(十九)王城
ラリゼルが王城に入るのは簡単だった。
門番のピエロはお辞儀をして通してくれたし、玄関ホールには城内の案内図まで貼ってある。
ラリゼルは大きな案内図をじっくり検討した。
「これだと広い舞踏室が一つと、女の子たちの宿泊施設しかないみたいだけど……」
しかし、それでは案内図と王城全体の大きさが合わない。大きな王城は、サッカー場なみに広い舞踏室百個分はありそうだ。
「一階から七階まであるのね。あちこちにある空白の区域は何かしら?」
ラリゼルは指先で字の部分に触れた。
「立ち入り禁止区域?」
見たことのない文字だったが、指先で触ると意味が脳裏に浮かんだ。
『魔法文字』だ。
魔法文字は、多次元管理局のある第ゼロ次元を中心に、多くの世界に普及している。文字通り、文字に魔法をかけてあるのだ。異なる文化の使用言語に関係なく、魔法の才が無くとも指先で触れると意味が読み取れる便利な表現文字である。
「で、こっちは別棟なのね。王城のどこかにはピエロの宿舎があるはずだし。ということは、この大きな塔らしい区画が、王さまの寝殿なのかしら?」
やはり、肝心な知りたい処は書かれていないのだ。
ラリゼルは地下への通路を探した。
だが、トイズマスターが話してくれた船着き場は、どこにも見当たらない。
「魔法で封鎖されている通路だろうし、ここへ連れて来られたときに通った地下の通路は潮の匂いがしたっけ。私たちは一歩も外に出ず、地下から匠の館の中へ入ったんだわ」
玄関ホールの突き当たりの扉を開けると、左右に廊下が伸びている。
正面には両翼に伸びる立派な階段があった。吹き抜けの天井は何階まであるのか数えられない。
ラリゼルは正面階段の右横に回った。
階段の下に小さな扉がある。ラリゼルがしゃがんでくぐれる大きさだ。下への階段を、ラリゼルは迷わず降りた。
階段はきっちり十三段で終わった。
薄闇の中、右側の壁から光が漏れている。金色の光の筋が等身大の長方形を描いている。ドアの輪郭線だ。ドアノブの見当を付けて手で探ると、冷たく丸い金属に触れた。
明るい廊下に出た。床には真紅の絨毯が敷き詰められている。壁には等間隔に大きな窓があった。窓ガラスの向こうには遊園地の観覧車がある。
「どうやら地下への移動は失敗ね。ここは二階より下ではなさそう……」
ラリゼルのスカートのポケットがモソモソと動いた。アリアドネ・フローラだ。ピンクの足先をちょいとのぞかせ、ラリゼルの注意を引くように、くいくい、と動かした。
ラリゼルはポケットの上から軽く押さえた。
「ここは迷路じゃないわ。ちょっと待っててね」
そして、廊下の突き当たりの窓辺に寄った。
遊園地が一望できる。匠の館の三階から眺めるより、素晴らしい眺めだ。反対側の突き当たりへも行ってみる。青いステンドグラスの向こうには匠の館も観覧車も見えなかった。
「東西南北の方向も正しいから、まともに見えている景色なんだわ。窓の外に見える風景は歪められていないのね」
廊下のどこかで、ドアが開いて閉まった。
ラリゼルは心臓が飛び出るかと思った。
振り向いたら、すぐ目の前に少女がいた。
黒い髪を腰まで長く垂らし、純白のレースと真珠で飾られたお姫さまのような彼女は、潤んだ黒い瞳で、ラリゼルをじっと見ていた。
「あなた、新入りね。こっちは満室よ。あっちの廊下へ行くといいわ。空き部屋はいつもあるから」
肌は雪のように白く、唇は濃い口紅を塗っているのか血のように赤い。申し分なく美しいが、派手な化粧を落とせばラリゼルとそう変わらない年頃だろう。
ラリゼルの中に警戒と戸惑いが湧き上がった。この少女は王城に住む子に違いない。彼女もまた、夜の遊びの国で過ごし続ける哀れな子どもなのだ。
「ありがとう、そうするわ。わたしはラリゼルよ。あなたは誰?」
すると、白いドレスの少女は細い眉をひそめた。質問をされたのがひどく意外そうだ。
「わたし? そうね……白雪姫とでも呼んでちょうだいな。この格好でいると、そう呼ばれることが多かったの」
白雪姫は、それっきりラリゼルに興味を無くしたのか、くるりと背を向け、長い裾を引きずりながら歩き出した。
なんだかふらついている。
よく見れば、白いドレスは肩を剥き出しにした夜会用だ。しかも左肩が二の腕までずり下がり、スカートの下からレースの下着が大きくはみ出している。
ラリゼルは急いで白雪姫に追いつき、はみ出ているレースの裾を踏まないように気をつけながら、姫に並んで歩いた。
「白雪姫、あなたはどこへ行くの?」
反応があるまで少しの間が空いた。
「朝食にきまってるじゃないの」
白雪姫はゆっくりとラリゼルを振り返り、うっとうしげに髪の一房を肩の後ろへ振り払った。すると微風が起こり、強烈な悪臭が漂ってきた。
ラリゼルは瞬時に息を詰め、白雪姫に気取られないように距離を取った。
まるで汚れた公衆トイレに入った時のような、強烈なアンモニア臭が鼻を突く。
白雪姫の体臭だ。よく見れば、艶やかに見える髪は実は脂で汚れており、ギトギトして白いフケまで浮いている。
いったい何日お風呂に入らないとこうなるのか、不思議なほどの不潔さに、めまいがしそうだ。
魔法に包まれたこの国では、生活のあらゆる面で快適さが保証されているはずだ。遊園地で遊んでいた子ども達は清潔だった。
清潔さは魔法で保たれ、汚れても自動的にきれいにされる。この城だって同じ魔法が働いているはずだ。なのに白雪姫のこの汚れっぷりときたら、異常な上にも異常としか思えなかった。
ラリゼルは吐き気を必死でこらえたが、かつて見たことない不潔さがどうにも我慢できず、また小さく三歩だけ遠ざかった。
「白雪姫、教えて欲しいことがあるの。わたしは地下へ行きたいんだけど……」
辺りを見回して、ラリゼルは愕然と立ち止まった。
階段へのドアが消えている。
廊下の白い壁には継ぎ目一つ見当たらない。
しまった……! ラリゼルは、悔しさに唇を噛んだ。
迷路は秘密の地下道だけではなく、この王城すべてが、魔法の迷宮そのものだったのだ。