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百年後の魔法学校に入学したら、俺の得意魔法が全部禁術になっていた  作者: てへろっぱ


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第一話 得意魔法を申告したら、全部禁術だった

不定期投稿予定です。


 入学案内の最後には、得意な魔法を三つ記入する欄があった。

 俺はそこへ《継ぎ火》《渡り縫い》《ほどき》と書いた。字が百年前の書体に寄らないよう、見本の丸い文字をまねて、いつもより時間をかけた。ようやく書き終えたところで、向かいに座っていた事務員が椅子を鳴らして立ち上がった。

「こちらには、実際に使える術をお書きください」

「使えるものを書きました。三つとも、よく使います」

「そのまま、お待ちいただけますか。何にも触らずに」

 念のためか、机の端にあった湯呑みまで持っていかれた。

 受験には合格している。身元についても、山の診療所の先生が保証書を書いてくれた。百年前の硬貨をうっかり受験料に出した件は、古銭商に買い取ってもらって解決した。もう、入学を妨げるものはないはずだった。

 俺は膝に載せた鞄を引き寄せた。中には昨日買った教科書と、一度も袖を通していない制服、それに百年前から持っている小さな裁縫箱が入っている。

 窓の向こうでは、新入生たちが寮へ向かっていた。俺もあちらへ行くつもりだった。まさか入学初日から、自分の得意なことを全部取り上げられるとは、このときはまだ知らなかった。


 百年という時間を最初に実感したのは、国の名前でも、王様の肖像でもない。山を下りた先の橋だった。

 雨のたびに流された板橋は白い石橋になり、縄を掛けて荷物を渡していた岸辺の柳はもうなかった。その代わり、並木の下に菓子屋があり、店先で子供が焼きたての輪菓子を落として泣いていた。俺の知る村の誰にも似ていない顔だった。

 山の作業小屋で眠りについたとき、俺は十七歳だった。起きて鏡を見ても十七歳で、左の親指に作った針傷まで残っていたから、せいぜい二日か三日しか経っていないと思った。師匠が戻るまで小屋を保つために張った《冬籠り》は、入り口の柱が折れてようやく解けたらしい。

 どれほど雪が降ったのかと外へ出て、屋根より高く育った木に囲まれているのを見た。それでも最初は、樹木の成長を早める誰かの悪戯を疑った。百年間、師匠が帰らなかったなどと考えるより、ずっと納得がいったのだ。

 山を下りた俺を診てくれた先生は、古い街道の記録と今の暦を並べて、経った年月を教えてくれた。俺がようやくそれを信じたとき、先生は手元の記録を伏せた。

「事情を全部話す相手は、選びなさい。嘘をつけという意味じゃない。君の体を調べたい人間ばかりが、君を助けてくれるとは限らないからね」

 それが七日前だった。その先生に勧められて、リュスト魔法学校の入学試験を受けた。魔法を仕事にするには免許が要るし、ここなら寮で暮らしながら今の時代を学べる。試験は指定術式に魔力を通すもので、勝手に直したくなるのを我慢しながら、どうにか合格した。年齢相当の一年生に入れてもらえるという。

 さらに学校には、百年前の災害や人の消息を調べられる旧記録庫がある。師匠は、東の町へ出かけたきり戻らなかった。

 手紙の一枚でも残っていないか。それを探せる場所へ、ようやく辿り着いたところだった。


「ルネス・ラウク君ね。私は実習科のオルダ・セイン。少し話を聞かせてもらえる?」

 戻ってきた事務員の隣に、背の高い女の先生がいた。灰色の上着に細身の杖。右の袖口はほかの部分より色が薄く、何度も洗っているのがわかる。俺はつい、その袖を留めている金具に目を向けた。実習用の防護具らしく、細かな術式が幾重にも彫ってある。

「怒るために来たわけではないの。ただ、書いてあるものをここで試すのはやめてちょうだい。相談室へ行きましょう」

 相談室は狭く、窓際に枯れかけた鉢植えがあった。水をやり忘れたのではない。根を包む保温の術式が強すぎて、土の中だけが夏になっている。指を伸ばしかけると、先生がすぐに言った。

「それも今は触らないで」

 根が傷むと伝えたが、先生は俺を椅子へ促した。鉢植えへ手を出せば話が長くなりそうで、大人しく座ることにした。

「園芸部には伝えてあるから。あとで私も確認するわ」

 先生は机に厚い本を置いた。赤い背表紙に『禁止術式分類便覧』と金文字で記されている。見たことのない本だった。

 俺の用紙を隣に置き、しおりの挟まった箇所を開く。左のページに描かれていたのは、火を別の火へつなぐ、馴染みのある結び目だった。

「《継ぎ火》。今は持続燃焼伝播術に分類される。ほかの火種へ燃焼の条件を渡す術ね。君の言うものも、これ?」

「たぶん。濡れた薪に火を移すとき、便利です。最初の一本だけ乾いていればいいから」

 先生の指が、火をつなぐ線を辿った。図の端にある小さな切れ目を示しながら、終了条件を尋ねてくる。

「移した先で三つ数えて、結び目を抜きます。残しておくと、薪を足すたびに向こうの火へ引っ張られるので」

 先生が次に開いたページには《渡り縫い》の図があり、その隣には赤字で、第一類禁術と印刷されていた。

「これも?」

 俺が尋ねると、先生は頷いた。続いて開いたページには《ほどき》の分解手順があり、そこにも同じ赤字が載っていた。

「待ってください。《ほどき》は、絡まった魔力を外すだけです。水桶の保冷が変になったときとか」

「他人の防護術も、同じように外せるでしょう」

 俺は口ごもった。できるかと問われれば、確かにできる。けれど人を守っている魔法へ手を出すなんて考えたことがなかった。先生は俺の表情を見て、説明を続けた。

「王都の給水壁にも、病院の隔離室にも、魔法が使われている。だから習得と使用の両方に厳しい制限がある。何をほどいてよくて、何をほどいてはいけないか、術そのものは判断してくれないわ」

 先生に求められ、ほかの得意魔法も紙へ書いた。《重し替え》《帰り糸》《眠り結び》。最後に少し迷ってから、《冬籠り》を加えた。

 七つ並んだ名前を見て、先生は鼻梁を押さえた。しばらく本を調べていたが、最後の一つだけは別の薄い冊子まで持ち出してきた。

「全部ですか」

「ええ。あなたの説明どおりなら、七つとも禁止対象。似た名前の別術だったら、どんなによかったかと思っているところ」

 俺は椅子の背にもたれた。百年寝ているあいだに、俺はずいぶん不便な人間になっていたらしい。

「でも、火をつけたり、水を冷やしたりは必要でしょう」

「もちろん。そのための認可術式を学校で教えるの。《灯火》なら火種一つで独立しているから、別の場所へ事故が広がらない。《冷却》にも温度の下限がある。できることを限定して、使う人を守っているのよ」

 そう言って先生は、指ほどの短い杖に触れた。先端に橙色の明かりが灯る。魔力がきれいな円を描いて閉じており、外へ渡る糸が一本もなかった。扱える熱量は小さいが、確かにこれなら、途中で手を離しても暴れない。

「これ、どこまで小さくできます?」

「今、興味を持つのはそこなのね」

「細工の接着に使えそうなので。師匠はいつも指を焦がしていました」

 先生の口元が初めて緩んだ。それからすぐ、火を消して用紙を引き寄せた。

「教えた人の名前を聞いてもいい?」

 俺は鞄の持ち手を握った。診療所の先生の言葉を思い出したからだけではない。ここでその名を口にすると、もう一つ、百年が過ぎた証拠を突きつけられる気がした。

「ロゼム。姓は知りません。山で、繕い屋をしていました」

 オルダ先生は名前を記録したが、特に反応はしなかった。胸の奥が軽くなったような、逆に重くなったような気がした。

「事情があるなら、今日全部話す必要はないわ。ただ、入学は取り消さない。知らずに習ったことと、知っていて人を傷つけることは別です。学校には、そういう生徒を教える役目もある」

「俺、授業を受けていいんですか」

「ええ。担当の私がいちばん驚いているけれど、試験の記録では、あなたは認可術式を規定どおり使えている。まず、そちらを身につけてもらいます」

 差し出されたのは入学証と、赤い帯の入った小さな紙だった。後者には、固有術式の実演は担当教員の許可を得ること、と書かれている。俺だけが持つ追加の注意書きらしい。

 先生は、それを俺の入学案内へ挟んだ。

「午後の導入実習は東棟。杖は貸し出すから、持っていなくても平気。何かおかしいと思ったら、手を出す前に私を呼ぶこと。約束できる?」

 俺は頷いた。ようやくもらえた居場所を、初日に失うつもりはなかった。


 寮へ向かう廊下で、鞄の底が抜けた。

 正確には、古い革と新しい縫い糸の境目が裂けた。眠っているあいだ、小屋の中のものまで全部守れていたわけではない。革の表面だけを見て直したのが悪かった。教科書が床を滑り、裁縫箱の蓋が開いて、糸巻きが階段の方へ転がっていく。

 反射的に《帰り糸》をかけようとして、指を止めた。あれも禁止だった。

 俺が追いかけるより早く、階段から上がってきた少女が靴先で糸巻きを受け止めた。栗色の髪をうなじで一つにまとめ、片腕には俺と同じ教科書を抱えている。彼女はしゃがんでそれを拾い、転がり出ていた針まで目ざとく見つけた。

「針、三本。ほかにも入っていた?」

「三本で全部。ありがとう、助かった」

「よかった。ここの階段、窓からの光で銀色が見えなくなるの。踏んだら最悪だから」

 少女は糸巻きを裁縫箱へ戻しながら、俺の鞄の破れ目を見た。何か言いかけ、やめた顔だった。

「古いだろ」

「古いというか……そこまで使ってもらえたら、作った人は嬉しいだろうなと思って」

 鞄は師匠のものだった。俺が一人で町へ行くようになった年、肩紐を短くして譲ってくれた。そう答えようとして、喉につかえた。

「縫うなら、こっち。穴のそばはもう駄目。少し底が浅くなるけど、丈夫なところを折り返せば使えると思う」

「詳しいんだな」

「家が馬具屋だから。私はノエラ・ヴェルク。あなたも新入生? 制服、まだ鞄に入ってる」

 彼女は鞄の縁を裏返し、まだ丈夫な革の部分を指で探した。

 俺が名乗ると、ノエラは貸して、と鞄へ手を伸ばした。自分で直せると言ったが、彼女はもう針へ糸を通していた。

「床で縫うのはやめよう。あそこの窓辺、座れるから。あなたは教科書を持って。二人分ね」

 窓辺に腰掛けて待っていると、針は一定の間隔で革を貫いていった。ノエラは糸を結び終えると、鞄を両手で軽く引いて強度を確かめた。縫い目は、俺が昨日作ったものよりずっときれいだった。

「代わりに、東棟まで一緒に行ってくれない? 朝から二回、逆の棟へ入ってるの。道を覚えるのは得意?」

「一度通れば、だいたい。今の校舎は初めてだけど」

「前の校舎なら知ってる、みたいな言い方」

 しまったと思ったが、ノエラは笑って教科書を受け取っただけだった。

 制服へ着替えて食堂で昼食を取ると、朝から強張っていた腹がようやく空腹を思い出した。麦のパンは柔らかく、煮込みには見たことのない黄色い豆が入っていた。ノエラは豆をよけずに食べる俺を見て、好きなの、と聞いた。知らない味だと答えると、彼女は自分の皿から一匙くれた。

 東棟までの道で、ノエラは卒業後の話をした。馬具へ掛ける荷重分散の術を習いたいらしい。父親は今も外から術師を呼んでいて、忙しい季節には何日も順番を待たされるという。

「革の傷み方はわかるのに、その上の魔法は触れないの。両方できたら、帰ってきた馬をその日のうちに休ませられるでしょう。免許を取る理由なんて、それで十分だと思うんだけど」

 俺がいい目標だと言うと、ノエラは照れたように教科書を抱え直し、あなたは、と聞いた。

「会いたい人を探してる。この学校なら、昔の記録を調べられるって聞いたから」

「じゃあ図書館も覚えよう。私も術式の本を借りたいし」

 彼女は、誰を、いつから、と続けなかった。そのことがありがたくて、俺は少し前を歩き、東棟の案内板を探した。


 導入実習の教室には、小さな水槽が四台並んでいた。

 真鍮の輪に囲まれた透明な槽の中で、水がゆっくり循環している。壁の説明図によれば、今日習うのは《浮托》という認可術式だった。水槽に沈んだ陶製の球を浮かせて、縁にある受け皿へ載せる。球は片手に収まるほどで、中に水を入れて重さを変えられるようになっていた。

 俺は配られた短い杖を手に取った。先端は丸く、持ち手には親指を置く窪みがある。小さい子供でも持ちやすそうだった。

「教材を持ち上げるだけなら、腕でやった方が早いと思うでしょう。でも手を伸ばせない場所や、直接触れてはいけないものを扱うときに役立ちます」

 教壇にはオルダ先生が立っていた。午前中と同じ上着だが、袖の金具を肘の近くまで締め直している。

「今日は高く上げる競争ではありません。指定した高さで止めて、同じ速さで下ろすこと。隣の人が失敗したときも、勝手に魔力を重ねない。助けを呼んで、距離を取る。最初に覚えてほしいのはそこです」

 俺を見て言ったわけではない。教室全体へ向けた注意だった。それでも赤い帯の紙が胸ポケットで重くなった気がした。

 ノエラと同じ水槽の班になった。彼女は説明を読み、輪に刻まれた線と照らし合わせた。

「馬の背中にかかる重さも、これで逃がせるのかな」

「支える先が水槽の台座になってるから、馬具なら別の支えが要ると思う」

 俺が指で示すと、彼女はすぐに該当する線を見つけた。知らない術式でも、荷重の逃げ道を探す目は確かだった。

 ノエラは二度やり直した末、球を皿へきちんと置いた。俺の番では、まず術式をそのまま使うことを意識した。結び目を増やさない。近道を作らない。自分の知らない安全装置が入っているのだから、そこは信じてみる。

 球は水面を離れ、指二本ほどの高さで止まった。移動させようとすると少し傾いたが、杖の角度を直して皿へ運べた。

「うまいじゃない」

 ノエラが小さな声で言った。俺は思わず笑った。得意魔法は全部禁術でも、これから習うものまで駄目なわけではない。たった一つ球を運んだだけなのに、自分で思っていた以上に嬉しかった。

 異変に気づいたのは、二巡目に入ったときだった。

 隣の水槽から、水の音がしなくなった。

 循環の細い流れが途切れ、真鍮の輪が低く鳴っていた。水槽の前に立つ生徒は、杖を抜こうとしている。けれど接続部の金具が閉じたままで、抜けない。

「先生。二番の水槽、支えが戻っていません」

 俺は声を上げ、同じ班の三人を水槽から離した。オルダ先生はすぐに手を挙げて、全員へ壁際に下がるよう指示した。問題の水槽へ近づき、手首の金具を輪に当てる。

「杖から手を離して。そう、そのままでいい。あなたのせいではありません」

 接続していた生徒を下がらせ、先生は水槽の下部へしゃがんだ。通常の停止操作では戻らないと見たらしい。台座の蓋を開き、内部の赤いレバーを倒した。

 水槽の光が消えた。その直後、床下から重い音が返ってきた。

 先生が顔を上げる。俺も床を見た。水槽を支えていた術式の糸が、切れずに下へ引かれている。力が消えたのではない。逃がしたはずの重さが、行き場を変えていた。

「全員、廊下へ。鞄は置いていって」

 先生の声が鋭くなった。扉に近い生徒から動き始める。俺もノエラの後ろに続いたが、足元を走った亀裂に立ち止まった。

 石張りの床が、二番の水槽を中心に沈んだ。

 割れ目は円を描くように広がり、先に逃げていた生徒たちとの間を切った。俺たちの側にはノエラと、小柄な生徒が残っていた。ノエラはその子の腕を掴み、扉へ押し出しかけている。次の瞬間、床が一段下がって、二人の姿が傾いた。

 俺はノエラの肘を引いた。小柄な生徒は扉側へ転がり、廊下の誰かに抱き止められた。しかし俺たちの足元では、もう石の継ぎ目が開いていた。

 先生の杖が白く光った。足元から冷たい感触がせり上がり、落ちかけた床ごと俺たちを支える。靴の裏に硬い水面ができたようだった。

「動かないで! 今、渡すから!」

 先生は扉側の壁に背を預け、両手で杖を握っていた。教室の半分ほどを覆う支えの膜が、沈んだ床を受け止めている。午前中に見た小さな《灯火》とは比べものにならない精密さだった。

 けれど、床下から引かれる力は止まらなかった。膜の表面に細かな波が走り、オルダ先生の靴が石を擦った。先生自身を固定する別の術式まで、壁に広がっていく。

 俺は割れた床の向こうを覗いた。下には旧い煉瓦の梁と、黒い鉄の枠があった。そこへ新しい魔力の管が通されている。古い支持術と、新しい教材の荷重逃がしが、同じ金属を使っていたのだ。

 鉄の枠に刻まれた結び目を、俺は知っていた。

 百年前、雪で潰れかけた納屋の屋根を支えるために、師匠と何度も描いた形だ。ただし、目の前のものは端が欠けていた。別の工事で削られたのか、錆に食われたのかまではわからない。戻り道のない結び目が、先生の支えまで次々に引き込んでいる。

「先生、床の下に古い支持式があります。教材の魔力がそっちへ流れてる!」

「供給は切ったわ!」

「切る前に引き受けた重さが残ってます。水槽だけじゃない。梁の重さまで拾ってる。支えを足すほど、そっちも持っていかれます!」

 先生は床の割れ目へ視線を走らせた。額に汗が浮かんでいる。俺たちの下の膜はまだ保たれていたが、長く続けられる状態ではない。

 ノエラが俺の腕を握った。強い指だった。手には針仕事の細かな傷があり、俺は昼前、鞄を直してもらったことを思い出した。あの縫い目はちゃんと荷物を支えていた。俺たちの足元を支えるものにも、同じ確かさが必要だった。

 崩れた床を元へ戻すのは無理だ。《重し替え》で全部を外へ逃がせば、受け取った場所が潰れる。《ほどき》を広く使えば、先生の膜まで消えてしまう。

 使い慣れた魔法が頭に浮かぶたびに、その魔法で起こりうる失敗も一緒に見えた。先生が禁術を教える前から、それだけは師匠に叩き込まれていた。

 糸を渡すなら、向こう側を確かめろ。目に見えない場所へ針を刺すな。

 俺は扉の左を見た。そこだけ床下の構造が違う。壁を支える太い石の基礎が、そのまま地面へ下りている。床の支持式とはつながっていない。

「先生。《渡り縫い》なら、俺たちを扉の左へ移せます。見えてるところへ、二人だけ。許可をください」

 言いながら、俺は靴の位置を少しだけ変えた。ノエラとの間を詰め、二人の足元を一つの範囲に収める。膜が揺れ、彼女が息を呑んだ。

「着地点に結び目を作れるの?」

「右の手袋を投げます。それを目印にする」

「人を連れて使った経験は」

「あります。怪我をした人も。俺が手を離さなければ、一緒に渡れます」

 オルダ先生は俺を見た。顔に浮かんだのは、許すか許さないかという迷いよりも、俺の答えを信じてよいか測る厳しさだった。膜を保ちながら、先生は空いた指で扉の左を指した。

「そこは避けて。壁の亀裂の真下。半歩、手前に置きなさい。私が着地点を守る。いい、私の合図に合わせるのよ」

 俺は頷き、右の手袋を抜いた。革の縁へ細い魔力を通し、指定された場所へ投げる。手袋は裏返って落ちたが、結び目はほどけなかった。

 ノエラが俺の手元を見ていた。何をするのか理解しているとは思えなかった。それでも、俺が差し出した手を掴んだ。

「目を閉じた方がいい?」

「開けてて。向こうへ渡ったら、膝を少し曲げて着地してほしい」

「荷車から下りるときみたいにね。わかった。……あなたも、ちゃんと来てよ」

 俺は握り返した。彼女の手が震えている。自分の手も同じくらい震えていることに、そのとき初めて気づいた。

 師匠となら、言葉を交わさなくてもできた。右へ渡せば左を受け、引きすぎれば向こうが緩めてくれた。今ここには、その人はいない。俺の手順を知らない先生と、俺を信じて手を預けてくれた同級生がいる。

 だから俺は、自分の足元と手袋の結び目を、いつもより丁寧に確かめた。

「受けました。いつでもいけます」

「三つで。ひとつ、ふたつ――三つ!」

 俺は糸を引いた。

 教室が横へ折れたように見えた。離れていた二つの場所が重なり、床下の冷たい匂いが鼻を刺す。ノエラの肩を抱き込み、手袋の向こうへ体重を移す。靴底に固い石が触れたところで、残った糸を抜いた。

 膝が落ち、ノエラが俺の上へ倒れ込んだ。背中を壁に打ちつけたが、痛みがあるということは着地している。彼女の手も、まだ俺の手にあった。

 オルダ先生が膜を解いた。さっきまで俺たちの立っていた床が崩れ、四台の水槽が濁った音とともに穴へ消えた。舞い上がった埃を、先生の張った薄い壁が扉の手前で受け止める。

 俺は咳き込みながら、ノエラの顔を見た。頬が白くなっているが、目は開いている。彼女はしばらく俺を見返し、それから口を動かした。

「鞄、置いてきちゃった」

 その言葉を聞いた途端、喉の奥に詰まっていた息が抜けた。笑ったつもりが、変な声になった。俺の鞄も穴の下だった。せっかく直してくれたばかりなのに。

「あとで拾おう。今度は俺が縫うから」

「縫うの、下手でしょう」

「じゃあ、教えて」

 ノエラは俺の肩を一度だけ叩き、顔を伏せた。制服越しに伝わる震えが、なかなか止まらなかった。


 医務室で診察を受けたときには、午後の授業が終わる鐘が鳴っていた。

 俺の背中は打ち身、ノエラの手のひらには浅い擦り傷。ほかにも転んだ生徒や埃を吸った生徒はいたが、重傷者はいなかった。オルダ先生は最後に医務室へ入り、両手の手当てを受けた。魔力を流し続けた指先が赤く腫れていた。

 俺はその手を見ないようにしたが、先生には気づかれた。

「私の仕事よ。あなたが気に病むところではないわ」

「でも、俺、もっと早く気づけたかもしれません。最初に水槽の式を見たとき、下まで確かめていれば」

「床の下の不備を新入生が見抜くのを当てにしていたら、学校は開けないでしょう。原因はこれから調べます。あなたにも話を聞くけれど、責任を押しつけるためではない。それは覚えておいて」

 先生は椅子を引き寄せ、俺たちと同じ高さに座った。指を曲げると痛むらしく、膝の上には開いたまま置いている。

「着地点の結び目は、もう消した?」

「渡り終わったときに。手袋にも残していません」

「ええ。現場でも確認できた。糸を残さないところまで、きちんと教わったのね」

 俺は頷いた。師匠に教わったことを、この時代の先生から初めて認めてもらえた気がした。さっき《浮托》を成功させたときとは違う嬉しさがあり、うまく返事ができなかった。

 隣ではノエラが、包帯の端を指でなぞっていた。

「先生。ルネスが使ったのって、転移の魔法ですか」

「分類としては、そう。ただし学校で習う輸送術とは仕組みが違うの。今日の状況では私が緊急使用を許可した。彼が罰を受けることはないから、そこは心配しなくていい」

 ノエラの肩から力が抜けた。自分の手よりも、そちらを気にしていたらしい。

「俺も、先生が支えてくれなかったら、何もできませんでした」

 口にしてから、ようやく足元が崩れた瞬間を思い出した。あの膜がなければ、糸を結ぶ時間もなかった。昔の魔法が使えるからといって、何でも一人でできるわけではない。当たり前のことなのに、体の奥に残った恐怖と一緒に、今になって実感が湧いてきた。

 ノエラが椅子の上で少し体を寄せた。肩が触れるくらいの距離だった。俺たちはしばらく何も言わず、廊下から聞こえる足音を聞いていた。

 やがて先生は、今日の実習記録を作り直すからと言って立ち上がった。明日の朝、もう一度相談室へ来るように頼まれた。俺の知っている古い支持式について、図を描いてほしいという。

「それと、旧記録庫を使いたいと申請していたわね。閲覧には担当教員の署名が要る。そちらも、明日話しましょう」

「調べられるんですか」

「公開できる記録に限るけれど。今日の働きの褒美ではなく、入学した生徒の権利としてね」

 先生が去ったあとも、俺はその言葉を何度か頭の中で繰り返した。今朝、事務員に湯呑みを取り上げられたときには、もう帰されるのかと思った。けれど明日も、ここへ来ていいらしい。


 日が落ちる頃、回収された荷物が寮へ届いた。

 ノエラの教科書は濡れたが、俺のものは鞄が守ってくれた。下敷きになった椅子の脚が革に深い跡を残している。新しい縫い目は切れていなかった。

 部屋は二人用だったが、同室者はまだ到着していない。机が二つ、寝台が二つ。窓の下には靴を干す細い棚があり、壁の灯りは指で押すとつく仕組みになっていた。

 俺は鞄から裁縫箱を出した。木の蓋に触れ、いつもの癖で保護の結び目を足そうとして、やめる。代わりに柔らかい布で埃を拭いた。それだけでも木目はきれいになった。

 机には、オルダ先生が貸してくれた小冊子が置いてあった。禁止術式のうち、俺が覚えている七つの該当箇所だけを綴じたものだ。今夜は実演せずに読んでおくように、と念を押された。俺は椅子に座り、《渡り縫い》のページを開いた。

 離れた場所をつなぐ術は、終点を失うと閉じる方向を選べなくなる。片側だけを破壊すると、残った側が近くの魔力を新しい終点にしようとする。俺には当然の注意だったが、本には事故の年と場所まで載っていた。

 師匠が糸を残すなと言った理由を、俺は理解しているつもりだった。それでも、三十九人が帰れなくなったという一行の前で、しばらく手が止まった。

 禁術になったのには理由がある。その理由を知らずに、便利なのにと不満を言っていた。俺はもう一度最初へ戻り、使用後の処理に関する記述を読み直した。覚えているやり方と同じ部分にも、違う部分にも、紙片を挟んでいった。

 最後の《冬籠り》は二ページしかなかった。対象の周囲を保存状態に置く術。外部からの適切な解除がなければ、想定した期間を大幅に超過する場合がある。知っている、と言いかけて、口を閉じた。

 ページの下には、百年前の調査に関する注があった。

 旧フラム街道周辺で類似の結界が複数確認されたが、解除法を記した原本は所在不明。リュスト魔法学校設立時に、調査資料の一部を収蔵――。

 俺はその箇所を指で押さえた。フラム街道は、小屋から東の町へ向かう道だ。眠りにつく前、師匠が歩いていった道でもある。

 ここへ来れば、何か見つかるかもしれない。それは診療所を出たときから抱いていた期待だった。けれど文字になった地名を目にすると、胸の鼓動が少し速くなった。記録庫へ行く理由が、一つの行に変わって目の前にあった。

 夕食を知らせる鐘が鳴った。俺は慌てて冊子を閉じ、鞄の底に残った紙類を片づけた。最後に引っかかっていた古い封筒を抜くと、裁縫箱の蓋が滑り落ちて、机の角へ当たった。

 小さな音がした。蓋の裏に貼られた薄板が、一方だけ浮いている。

 師匠が作った箱だ。俺はそんな仕掛けを教わっていなかった。爪の先で慎重に板を持ち上げると、内側から折り畳んだ紙が出てきた。淡い油染みのついた、いつも作業場に置いてあった紙だった。

 外側には俺の名前がある。角ばった、不格好な文字だった。今朝、入学案内に書かないよう気をつけたのと、同じ古い書体。

 食堂へ向かう足音が廊下を通り過ぎた。俺は扉へ返事をすることも、椅子へ座り直すこともできず、その紙を開いた。

『ルネス。予定どおり三日で戻れたなら、この手紙は笑い話になる。箱を取り上げて、お前に気づかれないうちに抜いておくつもりだ』

 師匠の声で読めた。気づかれずに何かをするのが苦手な人だったから、抜くところを見られて言い訳する顔まで浮かんだ。

 だが次の行へ進むと、指先が冷たくなった。

『戻れなかったら、東へ俺を探しに来るな。お前に覚えさせた七つの結び方を、全部使える人間が要るらしい。俺は、それを誰が、何のために集めているのか確かめに行く』

 紙の端を掴み直した。七つ。今朝、俺が先生に申告した数と同じだった。

『先に言っておく。お前に教えたことを、俺は後悔していない。だが、便利な道具ほど欲しがる人間は多い。使い道を決める前に、渡す相手の顔を見ろ。それだけは忘れるな』

 末尾には、いつもの雑な署名があった。別れの挨拶はない。帰ってきたら鞄の紐を直す、と書き足してあり、その下には釘の注文の覚え書きまで残っている。

 俺は紙を机へ置いた。窓には、制服を着た自分の顔が映っていた。師匠にもらった服ではない。百年後の学校の、新入生の服だった。

 扉が叩かれた。寮係が、食事の時間だよと声をかけてくれた。俺は返事をして、手紙を冊子の間へ挟んだ。明日の朝は相談室へ行く。オルダ先生に、話していないことを話さなくてはならない。

 禁術が七つ。師匠が俺に残した魔法は、その全部だった。

 その魔法を欲しがった誰かがどうなったのか、百年後の本を開いても、その答えはまだ見つからなかった。


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