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第1話 血の解釈(汚染されたレンズ)

シーン1:日常の裂け目、小さな違和感

世界は、何事もなかったかのように平穏を装っている。

御堂恒一がもたらした「脳のハッキング事件」から1ヶ月。都心の喧騒も、行き交う人々の表情も、1ヶ月前と何一つ変わらない。だがそれは、政府と警察上層部が、世界の蓋が開いてしまった現実を必死に覆い隠しているだけの、薄氷の上の日常だった。


新宿区の片隅にある、うらぶれたビジネスホテルの一室。

SEの男、小北(32歳)は、ベッドの上でノートPCの画面を虚ろに見つめていた。


彼の耳には、イヤホンが深く差し込まれている。

画面には、何の意味もなさない幾何学的なノイズパターンが明滅していた。小北の手は小刻みに震え、その目は焦点が合っていない。だが、その表情には恐怖も狂気もない。ただ、脳の処理能力を限界まで乗っ取られた機械のような、完全な「無」だった。


「みみの、おくが、あつい」


小北は掠れた声でそう呟くと、デスクの上にあった、鋭利な金属製のマイナスドライバーを手に取った。

彼は生気の失せた目で壁の鏡を見つめ、迷いのない、一定の速度の手つきで、そのドライバーの先端を自らの右の耳の奥へと、深く、深く、突き立てていった――。


翌朝、午前7時。警察庁地下5階。

本庁の華やかなキャリア組が行き交う地上から隔離された「特別未解決事件分析室(特別捜査班)」の部屋は、重苦しい静寂に包まれていた。


「……所轄の処理は『激務による重度のノイローゼ。突発的な精神錯乱による自傷行為』。遺書はないが、日記に鬱の兆候あり。これで終わりだそうだ」


高城純一郎が、デスクに1冊の捜査報告書を放り投げた。写真には、耳から血を流して事切れた小北の遺体が写っている。どこにでもある、現代社会の悲劇(日常)のレポートだ。


朝倉真琴が、その写真を覗き込んで怪訝そうに眉をひそめた。


朝倉「……変ね。ノイローゼの自殺で、わざわざ自分の耳の奥を正確に破壊するかしら。鼓膜だけじゃない、内耳の奥の、神経が集まる場所をあえて狙って突き刺してる。これじゃあ、まるで――」


「脳へ流れ込む『音』を、物理的にシャットダウンしようとした(拒絶した)痕跡だ」


部屋の隅、パイプ椅子に深く腰掛けていた神谷悠真が、静かに声を響かせた。

神谷はすでに、黒い革手袋を右手に嵌めている。その顔色は、1ヶ月前よりも明らかに白い。ガラス細工のような無機質な瞳。だが、その左目の白眼が、微かに赤く充血していた。


神谷「ただの自殺じゃない。彼には、そうせざるを得ない『外部からの入力(インプット)』があった。高城さん、臨場しましょう。上層部がこの事件を『小さく畳む』前に」


三島理央が、マルチモニターの前でキーボードを叩きながら振り返る。

三島「気をつけて。小北の勤務先は、警察庁の基幹通信システムの保守を請け負っている下請け企業よ。ただの一般人だけど、触れているデータが少しだけ『官』に近い。嫌な予感がするわ」


神谷は何も言わず、コートを掴んで部屋を出た。




シーン2:サスペンスの階段(日常から公安へ)

午前9時。小北が命を絶ったビジネスホテルの一室。

所轄の鑑識はすでに引き揚げ、室内には立ち入り禁止の黄色いテープだけが残されている。通常、これほど小さな事件に本庁の人間が来ることはない。


高城がフロントに古い警察手帳を提示し、「遺品の確認」という名目で数分間の時間を稼ぐ。その隙に、神谷と朝倉が室内に滑り込んだ。


室内は、不自然なほど「綺麗」だった。

小北が使っていたはずのノートPCも、スマートフォンも、デスクの上には残されていない。


朝倉「……ない。PCもスマホもないわ。所轄の遺品押収リストには『私物一式』としか書かれていなかったのに、デジタル機器だけがピンポイントで消えてる」


隠蔽の第一段階。所轄の怠慢に見せかけた、組織的な「回収」。

だが、神谷の目は、デスクの傍らのゴミ箱に捨てられていた、小北の私物である古いデジタル式腕時計を捉えていた。


神谷「朝倉、入り口の警戒を。……10秒で抜く」


神谷は、右手の黒い革手袋を口で咥えて、ギチリと引き抜いた。

白い、剥き出しの指先が、腕時計の金属製裏蓋に触れる。


物質に刻まれた電気信号のログを読み取る、神谷のサイコメトリーが起動した。

リミッターの外れた彼の松果体が、爆発的な熱量で駆動を始める。


――視界が、一瞬でモノクロに反転した。


見えた。昨晩、小北がこの部屋で腕時計を嵌めたまま、狂ったように耳を掻きむしっていたログ。部屋の壁に備え付けられた「ホテルの有線LANルーター」から、異常なパルス状の電磁波が放射され、小北のイヤホンコードを経由して、彼の脳へ『高周波のバグノイズ』を流し込んでいる。


「――っ、が、あぁ……ッ!」


神谷の口から、短い苦悶の声が漏れた。

能力の代償。大河内が死ぬ瞬間に感じていた「耳の奥を直撃する激痛」と、「自分の意識が内側から書き換えられていく底なしの恐怖(感情)」が、神谷のニューロンへダイレクトに逆流してくる。


激しい目眩。神谷の左目と鼻から、タラリと鮮血が流れ落ちた。


朝倉「悠真!!」

朝倉が咄嗟に神谷の手を掴み、自身のテレパシーでシンクロを強制切断する。


神谷はデスクに手を突き、激しく喘ぎながら、濡れた手で顔の血を拭った。脳が焼けるような感覚。しかし、彼の瞳は冷徹なロジックを失っていなかった。


神谷「ハァ、ハァ……。……ルーターから、偽のデータが流し込まれていた。……小北が勤務先から持ち帰った、警察庁の『暗号化通信のバックアップ・コード』を奪うためのハッキングだ。……一般のハッカーじゃない。このルーターに、警察内部の秘匿プロトコル(回線)から直接、遠隔操作のログが残っている」


朝倉「警察内部……? じゃあ、小北さんを殺したのは……」


神谷「……身内だ。それも、電波通信を統制する、警備局――公安の暗殺者(クリーナー)だ」


ただのSEの自殺(日常)という階段の最初の段に触れた瞬間、特捜班の足元は、一気に「国家の暗殺(闇)」という次の段へと引きずり込まれた。




シーン3:電子の包囲網(インビジブル・トレース)

特捜班の覆面パトカー(地味なセダン)の車内。

神谷は後部座席で三島が用意した「携帯型精神ノイズキャンセラー」のヘッドセットを頭部に装着し、深く目を閉じていた。こめかみには冷却ジェルシートが貼られ、シートにはまだかすかに血の匂いが残っている。


助手席の朝倉が、ノートPCの画面を睨みつけながら振り返った。


朝倉「悠真が腕時計から引き抜いた通信プロトコルのログ……解析が終わったわ。ホテルのルーターを遠隔操作していた発信源は、今も都内を移動中。新宿から代々木方面へ向かってる」


運転席でハンドルを握る高城が、バックミラー越しに神谷を見る。


高城「追えるか、理央」


本部の三島から、焦燥を含んだ声が無線に割り込む。

『誘導するわ。でも気を付けて。相手の発信デバイス、普通の警察無線じゃない。御堂の遺産であるハッキング・パルスを、公安が秘密裏に『電子兵器』として実用化した試作型(プロトタイプ)よ。小北さんはそのシステムを保守する過程で、上層部が世界の蓋を隠蔽しようとしている『不都合な事実(ログ)』に気付いて消されたのね』


朝倉「……捉えたわ。前方、明治通り。あのグレーのワンボックス車。電波の放射源はあの車内よ」


高城が静かにアクセルを踏み込み、ワンボックス車の進路を塞ぐように高架下の路地へと追い詰める。

パトカーから降り立つ神谷と朝倉。

ワンボックス車のドアが開き、黒いトレンチコートを着た男――公安の暗殺者(クリーナー)、乾(いぬい)が姿を現した。


乾の目は虚無的で、完全に感情が抜け落ちている。彼は神谷たちを見ると、不敵に口元を歪めた。


乾「……特別捜査班か。御堂の事件でリミッターを外した『不良品』どもが。上層部(上)の命令だ。お前たちの脳のスペックはすでに解析されている」


乾が胸ポケットから「奇妙な細い金属製のロッド(発信デバイス)」を取り出し、スイッチを押した。


朝倉「悠真、来るッ!!」


空間全体に、キィィィィィンという超高周波の耳鳴りが炸裂する。

乾が放ったのは、脳の認知機能を強制停止させるハッキング・パルス。朝倉が悲鳴を上げてその場に膝を突き、神谷の視界もノイズで激しく歪み始める。かつてのように自分の脳を焼くような力技(能力)では、この広域パルスには立ち向かえない。


だが、神谷の瞳から冷徹な光は消えなかった。

神谷は、右手の黒い革手袋を口で咥えてギチリと引き抜いた。そして、乾が放つ電波が激しく衝突している「高架下の鉄骨(物質)」へと、剥き出しの右手を力強く突き立てた。


乾「無駄だ。物質のログを読んだところで、その脳が焼き切れるのが先だ!」


神谷「……ハァ、ハァ……! 確かに、脳の血管が千切れるほど熱い。……だが、鉄骨(ここ)には今、お前がリアルタイムで放射している『電波の物理的な痕跡(ログ)』が刻まれ続けている……!」


神谷の左目から鮮血が滴る。脳出血のタイムリミットが迫る。

しかし、神谷のサイコメトリーのレンズは、乾のデバイスから放たれる目に見えないパルスの「正確な周波数、振幅、および暗号化のアルゴリズム」を冷徹に、ミリ単位で複写(トレース)していた。


神谷「朝倉……! 俺の脳が見たこの周波数の数式(ログ)を、そのままテレパシーで三島さんに繋げ……!」


朝倉「……っ、了解……! 三島さん、悠真の視覚ログ(データ)を、直接そっちのサーバーに流すわよ!!」


朝倉が神谷の肩を掴み、神谷の脳が弾き出した「電波の構造式」を、テレパシーの波形に乗せてベース基地の三島へダイレクトに転送(リンク)した。




シーン4:逆位相の弾丸(アンチ・コード)

警察庁地下5階。

三島理央のマルチモニターに、神谷が見た「乾の電波のパルス波形」が、鮮烈なグラフとなって映し出された。


三島「データ受信! 乾のデバイスの固有振動数、完全にロックしたわ!」


三島の指が、鍵盤を叩くピアニストのようにキーボードの上を激しく狂い踊る。


三島「御堂のプログラムをベースにしているなら、構造はロジカルよ。……乾の放つ電波と『完全に一致する、上下反転した波形(逆位相)』を、ベース基地のスーパーコンピュータから周辺の公衆電波網(野良Wi-Fi)へ一斉にインジェクション(流し込み)する……!」


高架下の空間。

乾のデバイスから放たれる精神ノイズが、神谷と朝倉の脳を完全に破壊しようとした、その刹那――。


パシィィィィィン!!!


乾の持つ金属ロッドから、激しい電子音と共に、煙が吹き上がった。

高架下の空間に突如として展開された「三島の逆位相電波」が、乾の放つハッキング・パルスと空中でもつれ合い、物理的なノイズキャンセリング現象を起こして完全に相殺(沈黙)させたのだ。


乾「な……っ!? デバイスの出力が、完全に相殺された……!? バカな、我が方の暗号化プロトコルを、この短時間で逆算したというのか!」


乾が驚愕に目を見開く。

ハッキング兵器という「システム」を頼りきっていた暗殺者に対し、特捜班は「より正確なロジックと情報戦」でその武器を完全に無力化(ハメ殺し)したのだ。


神谷は濡れた手で顔の血を拭い、銃を抜くこともなく、冷徹なガラス細工の瞳を乾に向けた。


神谷「見えたものを信じるな。己の脳を疑え。……お前たちのハッキングツールは完璧ではない。不完全な人間の脳が作ったシステム(ロジック)である以上、必ず『逆位相(答え)』が存在する」


乾の背後から、銃を構えた高城が静かに歩み寄る。


高城「終わりだ、公安のクリーナー。お前が使ったそのデバイスのシリアル、そして小北さんを遠隔殺害した暗殺指令のログ(電波の足跡)は、いま全てうちの理央が国家サーバーから吸い上げさせてもらった。……お前たちの『隠蔽(うそ)』は、もう成立しねえよ」


乾は苦虫を噛み潰したような顔で、ゆっくりと両手を上げた。

特捜班の、純粋な「情報戦」による完全な勝利だった。




シーン5:終わらない戦い、預かった罪

数日後。警察庁地下5階、特別未解決事件分析室。

小北の事件は、上層部の手によって「過労による突発的な自殺」として公式発表され、世間のニュースからは早々に消えていた。だが、乾のデバイスと押収された通信ログは、特捜班が握る「上層部への最大の切り札(人質)」として、極秘にアーカイブ化されている。


神谷はデスクに座り、三島から頭部にセンサーを貼られて検査を受けていた。


三島「いい、悠真。今回の物質経由でのトレースで、あなたの松果体の毛細血管はかなりの負荷を受けてる。今回は逆位相が間に合ったから良かったものの、次同じ真似をしたら、本当に脳幹出血で即死よ」


神谷は無言で、新しく用意した黒い革手袋を右手に嵌めた。


朝倉「……でも、日常の小さな自殺事件から、ここまで上層部の尻尾を掴めるとは思わなかった。私たちがこの証拠を握っている限り、上層部も簡単には特捜班を解体できないはずよ」


高城がコーヒーカップを片手に、部屋の窓(偽の景色が映るモニター)を見つめながら呟く。


高城「ああ。だがこれは、一時的な冷戦状態に持ち込んだだけに過ぎん。世界の蓋を開けた御堂を隠蔽するためなら、上層部はこれからも身内を殺し、脳ハックを利用し続けるだろう。……俺たちの本当の敵は、この組織そのものだ」


その時、神谷のデスクの電話が鳴った。

表示された内線番号は、警備局参事官・佐伯(さえき)のものだった。特捜班潰しに失敗し、煮え湯を飲まされた上層部からの、次の「お仕事」の命令だ。


高城が受話器を取り、スピーカーモードにする。


佐伯『……特別捜査班か。新たな案件だ。ある町工場の工員が、自宅で『自らの目を抉り出して』死亡しているのが発見された。所轄の判断は、重度の精神錯乱だ。貴官らには――』


佐伯の声は、憎しみを押し殺したように冷たかった。


佐伯『――その事後処理を命じる。余計なものは見るな。組織の解釈に従え』


ブツリ、と電話が切れる。

部屋に流れる、冷たい緊張感。入り口はまた、小さな、どこにでもある日常の悲劇だ。


朝倉「……また、始まったね」


神谷は静かに立ち上がり、コートを羽織った。

彼の左目は、まだ少し赤い。だがその視線は、どこまでも真っ直ぐに、次の事件のログを見据えていた。


神谷「行きましょう。上層部がどれだけ現実を不都合として隠蔽しようとも。……現場に残された被害者の『血の解釈』は、俺たちが引き受ける」


黒い手袋を嵌めた神谷の手が、部屋のドアノブにかかる。

日常の裏側に潜む巨大な闇のグラデーションを登る、特捜班のロジカルな戦いは、ここから本格的に始まっていく――。


(第1話・完)

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