第一話
数千年前、人々は本物の空の下で神の祝福を受け、平穏の中で暮らしていた。
しかしある時、夜空に浮かび人類を見守っていた月が砕け、厄災となって炎を纏い地上に降り注いだ。血と火炎で大地は深紅に染まり、ほとんどの生命が爛れた。
生き残った僅かな人類は、一縷の望みをかけて“神塔”を上ることを決意する。青々とした命に満ちた大地を取り戻したい……。その願いを携えて、いつ終わるかもわからない塔を上り続ける。
その頂上に、万物の願いを叶える神がいる信じて。
「……お坊ちゃま……エルお坊ちゃま」
優しい声に、夢から現へと引き戻された俺は、寝起きのぼやけた視界をこすりながら声の方向へ顔を倒す。そこには我が家のメイドである老婆の、柔らかな笑顔があった。
二度寝に引き込もうとする睡魔と戦いながら、俺は上体を無理やり起こす。
「あ……あぁ……ばあちゃんおはよう」
いつもと変わらない朝の情景。
俺の挨拶に、ばあちゃんは目尻に一層シワを寄せて笑みを浮かべる。
そして白髪を後ろでまとめたお団子ヘアーを見せつけるように、元々曲がっている腰をさらに曲げてお辞儀をする。
「おはようございますエルお坊ちゃま。朝食の用意が出来ました。今日は大切な日ですから、このお婆、腕によりをかけて作らせていただきした」
そう言うと老婆は頼りない力こぶを作り、軽くはたいて見せた。
そのしぐさを見て、俺は苦笑いを浮かべる。
「そんなか弱い力こぶじゃ、今日の朝食に不安がよぎっちまうよ。けどありがとな、ばあちゃん」
感謝を受けばあちゃんは満足そうに、えぇえぇ、と頷く。
「アルちゃまも起こさなくてはなりませんので、私はこれで失礼しますね」
その言葉に、ハイハイと適当な返事をする。そんな俺にペコりとか軽く会釈をし、ばあちゃんはゆっくりと部屋を後にする。
その小さな背中を見送り終えると立ち上がり、歩きながら凝り固まった筋肉を伸ばす。そして閉まりきったカーテンを勢いよく開けた。
ガラス窓の向こうに、広大な景色が広がる。
どこまでも続きそうな、新緑の草原。
なだらかに下る草原を、唐突に区切るように現れる窪地には、巨大な都市が佇んでいる。
更にその奥には、この世界を囲むための果てしなく高い壁あった。
この世界に空は無く、代わりに空色の岩壁が天井を蓋し、その中央には、太陽代わりの光玉が埋め込まれている。
動くことを知らない偽物の太陽は、俺たちの世界に、暖かさも愛もない事務的な光を注いでいた。
四百階層 第四学術都市。この歪んだ正十二面体の箱庭が俺の故郷。
そして今日、ここを旅立つ。
人は両親から受け継いだスキルを、1つ持って生まれる。例外もあるが、御先祖様はそのスキルを駆使してえっちらおっちら、この塔を登ってきた。
ただここまでの道のりも、当たり前だが簡単ではない。過去何度も結果の出ない低迷期があった。
そしてその度に、"天才"がその停滞を切り開き今に至る。
現代、その天才と呼ばれているのが、武神と呼ばれる父と、魔神と呼ばれる母。俺の両親だ。
二人の能力は人類史上類を見ない、ステータスの限界値を超えて成長し続けるというものだった。しかも成長ボーナスのおまけ付きだ。
その怪物二人が愛し合って生まれたのがこの俺様、フォルツェ・エルドレという訳だ。
両親の能力のどちらかを引き継げば御の字だったのだが、俺は両方引き継いだ。
見慣れた四百階層を見ながら惚けていると、腹の虫が朝食をねだって騒ぎ出した。
どれだけ強いスキルを持っていても、空腹には勝てない今日この頃。仕方なく食卓に向かうことを決心し、スリッパに足を通すと欠伸を噛み殺しながら自室を後にする。
部屋を出てすぐ、左右に伸びる無駄に長い廊下に出迎えられる。腹が減っている時には堪える食卓への長い道のりも、待ちに待った今日を迎えたと思うだけで、嫌味の代わりに鼻歌がこぼれ出す。
敷かれた赤い絨毯の柔らかな踏み心地を、スリッパ越しに感じながら、俺はこれまでの人生を振り返っていた。
思えばこの18年……このクソ長い廊下に並に長かった。
途方もない才能に恵まれ、齢十四歳でSTR、MAGをカンストである9999まで育て上げた。
凡人共が一生かけて到達する領域に、あっという間に到達した。そして今なお、限界を越えて成長し続けている。
もうこの時点で、冒険者として塔の攻略に参加したかったが許されなかった。十八歳になったら行う神器授与の儀式を終えなければ、冒険者になることを許されないからだ。
そして今日、晴れて神器授与を受けることの出来る日となったのだ。
やっと攻略に参加出来る!
己の力を存分にぶつけることが出来る!
胸に湧き上がる高揚をそのままに、スキップと鼻歌を織り交ぜ食卓へ向かう。
廊下を進み、階段を降り、1階には着いて少し歩くと目的地だ。
扉を潜ると、真っ白なテーブルクロスのかけられた長机が真っ先に目には入る。その両端には、これでもかってくらいの豪勢な食事が並べられてきた。
俺はいつもの席に腰を下し、手を合わせる。
「いただきます」
その挨拶を皮切りに、目の前のローストチンにかぶりついた。
沢山のパンに、ローストチン、真っ赤に茹で上がったロブスターに、スープに……と、こんな調子で目の前には7皿程のご馳走が並んでいる。
一般的な朝食とは、かけ離れた量だと、多くの人が思うだろうが、巨体の俺には丁度いい量だった。
しばらく1人で食事を楽しんでいたが、木製の扉がだるそうに開く音が聞こえ、そちらに視線を向ける。
そこから現れたのは、妹であるアルだった。
寝癖で乱れたショートの黒髪に、上下ジャージの服装。
そして右手には、人間の頭の数倍はあるような重しのついたダンベルを握っていた。
「おはよう、アル」
「……」
俺の挨拶に反応してチラリと顔を向けるが、眠気の混じった無愛想な表情が一層無愛想になるだけで、挨拶は返ってこなかった。
対面する椅子に腰を下ろし、いただきます、とぼそり言うアル。目尻に涙を浮かべる俺を他所に、彼女はダンベルカールをしながら朝飯をチマチマと食べ始める。
武神の血を引いたアルは、日常のほとんどを筋トレをして過ごすことで筋力の向上に努めている。
しかし食事中まで筋トレするのはマナー的にいただけない。
「ア……アル? 食事中に筋トレは、お兄ちゃん良くないと思うぞ」
その言葉に、舌打ちしながらこちらを見るアル。
「クソアニキの説教マジでウザイ。てか前に二度と話しかけるなって言ったよね。記憶力無いね、海馬腐ってんのか? バカ、アホ、筋肉ダルマ……あと口が臭い」
「……わぁ」
暴言のとめどないラッシュに、俺の涙腺というダムは崩壊した。こんなに悲しい家族団欒があるだろうか。
いつもならばあちゃんの孫娘のフユが、間をとり持ってくれるのだが……残念なことに朝から見かけてない。
涙を拭いながらそんなことを考えていると、再び扉が開きばあちゃんがニコニコ顔を覗かせる。
「エルお坊ちゃま、荷物をまとめ終わりましたので、玄関置いておきますね」
「あ……あぁ、ありがとうばあちゃん」
声を震わせながら感謝を伝える。
ふと、さっきよぎった疑問が頭に蘇る。
「そいういえば……ばあちゃん、フユ今日見ねぇけど、どこかに出かけているのか?」
「フユなら、一足先に中央都市に向かいましたよ。あの子も今年で坊っちゃまと同じ十八ですからねぇ。きっと神器授与の会場で会えますよ」
そういえばフユも受けるのか。自分のことで頭いっぱいで忘れていた。
開会の十時のはずだから、俺も早めに出ないとな……。
第四百層の端の端に建てられた我が家は、神器授与を行う中央都市から離れに離れている。馬車使っても数時間かかるのだから、早めに家を出るのは当然だ。
口にロブスターの身を詰め込み、モグモグと食べていると、思った。
今何時だ?
冷たい汗が背筋を伝う。
反射的に壁に立てかけられた時計を見上げる。
針はちょうど九時四十五分を指していた。




