これからの日常
「それで、結局朱羅は人間ちゃんを眷属に堕としたわけ?」
そう言いながらも、蘇芳は答えはわかっているとでもいうかのように、ジト目で朱羅を見つめる。それに朱羅はひとつ苦笑を返して。
「いいや、まだだな。時間をかけて眷属に堕とした方が安定すると蘇芳が言ったんだろう?」
「そうだけどさぁ!時間かけすぎじゃない?!」
蘇芳の言い分もわからないでもない。朱羅は華のあの言葉を、彼女の覚悟として認めた。だから、少しだけ猶予をあげることにしたのだ。彼女が努力して入ったという、大学での学生生活が終わるまでは。
「しかも朱羅の領域からも出しちゃってさ〜。どうするの?浮気なんてしたら!」
「しないさ」
するはずがないし、させるわけもない。それが伝わったのか、蘇芳はニヤニヤと笑みを浮かべて。少し顔を近づけて、声を潜めた。
「なぁに、人間ちゃんの意識でも操ってるとか?」
「いいや?ただ、刻んだだけだ」
朱羅の気分次第で、いつでも彼女のそばに行くことのできる紋を。華が朱羅にすべてをくれると言った日に、密かにつけた印。それは人間には見えず、妖などにしかわからない。朱羅のものである証。
「ふぅん、人間ちゃんは知ってるの?」
「教えるわけないだろう」
人間たちがキスマークと呼んでいる、鬱血痕すら恥ずかしがるのだ。紋はついているだけで、見えずともわかってしまう。それが誰のものか。だから、朱羅がつけた紋のことを知れば、恥ずかしいから消して欲しいと言うかもしれない。
「ま、いいけどさ。吾には関係ないし!」
「そうか」
ストローを使って、蘇芳はクルクルとアイスティーをかき混ぜる。側から見たら俺たちはカップルにでも見えているのだろうな、と思った。そのとき視線を感じたのか、蘇芳は不意に顔を上げて。通りすがりの人間に、ぱちりと片目を瞑ってみせた。明らかにからかっているとわかって、呆れた顔で蘇芳の視線の先を追う。視線の先では、人間がパッと赤くなったところで、それを見つめて、蘇芳はケラケラと笑った。
「話に飽きたみたいだし、もういいか?華の講義がそろそろ終わるはずだ」
「はいはい、話を聞かせてくれって頼んだのは吾だしね。あ、そうそう。あと、狐里が気が向いたら、というか金子が入りようになったら、また特務外交部4課の仕事手伝ってねって言ってたよ〜」
「承知した。そのときは頼むと伝えておいてくれ」
「あと祝言のときは呼んでよね。吾は朱羅の育て親みたいなもんだし」
その言葉は聞かなかったことにして、手の中のスマホに視線を落とす。丁度そのとき、ぴこん、とスマホが華からのメッセージの通知を受け取った。開いた画面には、すぐ行くから待ってて!という言葉とスタンプが送られてきていて。
「金はここに置いておく。またな、蘇芳」
コースターでお札を数枚挟むと、朱羅はコートを手に取って足早に店を出た。
「は、」
吐いた息が白い。それもすぐに空気に溶けて消えた。便利な世の中になったものだ、と朱羅は歩きながら考える。華と出会ったあの時代のときには、会話をしているのと変わらない速度で文通をすることができるなんて、思ってもいなかった。それに寒さで冬を越せない人間は、暖房器具の発達によりゼロとまではいかないがいなくなったし、食糧が足りなくとも、奪い合わずとも外つ国から輸入することができる。死にそうな外傷を負ったとしても、救急医療が発達したおかげで、助かることもある。この時代において、朱羅のような経験をする存在はもう、生まれないだろうと思う。それは、きっといいことだ。けれど、形を変えて人間たちの間にはまだまだ闇がある。それらから、華をできるだけ遠ざけたいのも、また朱羅の本心だった。
「あ、おーい、朱羅!こっちこっち!!」
大学の通用門の前でぴょこぴょこと跳ねて、華がアピールをするのに、ひらりと手を振って応える。今日は羅刹としての姿ではなく、あの時代に朱羅が人間の擬態として取っていた姿だから、見目にざわめきは起これど、不躾に話しかけてくる人間もいない。
「華」
短く呼びかけただけで、華は何が言いたいのかわかったのだろう。軽い足音を立てて、走り寄ると、朱羅の腕にひっついた。
「帰ろ!」
「ああ、帰ろう」
朱羅と華は、あれから毎日領域のなかの家に帰っている。華の家族からは同棲の許可も得ているので、何の問題もない。夕闇に溶けるようにして、2人の姿は陽炎のように揺らめきながら、闇のなかに消えていった。




