(二十)迷宮案内①
ポケットの中がモソリと動いた。
柔らかな蜘蛛型ぬいぐるみの爪先がポケットの縁に掛かっている。這い出てこようとするのを、ラリゼルはポケットの上からそっと押さえた。トイズマスターに授けて貰った魔法の迷宮案内人アリアドネ・フローラは、つんつんと頭を押し上げてくる。
ラリゼルは、うかつだった自分への怒りが湧き上がってきた。
王城の玄関からアリアドネ・フローラを出すべきだったのだ。迷ってしまった後でも、アリアドネ・フローラは、道案内になってくれるだろうか?
ラリゼルが立ち止まっている間に、白雪姫はとっとと進んでいた。
「待って、ここは城のどの辺りなのか教えてちょうだい!」
ラリゼルの声に、数メートル先を歩いていた白雪姫は振り返り、眠いみたいにとろんと目を細めて睨んだ。
「変な子ね。ここでは、自分で考えればどこにでも、すぐに望みの部屋に行けるのよ。わたしは食事をしに行くんだから、これ以上邪魔をしないで」
白雪姫は細い首を傾げた。
その顔の角度が元に戻るとき、奇妙な現象が起こった。
小さな顔の輪郭が、ぼやけて、空気に滲んだ。そこへ、仮面を被せるように、別の顔の幻が重なった。それは、白雪姫のきれいな顔より一回り大きくまん丸く膨らんだ顔だった。目鼻立ちはほぼ同一人物らしく似通っているのに、体積だけを二倍にしたような太った人物の幻影らしかった。
ラリゼルは目を見張り、後ずさりした。
「なんなの、これは? 何の魔法なの?」
何度も目をこすり、白雪姫の姿を見直したが、幻影は消えない。
白雪姫は全身に二重写しの幻をまとわりつかせたまま、歩き出した。
ラリゼルは一瞬ためらい、勇気を奮い起こして白雪姫のあとについていった。
気味が悪かったが、もう少し王城について情報を聞き出したかった。
ここでは人を迷わせる迷宮以外にも、多くの魔法が働いている。他にも人がいるはずなのに、ラリゼルが会えたのは門番のピエロと白雪姫だけだ。夜の遊びの国に囚われたほかの子どもは、王城の魔法で姿を隠されているのだろう。
「わたしたち、外へ出た方が良さそうだわ。白雪姫、出口はどこにあるの?」
白雪姫が止まった、と、ぶれていた輪郭がすっきりした。
ラリゼルに振り向いたのは、この上なく華やかで美しい少女の笑顔だった。凄まじい悪臭に変わりはなかったが。
「なんだ、あなたは外の遊園地に行きたかったのね。それなら、そう考えればいいのよ。すぐに外へ出られるわ。ここは魔法のお城ですもの。でも、外では男の子が泥まみれで遊んでいるわ。なんでも魔法できれいになるとはいえ、おすすめは出来ないわね」
すっかり機嫌の直った白雪姫は、シュッ、シュッと衣擦れの音も高く裾をさばきながら、廊下に並んだうちで、いちばん大きな両開きのドアを開けた。
そこは、食堂というには広すぎる部屋だった。
シャンデリアの下にしつらえられた長い食卓には豪華な料理が並び、食欲をそそる匂いが漂ってくる。
白雪姫はひとりで食卓に着き、黙黙と食べ始めた。豪快すぎる食べっぷりは見ていて気分の良いものではないが、ご馳走を見ていたら、ラリゼルもお腹が減ってきた。午前のお茶を飲んだ後はお昼抜きで、アイスクリームを食べたきりだ。
「あの、私も少しいただいていいかしら?」
「ええ、どうぞご勝手に」
ラリゼルは近くのオードブルの皿に手を伸ばした。ところが、掴んだはずの小さなパイは、無かった。手の下で豪華な料理が、スウーッ、と色褪せていく。慌てて手を引っ込めれば、消えかけた料理はまた出現する。その繰り返しだ。ご馳走は魔法の幻なのだ。それを白雪姫は食べている。クチャクチャと咀嚼する音も噛み砕く音も、はっきり聞こえる。
ラリゼルは何種類かの料理に手を伸ばし、あきらめた。フォークやスプーンなどの無機質な物体すら、掴もうとしても映像のように透過する。けっきょく、実体がないのだ。
「白雪姫、あなたたちはいつもこんな幻の食事をしているの?」
スプーンでせっせとスープを口に運んでいた白雪姫の手が、途中で止まった。
「あなた、さっきからひとりで何を言っているの。食事中は静かにしたら?」
注意しながら、左手にパイを鷲掴みにし、かぶりついた。薄いパイ皮がボロボロこぼれる。パイ皮の中からあふれ出た肉汁が白いドレスの胸元に黄色い大きな染みを作った。
ラリゼルは空腹と魔法に欺かれたイラだちも加え、テーブルを強く叩いた。
「あなたこそ、ひどいマナーよ。今のを見てなかったの? 私はお料理を取れないのよ。消えてしまうんだから!」
同じ年頃の女の子として、見るに耐えない。口の周りは肉の脂や食べかすでドロドロ、ドレスの胸やスカートの上は、こぼした食物が変な模様みたいに染みついている。
白雪姫は額にかかった髪を手で後ろへなでつけた。指についていた脂汚れで髪がべたりと頭部に張り付く。
「放っておいて。それがイヤなら、お部屋に帰るのね。ほかの子たちみたいに鏡の前で一日中、ドレスや宝石選びをしていればいいのよ」
早口で言い放った白雪姫は、ぐっと息詰まったように卓上の料理を眺め、突然、右手でテーブルの上をなぎ払った。食器や料理が宙を飛ぶ、が、床に落ちる前に、忽然と消えた。すべてが魔法だ。この城では、いや、この国では、人間は何一つ労働せずに生活できる。
ラリゼルはあんぐり口を開けた。
「ここにいる女の子は、ずっとそんなことばかりしているの?」
「そうよ、それがどうかして?」
白雪姫はゼイゼイと肩で息をしている。いつの間にかドレスは純白に戻り、顔も、洗って化粧したかのようにきれいだ。だが、悪臭はあいかわらず匂ってくる。
「ここは永遠の夢の国なのよ。他のことなんか、考えられないわ……」
椅子から立とうとして転がり落ちた。床にうずくまり、自分を抱きしめて震えだした。その全身にまたもや二重写しみたいな幻影が重なる。輪郭がぼやけ、身体の色が薄れていく。ついには半透明になり、向こうの景色まで透けだした。
「ちょっと、しっかりして!」
ラリゼルは駆け寄り、思い切って白雪姫の肩を掴んだ。透けてはいるが、確かな手応えがある。ガクガクと揺すぶってみた。おそらくこれは、コータローの時と同じ魔法の作用だ。この国に満ちている魔法の力が、何かを白雪姫の身に起こそうとしている。ひどく眠そうに目を半分閉じ、口を締まりなく開けている。虚ろな視線でラリゼルを見ると、苦しそうに目蓋を強く閉じた。
「私は……本当は、変身したくないの」
「なんのことだかよくわからないけど、負けないで!」
ラリゼルは夢中で白雪姫を抱きしめた。




