第十一話 信幸の掌
「信幸に先陣申し付ける」
「はっ」
「兵は七百もあれば十分であろう。敵に水位の下がった神川を越えさせ、この上田におびき寄せよ」
「御意に」
ついに徳川軍が神川の対岸に出現。これに応じて昌幸以下真田軍は、落成したばかりの上田城に籠城した。
しかしただ籠城したのでは戦の流れは徳川軍が自由に左右出来てしまう。有利に戦を進めるためにも先陣が仕掛ける事で相手の行動を受動に変え、主導権を握る必要があるのだ。
だが小国・真田家はその先陣に徳川勢の十分の一程度の兵しか割くことができない。
必然的に少数精鋭でかき回さなければならないが、圧倒的不利の為一門衆以外ではここぞの働きは期待できない。よって先陣は、手子生城を始め数々の戦で功のある嫡子・信幸が務めることになったのである。
「若様!どうか御無事で」
「武運をお祈りいたします!」
激励の言葉を背に受けて、信幸は愛馬を走らせた。
「才蔵。おるか」
「ここに」
「見えるか。何とも壮観な眺めではないか」
「……」
信幸は兵七百を引き連れて神川へ到着。対岸の徳川勢七千と相対した。
横に縦にズラリ、と並んだその隊列は視界に入りきらない。川を挟んでの両軍の睨み合いは、明らかに真田が圧されていた。
睨みあいの間を利用して、信幸は才蔵に話しかける。
「才蔵。俺は死んだ」
「は?」
「手子生城で一度、死んでいる」
「物の例えでございまするか」
「此度、もう一度死ぬのだ」
「な、何を申されるか!!」
才蔵は信幸の弱気な発言に怒りの声をあげる。
――真田の嫡子に足る胆力を持っていたからこそ、着いて行くと誓ったのだ!だと言うのに、この男はこの土壇場で何という事を言うのだ!
「全てが作戦通りに行かなければ、真田は負ける」
「左様な事はござりませぬ!」
「まぁ聞け」
憤りが顔に現れている才蔵に、信幸はなおも続ける。
「戦は思い通りにゆかぬもの。ならば、それを思い通りに成すにはどうすればよいか、分かるか」
「……」
「心だ」
「は?」
才蔵は会話の流れを見失った。信幸は自暴自棄なのか、何か兵法を説いているのか。
もしかして、自分は今、器量を見定められているのではないか。そんな考えも頭をよぎる。
「心を落ち着ける事。己を見失わない事。命に頓着せず、死んだつもりで臨む事。それが成れば、恐らくは戦を思い通りにできよう」
「は、はぁ」
「さればこそ」
信幸は脇に抱えていた兜を被り、素早く尾を引き締める。
「肝要なのは不退転の決意と、最悪の場合に備える心積もりだ。だから俺は今、死んだ」
「……」
「この先何が起こっても、誰が死のうとも、この俺に一切の動揺は無い」
「若、それは」
「皆の者!いいか、一人残らず聞いておけ!」
信幸は才蔵との会話を打ち切って振り返ると、全軍へ強烈な低音を飛ばす。
十倍の数の徳川軍に縮み上がっている真田兵が顔を上げる。
「貴様らはあの程度の軍勢を見て勝手に萎えてしまっている様だが、とんだ勘違いだ、阿呆共」
「勘違い、でございますか?」
キョトンとして静まり返る真田軍の兵士たち。信幸はニヤリと笑い、軍の掌握を確信した。
「震えておるのはあちらの方よ」
「な、何故!?」
「新しい敵、新しい城。何も知らぬ敵に挑む事がどれだけ恐ろしいか、俺は知っている。あいつらにとって俺達は脅威だ」
「しかし、我々を知っている者も混ざっておりますよ?」
「武田の旧臣もおるにはおる様だが、たかが知れた連中よ。奴らが相手にするのは俺達真田なのだ。真田だぞ?真田幸隆が、真田昌幸が、そしてこの俺が一体どれほどの苦境を脱し、どれほどの奇跡を起こしてきたか知らぬわけではあるまい」
ざわめき始める真田軍を見て、信幸は指揮の上昇を感じ取る。しかしまだ地に足が付いていないと判断すると、さらなる言の葉を投げつける。
「よいか。この戦どのように転ぼうとも、全て俺の掌の上の事だ」
「掌?」
「今までもそうだったように、すべてが俺と父上の策通りに行く。俺の言う通りに動き、そして臆さず戦えば貴様ら真田兵は誰も死なぬ」
「誰も、でございまするか!?」
「そうだ、誰一人死にはしない!俺は手子生城では半分の兵を失ったが、此度は誰も殺さぬ。いいか。臆した者が死ぬ。憶さねば誰も死なない!それほどの策を俺達は立てた!」
「おぉ……おぉぉ」
「行くぞ!」
「オオォォォ!!」
それは、信幸による人心掌握術の詐術であったのか、本心であったのか。
どちらにせよ、正解であった。才蔵は自らを呪う。
――真田信幸という将たる器。二度と見誤りはせぬ!
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一方、対岸の徳川軍。率いるは黒駒合戦で北条の大軍を打ち破った名将、鳥居元忠である。
「対岸の様子はどうか」
「率いるのは真田の嫡男との事」
「獅子身中の虫、昌幸の倅か」
高地から目下を見渡す。視界には大久保忠世、忠教の兄弟が息巻いている姿が確認できた。
真田家が沼田を北条家に引き渡さないせいで、最悪の場合北条との同盟は破棄されてしまうかもしれないのだ。徳川勢はなんとしても降伏させ、領地を奪わなければならない。
だがその行き過ぎた気勢は、敵に利用されることも少なくは無い。相手がわけの分からない真田なら、尚更の注意が必要である。
その第一段階が、目の前の神川かもしれないのだ。元忠は慎重になっていた。
「鳥居殿。渡りましょうぞ」
「お待ちを。対岸の勢力は八百余との報告を受けている」
「それが?」
「この神川、不自然に水嵩が低いと思いませぬか?」
「罠にて?」
「そうとは限らぬが、慎重になるに越したことは」
その時である。
――ピーヒョロー……。カッ、ポン。
高まった気勢をそぐ様に、鼓を叩く間抜けな音が、対岸から徳川勢の耳に届いた。
その音は逆に徳川軍を静寂に包み込んだ。
――ヨォォー、ポン。カッ。ヨオーッ!
「伝令!」
「おい、何事だあれは!」
「真田陣から現れた……その、猿楽師でござりまする」
「何ぃ?」
何と対岸では、婚儀の席などで舞われる「高砂」を舞う猿楽師の姿が確認されたのである。
勿論、信幸の用意した挑発である。
「やぁやぁ徳川の御一行!我こそは真田安房守昌幸が嫡男、真田源三郎信幸!此度は我らの目出度き宴にご出席頂き、恐悦至極にござりまする」
信幸の声は、まるで鉄琴の様によく通る。これもまた将としての才であった。
「何だと!?」
「どうぞゆるりと。其処に留まって、我らの舞い……戦勝祝いをご覧あれ!」
信幸は馬から降りると、自らも猿楽師の隣で『高砂』を舞って見せた。それに呼応して周囲の真田兵達も踊り出す。
これは小勢の真田が勝利を疑っていない、と見て取れる。これには百戦錬磨の徳川兵の誇りを刺激した。
兎に馬鹿にされて怒らない獅子はいない。
「若造が!」
「小勢の分際で、我らを前に斯様な余裕を見せるか!」
「これ以上、奴らに舞わせるは徳川の恥!」
「全軍、突撃じゃ!」
大久保忠世、忠教軍が突出して神川を渡り始める。
この独断専行に、総大将の元忠は焦った。
「待たれよ!待つのだ、見え見えの安い挑発ではないか!」
元忠が号令する前に、全軍の半数以上が神川を渡り始めた。
元忠を除く全軍の構成員が、腸を煮え繰り返していたのだ。
「馬鹿共めが!えぇい、全軍渡河じゃ!」
もはや留まることに意味は無い。残りの徳川軍も神川を渡らざるを得なかった。
そして愛馬が川に足を踏み入れた瞬間、元忠の頭に違和感が募る。
――やはり不自然だ。水位が……低すぎる!
用意された挑発に乗り、徳川軍全軍が渡河開始。稀代の謀将・真田昌幸の思い描いた地獄絵図の第一段階に、まずは徳川軍が片足を踏み入れた。
信幸は猿楽師を避難させると、片方の掌を拳でパチン、と叩き自らに気合いを入れた。戦人の、真田の血が滾り始めていた。




