22.三枚目の手紙
「――つまり、お使者が怪我を負わされるような故国に、臆した私が帰らないとでも言い出すんじゃないかと思って、内緒にしておいたってこと?」
サビーハが使者の包帯を替え終えるのを待ってから、姫子達は怪我人を気遣って場所を居間へ移した。ソファーに座ることもなく仁王立ちしている姫子を前に、サビーハが膝を付いて身を竦め、エプロンを揉み絞っている。
「ですが姫さまは、詩作も踊りも楽器も全部やめておしまいになるし。あろうことか、お言葉までも怪しくおなりになって……」
「だって、四年ぐらいまともに使ってないんだもの、しょうがないじゃないっ!」
「こんなご様子の姫さまが、素直にお帰り遊ばすとはとてもとても……」
そう言ってサビーハはよよと泣き崩れ、目頭にエプロンを押し当てる。
姫子とて、隣近所に気を遣いながらも、故国の弦楽器に似たウードを爪弾いているサビーハの姿に気付いていた。故国に残してきた家族のことを思い出しているのだろう。もはや未練を残すことの無い姫子は、思いを全部飲み込むしかない。
黙り込んでしまった姫子の様子を見ていた老ダンダーンが、まるで世間話でもするかのような風情で、
「サビーハも繰り言はそのぐらいにして、茶でも入れなさい。ところで姫さまは、故国を陥れた賊の正体をご存知でしたかな?」
黙って首を振る姫子に、ソファーへ腰を下ろすように促した。
そもそも、姫子は双竜町に十数年間封じられていたようなもので、自分の両親が死んだことすら何年も経ってから知った――しかも盗み聞きで――のだ。そういう話は国王の弑逆にも繋がるので、王子に気を遣って話したこともなかった。
「隣国に攻め込まれたんじゃ無いの?」
「賊は異国の者ではございません」
「じゃあ、まさか軍事クーデターだったとか?」
「というわけでも、ありませんで」
姫子が小首を傾げていると、サビーハが鼻を啜りながら緑茶を運んで来た。
軽く喉を湿らせてから、老ダンダーンはさらに続ける。
「数代前に分かれた王族の子孫がその血筋の正当性を主張し、元国王が毒殺された王権の移行時期を狙って蜂起したと、聞き及んでおります」
「王子にとっては、遠い親戚……ってこと?」
「はい。しかも捕らえた賊共は元国王の毒殺を認めておらず、また、資金や物資、傭兵などの用立てに隣国の気配がちらつき始めました」
それはつまり、今回の賊を討ち果たしても危機は完全に去ったわけではなく、以後は荒廃した国を立て直しつつ隣国の介入を退け続け且つ国内にも目を光らせる必要があるということだ。通りで戦が長引くわけである。
そして老ダンダーンは懐から先ほど見せた手紙を取り出した。
「これが、三枚目の手紙にございます」
血を吸ってごわごわになっている手紙を、姫子は貪るように読んだ。
それには、智志を側近のひとりに加えたいということと、智志の存在が故国に身内のひとりもいない姫子の支えになるだろうという、智志の都合をまったく考えていないとはいえ王子なりに配慮したであろう内容が書かれていた。
文章にはさらに続きがあった。
故国への帰属性の薄れた姫子が戻らないという決断を下しても一切咎めるつもりのないことが、乱れた故国の文字で訥々と綴られていたのである。
(――王子、いくらなんでも私の処遇が甘過ぎるわ)
王子と故国から見捨てられたように思い捨て鉢になった姫子のように、王子もまた、姫子に忘れ去られることを予測していたのか。ただ命じられれば従うしかない、臣下のひとりに過ぎない姫子に寄せるこの想いは、些か重くはないだろうか。
手紙を盗み見た乳母は、後者の部分を憂慮したのだろう。
姫子が帰らないとなれば、面倒を見るためにサビーハも残留することになる。姫子はサビーハが、家族と苦楽を共にしたがっていることに気付いていた。
そして変色して読み辛くなった文面を、何度も何度も読み返す。
(どうして、気付かなかったんだろう。この乱れた筆致は……)
以前、王子から借りたノートはとても丁寧な字で綴られていた。
故国に帰って文字が替わっても、急に汚くなるはずはないのだ。調子のいいことばかり書いても、戦場では手紙を書く余裕などない切迫した情況だったのではないか。姫子はふと、十二年前の双竜町の上空で王子に掛けられた言葉を思い出した。
『フェトナっ、しっかりしろっ! 俺がずっと傍にいるから、大丈夫だっ!』
自身も父王を弑逆されたばかりのたかだか六、七歳の子供だった。
そして十二年が経ち、王子は姫子が戻らない可能性まで考えて、命懸けの使者に三枚の手紙を託したのだ。
(――私だけ安全な場所にいるだなんて、そんなこと出来るわけないじゃない)
姫子は黙ったまま、血塗れの手紙を抱き締めた。




