第二話 師匠が探していたもの
翌朝、相談室の鉢植えはなくなっていた。
窓辺には丸い土の跡だけが残っている。代わりに置かれた小さな札に、園芸部預かり、とあった。昨日のうちに誰かが運んでくれたらしい。俺はその札を見てから、胸に入れてきた手紙を確かめた。
オルダ先生は先に来ていた。机の上には紙が二種類あり、一方には昨日の教室を上から見た図が描かれている。もう一方は白紙だった。先生は包帯を巻いた右手で椅子を示し、左手で湯を注いだ。
「背中はどう?」
「寝返りを打つと、少し。先生の手は」
「細かい作業をしなければ平気。だから、今日はあなたに描いてもらうつもりで待っていたの」
湯呑みが俺の前にも置かれた。昨日は取り上げられたものを、今日は出してもらえた。その違いが妙にありがたかった。
けれど手を伸ばす前に、俺は鞄から冊子と手紙を取り出した。
「図を描く前に、話したいことがあります」
先生は俺の手元を見た。折り目の深い紙を押さえる指に力が入りすぎていることに気づいて、俺はそっと緩めた。
「昨日、どこで魔法を習ったのか、ちゃんと答えませんでした。山で師匠に教わったのは本当です。でも、昔っていうのは、俺が小さかった頃というだけじゃなくて」
ここへ来るまでに、何度も順番を考えた。まず暦の話をすべきか。診療所でもらった書類を出すべきか。それとも、昨夜見つけた手紙から話せばいいのか。
どれも一度に口へ上がってきて、うまくつながらなかった。
「俺が師匠に教わっていたのは、百年前です」
湯気が二人の間を上がっていった。
先生は笑わなかった。ただ、持っていた匙を受け皿へ戻した。
「昨日、書いてくれた《冬籠り》ね」
「はい。師匠が帰るまで、小屋を保って待つつもりでした。いつもは外から解いてもらっていたので。二日か三日で起きるつもりが、先週まで」
「自分で目覚めるための仕組みは、入っていなかった?」
俺は頷いた。
師匠に起こしてもらうことを疑わなかった。作業場を長く空けるときに材料を守る術へ、自分も入った。それがどれほど迂闊だったのか、今ならわかる。けれどあのときの俺にとって、師匠が戸口から入ってくることは、朝に湯を沸かすのと同じくらい確かな出来事だった。
山の木のこと、橋のこと、診療所で古い暦を見せられたことを話した。先生は途中で一度だけ、目覚めてから食事は普通に取れているか、と尋ねた。術の仕組みより先にそれを聞かれて、用意していた説明が少し崩れた。
「食べています。昨日は、夕飯にも間に合いました」
「そう。それなら、続きを」
俺は手紙を差し出した。
先生は許しを求めるように一度こちらを見てから、紙を広げた。最初の数行を読み、七つの結び方という箇所で止まり、最後まで進んだあとにもう一度そこへ戻った。
「見つけたのは昨夜?」
「裁縫箱の蓋に隠してありました。師匠が戻れなかったとき、俺に見つけさせるつもりで残したものです。たぶん、本当はもっと早く見つけるはずだったんだと思います」
紙を傷めないように押さえる先生の指を見ていた。手紙を取り上げられるかもしれない、と今になって思った。百年前の術を扱う人間が、誰かを調べに行って消えた。その証拠なら、俺の鞄に入っていていいものではないのかもしれない。
だが先生は、読み終えた手紙を俺の方へ返した。
「原本は持っていて。調べるために必要になったら、写しを作らせてもらうわ」
「信じるんですか。百年の方も」
「これだけで全部確かめられたとは言えない。でも、あなたが嘘をついているつもりではないことはわかる。入学書類にある診療所へ、私から事情を確認してもいい?」
俺が頷くと、先生は短い覚え書きをした。それから筆を置き、俺へ向き直った。
「話してくれたことを、教室の全員へ説明する必要はないわ。ただ、あなたの体調や、使える術を守るために協力してもらう相手はいる。そのときは、誰に何を伝えるか、先に相談します」
すぐに何かが解決したわけではなかった。それでも、手紙を折り直す指は、ここへ来たときより動かしやすかった。
俺は胸ポケットへそれを戻し、冷めかけた湯を飲んだ。薄い香りのする、知らない葉のお茶だった。
古い支持式を描く作業には、思ったより時間がかかった。
俺が普段見ているものを、そのまま紙へ描いても先生には伝わらなかった。力の流れる向きと、金属に刻まれた形とを一緒に描いてしまうからだ。先生は二枚目の紙を出し、まず目で見た傷だけを、その次に魔力の流れを、と分けるように頼んだ。
「この線は、実際に鉄の上にあった?」
「いえ。ここは、欠けた先につながるはずのところです」
「なら、それは別の色にしましょう。あなたの知っている完成形と、昨日そこに残っていたものを区別したいの」
言われて初めて、自分が見えない部分まで描き足していたと気づいた。いつもなら師匠が図を覗き込み、ここの返しが違う、と指で直して終わる。知らない人へ説明するには、知っているつもりのことを一つずつ外へ出さなければならなかった。
先生は、俺の描いた図を昨日の教室の図と並べた。
「これを設備の担当へ渡すわ。ほかの部屋にも同じ時代の鉄材があるから、調べる場所を絞れる」
「やっぱり、古い式が悪かったんでしょうか」
「古いから壊れたのか、傷つけられたから壊れたのか、使い方が合っていなかったのか。それを調べるところよ。今、答えを一つに決めると、ほかを見落とすでしょう」
俺は、赤で描き足した線を見た。師匠と使っていたものだから大丈夫だと思いたい気持ちも、昨日あれが床を壊したという事実も、同じ紙に載っていた。
最後に先生は、旧記録庫の閲覧申請へ署名をした。調べる項目は旧フラム街道の保存結界、術師ロゼムの消息。その二つだった。
「午後の授業が終わったら、図書館の奥にある閲覧室へ行って。私は設備担当との打ち合わせを済ませてから合流する。まずは目録を見せてもらいなさい」
「今日、行けるんですね」
「ええ。ただし、朝の授業も受けること」
俺は壁の時計を見て、椅子から腰を浮かせた。針は、朝食が終わる時刻へ近づいていた。
先生は紙を揃えながら、少しだけ笑った。
「百年前から来た子を、二日目に遅刻させるわけにはいかないでしょう」
食堂で最後のパンを受け取ったところで、ノエラに見つかった。
彼女はすでに食事を済ませていた。窓際の卓に教科書を並べ、膨らんだページの間へ薄い紙を挟んでいる。昨日濡れた本だった。表紙は乾いていたが、横から見ると、紙の束が波打っていた。
「朝から先生のところ?」
「昨日の床の話。あと、図書館へ行く許可をもらった」
「よかったね。じゃあ、放課後はそっちに行こう。……そのパン、急いで食べると喉に詰まるよ」
俺が一口目を飲み込めずにいるのを見て、彼女は水差しを寄せてくれた。礼を言って水を飲み、向かいへ座る。
本の下には、厚さの違う紙片が積んであった。湿りを吸ったものを抜き、乾いたものへ交換しているらしい。手のひらの傷を庇いながらでも、ページを扱う指は丁寧だった。
「買い直すのか?」
「使えないほどじゃないから、直したい。革なら、急いで乾かすとどうなるかわかるんだけど。本は難しいね」
彼女はページの端を持ち上げ、途中でやめた。二枚がくっついている。
「無理に引くと破れる」
「うん。だから、ここはまだ触ってない。文字は読めるし、しばらく重しをしておけばいいかなって」
俺はパンを置いた。湿りを移して、繊維の絡まりを緩めて、平らに押さえる。頭の中にはすぐに手順が浮かんだ。途中に《ほどき》を使う。使わずに済ませようと考えると、今度は水分の重さを別の布へ渡したくなった。
昨日覚えたばかりの禁止事項に、二度続けてぶつかった。
ノエラは、俺の手が本へ近づいて止まったのを見ていた。
「直せそう?」
「昔のやり方なら。でも、今は勝手にやれない」
「じゃあ、新しいやり方を聞こう。今日の実習、《送風》だって。掲示が変わってた」
彼女が差し出した時間割には、教室の変更と実習内容が書き加えてあった。東棟が使えないため、今日の一年生は西の工作室を使うらしい。
下には、昨日の事故で傷んだ学用品について相談を受ける、とも記されていた。
「学校で直してもらえるなら、先に言った方がいい」
「言うよ。でも、本を乾かすやり方も覚えられたら、次に濡らしたとき役に立つでしょう」
「次も濡らす予定なのか」
「予定じゃない。可能性」
彼女は真面目な顔で訂正し、俺の手元を指した。パン屑が時間割の上に落ちていた。俺は慌てて払った。
窓の外では、荷車に積んだ長い材木が東棟へ運ばれていく。そこを見るノエラの指が止まった。ほんの短い間だったが、俺は気づいた。彼女も俺が気づいたことを知ったらしく、本の表紙をゆっくり閉じた。
「今日は、丈夫な床だといいね」
「うん」
大丈夫だと請け合うことはできなかった。代わりに教科書の半分を受け取り、鞄へ入れた。昨日、彼女が直してくれた底は、今日もきちんと支えてくれた。
西の工作室は、窓が広く、木屑の匂いがした。
壁際の棚には板や布、金属の切れ端が大きさ別に積まれ、天井から下がった管が外へ抜けている。教壇に立っていたのはオルダ先生ではなく、袖を肘までまくった小柄な男の先生だった。
机の上にあるのは、浅い木箱と羽根が一枚ずつ。羽根を箱の端から端へ動かすのが、最初の課題だという。
昨日、別の水槽にいた生徒の一人が、机の下を覗き込んだ。先生はそれを咎めず、今日の道具は床へ魔力を逃がす仕組みではないと説明した。俺も足元を見たかったが、先に言ってもらえて少し楽になった。
《送風》は、思っていたより扱いにくかった。
風を起こすだけなら、結び目の片側を引けばよかった。だが配られた杖には、流せる量の上限がある。最初に強く入れすぎると、先端が小さく鳴って止まる。俺の羽根は一度だけ跳ね、その場で裏返った。
隣のノエラの羽根は、もう箱の半分まで進んでいた。
「そっちは、止まらないんだな」
「止まりそうになる前に、手が押し戻される感じがあるよ。そこまで入れなければいいんじゃない?」
言われたとおり、握りを緩めた。確かに、杖を通って戻ってくる微かな抵抗がある。俺はそれを、流れの邪魔になるものとして無意識に押し切ろうとしていたらしい。
二度目は、羽根が箱の縁まで飛んだ。
三度目にようやく、ゆっくり動いた。
派手な光も音もない。羽根の細い毛が風を受け、木の表面を滑っていくだけだった。それでも、途中で風を細くし、止めたい場所へ止められたときには、杖を握る指の中に新しい感触が残った。
「できた」
「今の、きれいだった」
ノエラが自分の羽根を戻しながら言った。彼女の方は進む速さが一定で、俺より安定している。縫うときの手つきに似ていた。力を入れる場所が決まっていて、余分に押さない。
授業の後半、先生は布に染み込ませた水を乾かして見せた。風だけではなく、布の下に隙間を作ること。乾いた空気を入れ、湿った空気を逃がすこと。一箇所だけを吹き続けないこと。
ノエラが濡れた教科書について尋ねると、先生は放課後まで待たずに、休み時間に見ようと言ってくれた。
俺たちは最後まで残り、窓際の作業台へ本を運んだ。
「これは、図書館の修補室へ持っていくのがいい。もう紙が貼りついているところは、向こうで剥がしてもらいなさい。今やれるのは、それ以上くっつかないようにすることだね」
先生は乾いた薄紙と、本を斜めに支える木の台を出した。風量を確かめてからなら手伝っていいと言われ、俺は杖を構えた。
本のページは羽根より重く、端だけに風を当てると折れそうになった。ノエラが木の台の角度を変える。俺は風を少し広げ、紙の間へ入るように向きを直した。
そうすると、湿っていたページが僅かに持ち上がった。
「そのくらい。私が紙を替えるから、そこで止めて」
彼女が吸い取り紙を抜く間、俺は同じ風を保った。一枚抜くたびに通り方が変わる。杖へ返る抵抗も変わるので、そのたびに指を緩めたり、少しだけ魔力を足したりした。
先生が隣で別の生徒の杖を調べている間も、俺たちはゆっくり作業を続けた。
途中、見開きの図に気づいた。馬の背へ載せる鞍の断面図だった。黒く印刷された線の外側に、細い鉛筆の書き込みがある。荷の重さが寄る場所と、革が擦れる場所。ノエラ自身が描き足したものだった。
「この本、買ったばかりだろ」
「入学が決まった日に買ったから、少し前。家の古い鞍と比べたかったの」
図の横に、父に確認、と小さく書いてあった。その文字は水に流れず残っていた。
学校から新しい本をもらえば済むわけではなかった。俺は風が強くならないよう、もう一度握りを確かめた。
休み時間の終わりに、先生が本を閉じるための板を貸してくれた。まだ完全には乾いていないが、最初より膨らみは小さくなった。貼りついた箇所には目印の紙を挟み、午後に修補室へ預けることにした。
「ありがとう。さっきの風、ちょうどよかった」
「俺一人だと、たぶん端を折ってた」
「私一人だと、紙を替えるたびに杖を置くから、倍かかったね」
ノエラが板を紐で留めた。俺はその結び方を見て、今度鞄を縫うときには、魔法を使わない手つきもちゃんと教えてもらおうと思った。
図書館は、校舎の北側にあった。
午後の授業を終えて外へ出ると、薄い雲の間から日が射していた。ノエラは中央の立派な扉へ向かいかけたが、そこには資料搬入口とあった。閲覧者の入口は、横の小さな階段を上がったところだった。
「大きい方が入口とは限らないんだな」
「今のは、建物の方にも少し責任があると思う」
彼女はそう言って階段を上がり、扉の脇に置かれた案内図を念入りに見た。
中へ入ると、乾いた紙と木の匂いがした。正面の机には新聞が広げられ、窓際では上級生らしい二人が同じ本を挟んで小声で話していた。壁一面の棚には背表紙が並び、見上げた先にも細い通路と棚がある。
山の小屋にも本はあった。師匠は棚が傾くほど詰め込んでいたが、それでもここの一列にも足りない。
俺は入口で足を止めた。百年あれば、これほど増えるのだろうか。知らない人が書いた、知らないことばかりが、頭の上まで積まれていた。
「先に本、預けてくるね。置いていかないでよ」
ノエラに言われて我に返った。案内された修補室の窓口へ一緒に行き、傷んだ本を渡す。中にいた女性は挟まれた紙を見て、乾かし方は悪くない、と言った。二人で顔を見合わせると、ノエラが少し顎を上げた。
それから奥の閲覧室へ向かった。受付の初老の司書は、俺の申請書を読み、丸い眼鏡の位置を直した。
「人探しですか。お名前のほかに、土地、仕事、年代はわかりますか」
答えるために用意してきた紙を出した。ロゼム。繕い屋。旧フラム街道の西側にある山。およその年代は、診療所で確かめた暦に合わせて書いておいた。
司書はその紙を見て、少し考えた。
「姓がないと、人名目録だけでは難しいですね。まず街道の資料から当たりましょう。保存結界については、刊行済みの調査報告があります。原資料は、目録から番号を指定してください」
渡された目録は、俺の教科書より厚かった。
机へ運んで開くと、最初のページから知らない略号が並んでいた。土地ごとの記録、施設ごとの記録、工事の記録。順番に読めばいつか辿り着くと思っていたが、読む順番を決めるための本が必要だった。
ノエラは向かいへ座り、もう一冊の街道図索引を開いた。
「私、地名を探すね。古い字で読めないところは聞くから」
「自分の本は?」
「馬具の本は、借りる番号を控えてある。あなたの方は、今日見つかるとは限らないでしょう」
それはそうだった。俺が礼を言うと、彼女は自分の紙を半分に折り、地名と番号を書く欄を作った。
最初の一時間でわかったのは、街道の名前が途中で変わっていることと、師匠の名前が見つからないことだった。
フラム街道は、今の道の一部分にだけ残る名になっていた。東へ続いていた旧道は使われなくなり、別の谷を通る道が整備されている。古い図と新しい図を並べると、俺が知っている宿場は道から外れていた。
調査報告には、保存された倉庫や、壁だけが残った家の絵があった。結界の中に何があるのか、外からは確かめられないものもあったという。解除の方法が統一されておらず、調査を打ち切った記録も続いていた。
俺は日付と場所を拾いながら、何度も余白へ目を走らせた。そこに師匠の字があるはずもないのに、作業の注意書きを探してしまう。
ノエラが紙を差し出した。
「この、セルトって場所。知ってる?」
「川の曲がるところの荷継ぎ場だ。師匠と荷車の車輪を直しに行った」
「名前、残ってる。今は学校の土地の一部だって」
俺は顔を上げた。
彼女の開いた図には、今の校舎が薄い線で描き重ねられていた。古い荷継ぎ場の敷地が、その北側に重なっている。朝から歩いていた場所のすぐ近くだった。
「建物は違うけど、あの井戸、そうかもしれない」
「わかるの?」
「縁が欠けてるんだ。荷車の軸を落として。師匠は俺が落としたことにしたがってたけど、二人で持ってた」
思い出した途端、井戸の冷たい水の匂いまで戻った。濡れた縄。泥のついた車輪。作業代とは別にもらった、硬い干し肉。
俺は図の向きを変え、敷地の形を確かめた。山へ帰る道は、荷継ぎ場の裏から西へ折れていた。
「ここなら、仕事の記録があるかもしれない」
ノエラの書いた番号を持って受付へ行くと、司書は別の目録を出してくれた。学校ができる前、この場所にあった施設の資料。そこに、修繕費の出納帳という項目があった。
出納帳は、片腕で抱えるほどの大きさだった。
閲覧用の台へ載せてもらい、司書に教わったとおり、背を押し開かずにめくった。紙は黄色く、端が削れたようになっている。名前の並ぶ欄は細かく、代金は今と違う貨幣で書かれていた。
俺が一行ずつ追う間、ノエラは隣で日付を控えた。
車軸の交換、雨樋の修理、倉庫の屋根板。知らない職人の名前が続いた。師匠は請求を忘れることもあった。荷物を持ち帰ってから思い出し、次に行ったらまとめて払ってもらう、と言って、本当に次まで放っておいたこともある。
それでも、帳面の中にはいた。
倉庫北面、扉金具修繕。受取人、ロゼム。
俺は指を止めた。受取の印に添えられた名前の、最後の払いが跳ね上がっていた。見覚えのある字だった。手紙と同じ癖だ。
「……これ」
声が掠れた。
ノエラが身を寄せた。俺は紙へ触れそうになった指を引き、名前の少し手前を示した。
「師匠の字だ」
「見つかった?」
「うん。これ、知ってる。扉が下がって閉まらなくなって、俺も持ち上げた」
日付は、俺が眠るより前だった。
探している失踪後の手掛かりではない。そのことはすぐにわかった。それでも、その一行から目が離せなかった。俺だけが覚えている人だと思い始めていた。百年後の誰も知らないから、俺が言わなければ、どこにもいなくなるような気がしていた。
ここでは、扉を直して代金を受け取っていた。
欄外には、金具一個再使用につき減額、と書いてあった。師匠がまだ使えると言い張った姿が目に浮かんだ。
ノエラは、先を急かさなかった。俺がしばらく黙っていると、代わりに空いた紙へ日付と帳面の番号を書いてくれた。
やがて椅子を引く音がして、オルダ先生が向かいへ座った。両手の包帯は朝と同じだったが、袖に白い粉がついていた。
「進んだ?」
「名前がありました。眠る前のですけど」
先生は手紙を出すよう求めなかった。俺が示した字を確かめ、同じ帳面の後ろを見た。
「続きは何年まであるのかしら」
それから三人で、失踪の後の記録を探した。
同じ名前は、すぐには出てこなかった。次の帳面では紙の大きさも書き手も変わり、修繕の種類ごとに欄が分かれていた。読み方を覚えるだけで、また時間がかかった。
窓から射す日が、机の端へずれていく。ノエラが借りる本の番号を書いた紙を、一度だけ見た。俺はもういいと言いかけたが、彼女はその紙を裏返し、次の帳面の日付を控えた。
俺が眠った翌年には、名前がなかった。
その次の年にも、見つからなかった。
帳面が一冊替わるたびに、知らない季節をまた一つ通り過ぎるようだった。師匠が帰ってこないままの冬を、俺は知らない。山の道に雪が積もっても、屋根から氷が下がっても、薪を割らず、戸口を見ずに寝ていた。
俺はページの端を掴み損ねた。乾いた指が紙の上を滑る。
「休みましょうか」
先生に言われ、首を振りかけた。そのまま続けたら、紙を折ってしまいそうだったので、俺は手を膝へ下ろした。
ノエラが窓の外を見た。
「私の父さん、留め金を一つ探すのに、店の棚を全部出したことがあるの」
突然の話に、俺は彼女を見た。
「母さんが買い直せって言っても、絶対ここにあるって聞かなくて。最後には私も弟も探すことになった。夕飯まで遅くなった」
「見つかった?」
「父さんの前掛けに入ってた」
少し笑ってしまった。ノエラも笑ったが、それから帳面へ目を戻した。
「欲しい場所になくても、なくなったとは限らないってこと。……人と留め金は、違うけど」
「師匠なら、前掛けに入れて忘れる方だと思う」
「じゃあ、帳面に書き忘れたこともあるかもしれないね」
俺は頷いた。出納帳に名前がなければ、その年にはどこにもいなかった。そんなふうに読み始めていた自分に気づいた。
湯を飲むための場所へ一度席を移し、戻ってから、今度は依頼の欄も読むことにした。仕事をした人の名だけでなく、仕事を頼んだ人の名もある。
そこで、見つかった。
俺が眠ってから、九年後の帳面だった。
最初に目へ入ったのは、金額の小ささだった。
紙代。刷り代。荷継ぎ場に来る御者への配布を含む。
修繕費とは違う。その年は帳面の後ろに、立て替えた雑費もまとめて綴じられていた。依頼人の欄に、ロゼムとあった。
「同じ名前……」
俺が呟くと、先生が近くへ顔を寄せた。名前だけでは、同じ人と決まったわけではない。俺にもそれはわかっていた。受取の署名はなく、帳面をつけた人の整った字だった。
何を刷ったのか。次の欄へ目を移す。
尋ね人の刷物、五十枚。見本別添。
見本を挟んだらしい紙の帯が、帳面の綴じ目に残っていた。だが肝心の紙はない。俺は慌てて次のページをめくりかけ、先生の声で止まった。
「落ち着いて。挟んだ資料だけ、別に保管することもあるわ」
司書を呼ぶと、帯に鉛筆で書かれた小さな番号を確かめてくれた。あとから整理した際に、刷物を別の箱へ移したらしい。
「ありますよ。少しお待ちください」
その一言のあとが、長かった。
俺は手を組んだ。九年。師匠が九年後に、ここで誰かを探していたのかもしれない。手紙に書いていた相手だろうか。七つの結び方を求めた誰か。東へ探しに行くなと書き残した、その理由が載っているのだろうか。
受付の奥で扉が閉まり、また開いた。司書が薄い箱を持って戻ってくる。
出されたのは、両手ほどの大きさの紙だった。
上の端には丸い穴が二つあり、下の隅が斜めに欠けていた。何度も折った跡が白くなっている。印刷された文字の間には、手描きの顔があった。
俺は、その顔を見た。
右の眉が少し短い。髪が耳の上で跳ね、口はむっとしたように結ばれている。上手な絵ではなかった。顎が細すぎるし、目の間も少し離れすぎていた。
けれど、額にかかった髪の分け方を、俺は知っていた。
絵の下に名前があった。
ルネス・ラウク。
失踪時、十七歳。
息を吸おうとして、うまく吸えなかった。
俺の隣で、ノエラが小さく身じろぎした。先生は何も言わず、紙の下にある日付を見ていた。
九年後だった。
師匠は九年後まで生きていた。そして、そのとき探していたのは俺だった。
文字の端が滲んで見えた。水に濡れた紙なのかと思ったが、違った。俺は目を擦りかけ、古い紙のすぐそばに手を置いていたことに気づいて引っ込めた。
「ルネス」
ノエラの声がした。
「これ、あなたなの?」
答えなければならなかった。彼女には何も話していなかった。昔の人を探しているとだけ言って、一日付き合わせていた。
俺は頷いた。言葉にするまでに、少し間が要った。
「俺だ。俺、山で眠ってたんだ。先週まで。……百年くらい」
彼女は紙と俺の顔を見比べた。冗談を待つような表情はなかった。俺が冗談を言える顔ではないことだけは、わかったのだと思う。
「昨日の魔法と、関係があるの?」
「七つあるうちの、一つ。待ってる間に使った。帰ってきた師匠に、起こしてもらうつもりで」
そこまで言って、声が止まった。
待っていた。ずっと、師匠が戻らなかったと思っていた。東へ出かけたきり、どこかで死んでしまったのかもしれないと、眠っていなかった方の年月を、勝手に終わらせていた。
師匠は俺の顔を描いた。
紙代を払い、五十枚刷らせ、荷車を引いて各地を回る人たちへ渡した。
この顔を見なかったかと、尋ねた。
俺はそんなことも知らず、同じ小屋で、二日か三日のつもりで寝ていた。
机の下で、膝に置いた手が震えた。ノエラが椅子を少し寄せた。昨日の医務室と同じくらいの距離だったが、今日は彼女の肩の方がしっかりしていた。
「続き、先生に読んでもらおう」
そう言われるまで、俺は絵と名前しか見ていなかったことに気づかなかった。
オルダ先生は頷き、指を触れずに行を追った。
「背丈、髪の色、左の親指に古い針傷。革の鞄を持つ。……術の名前は、書いていないわね」
その次の行で、先生の声が遅くなった。
「発見した場合、無理に起こそうとせず、荷継ぎ場へ知らせること」
俺は顔を上げた。
師匠は、俺が眠っていることを知っていた。
山小屋で待っていることも、知っていたはずだった。それなのに、なぜ見つけられなかったのか。あの小屋へ帰ればよかった。屋根も壁も傷んでいたが、俺はそこにいた。先週、折れた柱のそばから外へ出た。どこへも行っていない。
「下にも、何かある」
ノエラが紙の端を見た。
印刷の下に、別のインクで小さく書き加えてあった。司書が台の角度を変えてくれる。窓の光が当たると、薄い字が読めた。
小屋の所在を示す地図は、荷継ぎ場に預けてある。
続く二行は、俺にも読めた。
道が同じでも、同じ場所へ着くとは限らない。
谷を渡った先で鐘が聞こえたら、その日は引き返すこと。
俺は文字を追ったまま、動けなかった。
山の小屋へ帰る道に、鐘はなかった。
寺も、見張り台も、鐘を鳴らす家もない。雨が近ければ沢の音が大きくなり、風が吹けば木が鳴る。それだけの道だった。
なのに師匠は、その道を通る誰かへ、引き返せと書いていた。
「先生。地図を、探したいです」
やっと口から出た声は、自分のものと思えないほど低かった。
オルダ先生はすぐに頷いた。ただ、今すぐ山へ行こうとは言わなかった。司書へ顔を向け、同じ時期の預かり資料が目録にあるか尋ねた。
ノエラは、自分の紙に地図、と書いた。その下に、荷継ぎ場、九年後、と続ける。俺が見ていることに気づくと、筆を止めた。
「ごめん。まだ、全部わかったわけじゃない。でも、次に探すものは書いておけるから」
俺は何度か頷いた。
向こうの閲覧机で、本を閉じる音がした。夕方の光が棚の上へ伸びていた。図書館はさっきと変わらず静かで、俺の前にだけ、知らなかった九年間が開いていた。
師匠に尋ねたいことが、また増えた。
どこにいたのか。どうして帰れなかったのか。山道に何が起きていたのか。
けれど、その前に言いたいことが一つあった。
俺は司書に許可をもらい、別の紙へ刷物の番号を写した。震えはまだ少し残っていたが、名前の文字だけは間違えずに書けた。
ルネス・ラウク。
ここにいる。ちゃんと起きた。
百年遅れになっても、それを知らせる先を、俺は見つけたかった。




