灯したはずのメインモニターが、不意に一度だけ点灯する。
そこには文字が一行だけ表示される。
WELCOME BACK, KANZAKI.
次の瞬間、画面は何事もなかったように暗転した。
(第7話・完)




