5.自己都合による退職は認められない。
今日も今日とて我が上司は部下への人格攻撃に余念がない。
「この無能が! お前のような奴に給料を払うくらいなら猫でも雇っている方がマシだ!」
上司にはきっと“とりあえず部下を叱る”という業務があるのだろう。そうじゃないと説明がつかない。私が平成生まれであることも、好きなエナジードリンクが怪物系であることも、この上司にはなんの関係もないのだから。
「じゃあ、辞めます」
「ああ?」
「私、猫よりも無能なんで辞めます」
私がそんなことを言うとは思ってもいなかったらしい上司は、珍しくその眉間のシワを解いてポカンとした顔をした。
ほとんど職員の仮眠エリアとなっている十一階の端にある小さな休憩室の片隅で、私は膝を抱えて項垂れていた。
やってしまった、という言葉が頭のなかをクルクルと回る。
以前からずっと“辞めたい辞めたい”と思っていたし、実際に上司に辞表を持っていったこともあるが、あんなふうに上司に楯突いたことはない。
「……はぁ」
自分の行動に溜息しか出なかった。
俯いた視界に映るグレーのスカートにポツリポツリと小さなシミができていく。
「ううっ」
悪の組織に就職してもうすぐ一年。
最近は仕事で泣くことなんてずいぶん減ってきていたのに、一度溢れ出した涙はどうやっても止まってくれそうにない。
理不尽には慣れたつもりでいた。たいていのことは笑って流せるようになった。働く上で一番大切なのは能力ではなく“我慢”と“忍耐”であると知った。
それなのに。
どうして上司にあんなことを言ってしまったのか、自分でもわからない。
「……おい、どうした? 大丈夫か?」
こんなとき、私を見つけてくれるのはいつだって彼で。
「ナカムラさん」
「ん? 泣いてんのか?」
「ナカムラさ〜ん!」
決壊したと思っていた涙腺にはまだ先があったようで、ナカムラさんが差し出してくれたハンカチをびしょびしょにするまで、私は幼い子どもみたいに泣き続けてしまった。
「落ち着いたか?」
「……グスン。……はい。ありがとうございます」
ナカムラさんが渡してくれた怪物系のエナジードリンクを受け取りお礼を言う。私が一番好きなピンク缶だ。
ちなみに、うちの組織の自動販売機にはブラックコーヒーとエナジードリンクしか売っていないので、ナカムラさんのチョイスがおかしいわけではない。おかしいのはカフェイン抽出機という異名を持つ自動販売機しか置いていない我が組織だ。
たまにはオシャレな感じにデカフェとか飲みたい。どんなものなのか、よく知らないけど。
「久しぶりだな。お前がここで泣いてんの」
「えへへ。ちょっと……やらかしちゃいまして」
入職直後はよくこの休憩室で凹んでいたものだ。
泣いていると今みたいにどこからともなくナカムラさんが現れて、飴だのチョコだのエナジードリンクだのをくれるのだ。だから、いつの間にか悲しいときはこの場所に来るようになってしまった。
あんまりしょっちゅう顔を合わせるものだから、私は最初の頃ナカムラさんのことを自分と同じ下っ端構成員だと誤解していた。まさか上位戦闘員が私なんかを気にかけてくれるとは夢にも思わなかったから。
「私って全然成長してないですよね」
「そんなことねぇよ。泣かないのと、成長は別もんだろ」
ナカムラさんはそう言って慰めてくれるが、私はどんな顔をして上司のもとに戻ればいいのかわからない。
もう就業時間は終わっているので、業務放棄のペナルティを受けることがないのが唯一の救いだ。もういっそ、本当にこの仕事辞めたい。
「うちの組織って、どうやったら辞めれるんですかね」
「殉職以外で、か?」
「はい。就業規則には“自己都合による退職は認められない”としか書いてないし。……解雇ってないんですか?」
困った顔で首を横に振られてしまった。
勤続十二年のナカムラさんが、解雇どころか普通の退職者も見たことがないと言うのだから、悪の組織を抜けるというのは文字通り命がけなのだと理解できた。
みすみす逃すくらいなら、人格改造手術を施し使い捨てにする方針らしい。
「ナカムラさんは辞めたいって思ったことありますか?」
「そりゃあるよ。この組織にいてそれを考えたことない奴なんてほとんどいないだろ」
やっぱりエリートのナカムラさんでもそうなのか。
ブラックな組織って上にいけば美味しい思いができるのかとか考えていたけど、うちの組織ではそんなことはなく、上位戦闘員も下っ端構成員ももれなくブラックな労働を課されている。
「でも、人体改造手術受けると定期メンテナンスが必要になるから逃げようがないしな」
ヤクザよりも足抜けの難しい組織だ。
「警察に駆け込めば保護はしてくれるだろうが、治療は厳しいしなぁ」
「ヒーロー機関には助けを求められないんでしょうか?」
「ヒーローは場所によればうちよりブラックだぞ。アイツらは善人じゃなくて、あくまで正義の執行官だからな」
世間への謳い文句はどうあれ、人を助けるのではなく悪の殲滅が彼らの仕事で、基本的に悪の怪人を倒すために戦闘能力に全振りしている人が多いそうだ。悪の組織とは使っている言語が違うのかと思うほど話が通じないらしい。
まあ、立場の違いはあれどやってることはわりとうちの組織と被ってるからな彼ら。
「じゃあ、ナカムラさんはこのままずっと怪人を続けるんですか?」
「そうだな。それなりに長くいるとある程度のことには慣れちまうしな。……もし、どうしても辞めたくなったら」
「なったら?」
「総統ぶっ殺して成り代わるわ」
わりとデンジャラスな結論。
この人も悪の組織の一員なんだなぁという気もするし、この人にこんな結論を出させるうちの組織マジでブラックっていう気もする。
「まあ、だから辞めんなよ。耐えらんなくなったら俺に言え」
「総統になってくれるんですか?」
「おう。任せとけ」
頼もしい笑顔になんだか肩の力が抜けた。
ナカムラさんなら本当にシレッと総統の地位を手に入れてしまいそうだ。なんたってレベル8の悪の怪人なのだから。
「ほれ、仕事終わらせてこい。飲みに連れて行ってやる」
「! 今日は私が奢りますよ!」
「凹んで泣いてた奴がなに言ってんだ。先輩に素直に甘えるのも後輩の役目だぞ」
そんなことを言うが、ナカムラさんは私に缶コーヒーの一つも奢らせてくれない。そりゃあ、エリート構成員の彼とは貰っている給与額からして天と地ほどの差があるけれども。
たまには私もなにか恩返し的なことがしたいのに。
「じゃあ、ちょっと上司に怒られてきます」
「おお。頑張ってこいよ」
その言葉に背中を押されるように、私は上司の待つ自分の部署へと歩き出した。
就職した悪の組織はめちゃくちゃブラックでしたが、頼れる先輩がいるので私はもう少し仕事を頑張れそうです。
作者は“赤字続きだから経営改善案を上げてこい”と平職員に言うようなクソみたいな職場に勤めています。経営も運営も私の業務じゃねぇ。
*2022/6/8 レビューをいただきました。エタメタノール様、ありがとうございました。