第1話 異世界転生、してしまいました
遠くから音が聞こえた。はっきりとは聞こえないが、次々と音が変わっていく。
急ブレーキの音。何かが地面に打ち付けられる音。色々な雑音が流れた後、やがて誰かの泣き声が聞こえてきた。……これは、赤ん坊の泣き声だ。どこかで赤ちゃんが泣いている。誰か、あやしてやってほしい。近くにお母さん、いないのかな。
そんなことを考えているうちに、ふと気付いた。泣いているのは、私だ。誰かに抱き上げられて、よしよしとあやされている感触があった。訳が分からない。しかしその疑問を解決する前に、暴力的に襲ってきた眠気に負けて、私は意識を手放した。
最初の数か月は訳も分からず、ただ本能のままにいた。だが、時間が経ち。やっと目が見えて、耳が聞こえてきた頃。私は愕然とした。やっと現実を現実と認識して、気付いてしまったのだ。
……え? 私、転生してない!? ま、待って待って、待ってよ。私、まだやり残したこと、いっぱいあるんだけど……。遺書も書いてなかったし、遺品整理とか、大丈夫かな!? あああ誰か、SNSに私が死んだこと書き込んでおいてくれないかな、仕事だって引き継ぎもしてないわけだし……いやいや、そんなことよりも。え? 私、本当に死んだの?
混乱する頭を整理する時間はたくさんあった。ベッドの上でゴロゴロする以外することがないからだ。
私がなんとか手繰り寄せた記憶が正しければ、『私』は既に死んでいる。最後の記憶は、あまり思い出したくはないが、交通事故で終わっていた。仕事からの帰り道だったはずだ。車がアクセル全開で『私』に突っ込んできて、横断歩道を歩いていた『私』は為す術もなかった。
ぶつかった瞬間や、そのあとの記憶は無かった。目前まで車が迫ってきていたというのに、ふと気付くと、私はここで若い女性に下半身を清められていたのだ。私が記憶と現実の間で混乱してしまうのも仕方ないはずだ。
それにしても、赤ん坊なので仕方ないが、身の回りのことが自分で全くできないというのは、なかなかに情けなかった。
……あーあ。冷蔵庫にプリン、入れっぱなしだったっけ。賞味期限短いから、誰か食べてくれたかなぁ。
そうやって『私』のことを考えていると、『私』の母のことを思い出してしまい、思わず泣きだしてしまった。分かっている、世話をしてくれている見知らぬ女性は、私の母なのだろう。時折訪れる若い男性は父であるということや、何より、私はどうやら、今、生後数か月の赤ちゃんであるということくらい、分かっている。
泣き出した私に、慌てたように母は機嫌を取ろうとしたが、『私』と私の気持ちがごちゃごちゃになっている私は、泣き疲れて眠ってしまうまで、顔を真っ赤にして全身を震わせて泣いてしまった。
それから何度も泣いたおかげで緩やかに心の整理ができたのか、情緒不安定になって手を付けられないほど大泣きをするなんていうことはなくなった。死んでしまったものは仕方ない。どうあがいても生き返ることはできないし、私は新たな生を受けたのだ。まだまだ『私』の思い出は引きずるだろうが、それでもひとまずはここで生きていくことに集中しなくては。
「レノ。あなたは本当に手のかからない、賢い子ね。良い子よ、レノ。私のかわいい子」
あやすように抱き上げられ、母からそう声をかけられる。どうしたら良いのか分からず、私は彼女がすることに身を任せた。
今の私の世界は、母が抱き上げて家の中を歩いてくれる景色と、子供用ベッドの柵の中だけだった。それでも、わかることは幾つかあった。
テレビといった家電製品が一切ないということ。
部屋の中は薄汚く、衛生環境的に問題がありそうだということ。
家や家具は木製のようで、どれも簡素な作りになっているということ。
食生活は貧しく、衣服はボロを纏っており、この家は随分と貧しいのだということ。
時折しか顔を出さない父親がいるということ。
……だが、記憶の中にある父の衣服は清潔で、貴族のようにフリルがひらひらしている白いブラウスを着ていた。その服装は、明らかにこの家の環境にはそぐわないものに見える。一緒に暮らしていないことにも、何か理由があるのかもしれない。
また、母の目鼻立ちから、ここは明らかに日本ではないことが分かった。生まれ変わって未来の世界に住めるならまだしも、どうやら過去の世界にやってきてしまったのだと思うと、気が重い。私の価値観はすべて現代日本で出来上がっているのだ。随分と貧しく、また不便そうなこの環境で、どうやって生きていけばいいのやら。
赤ん坊は不便なものだった。自分で思うように動くことが出来ず、お腹がすいたり粗相をしたときは泣いて知らせることしかできなかった。なるべく深夜帯は我慢したのだが、それでも限界を感じたときは夜泣きをしてしまい、母が寝不足になる姿を見てなんともいえない気持ちになった。
もうなんでもいいから、とにかく早く成長したい。それが今の私の願いだった。
私が『私』だった時、子供の頃に戻りたいな~赤ちゃんって世話してもらえてていいな~なんて思った時もあったが、いざ赤ちゃんになってみると、とんでもないことだ。母の乳をウォーターサーバー代わりに利用して腹を満たす毎日より、ビール片手に晩酌している日々の方が百倍幸せに決まっている。歯の生えてない口内にうんざりしながら、私は今日も今日とて泣きわめくことで母に現在の自分の状況を伝えて助けを求め続けるのであった。
そんな日々を送っているうちに、私はすくすくと成長していった。父は相変わらず時折しか顔を出さなかったが、基本的には母と二人、仲睦まじく生活を送った。
やがて私は一歳になった。自分では分からないが、母がそう言ったのでそうなのだろう。まだ外の世界を見せてもらっていないので、日付の感覚も、季節感も全くない。部屋の中に時計やカレンダーという気の利いたものも、残念ながら一切なかった。
「レノ、あーん。……美味しい?」
木で作られたスプーンで、離乳食を食べさせてもらう。美味しいと答えてあげたいのだが、まだ歯が生えそろってないので、よくわからない母音のみの返事になる。だが私の様子で喜んでいるのを感じ取ったらしい母は、嬉しそうに微笑んだ。
今までは目が見えにくかったというのもあったが、まじまじと母を見たのはこれが初めてだった。黒い艶やかな長い髪に、青色の瞳。白い肌は滑らかで、ほっそりとした手足に比べ、その胸元は非常に豊かなものだった。……つまり、美人なのだ。優しくて慈愛に満ちた笑みを見せられて、私はなんともまあ美人さんの娘に生まれたものだ、と目を瞬いた。
「まだ食べる?」
「う!」
口を開けば、母は嬉しそうにスプーンで皿からパン粥をすくった。離乳食なので実のところ特別美味しいわけでもないが、歯も生えそろっていない私が文句を言える立場ではない。素材の味を生かした料理だ。
しかし母も似たような食事をしているところを見るに、やはり、この家はとても貧しいのだと思う。本当に私なんて産んで大丈夫だったのかと地味に不安になった。子供なんて、お金がかかるばかりだというのに。そう思いはしても、我が子を愛しそうに見つめる『母の顔』を見てしまえば、そんなことを言えるわけがなかった。
数日後、父親がやってきた。久々の面会だ。正直私は父と接する機会が少なすぎて、あまり家族としての情みたいなものは感じていないのだが、やはり母はとても嬉しいらしい。
訪問日がどうやって決められているのかは謎だが、何日か前から母がそわそわとしだし、家の中をピカピカに磨き上げたり、食事の準備をせっせとしたりし始めていた。私は母が外で仕入れてきた食材の量を見て、目を剥いた。どうやらこの日の食事を豪華にするために、連日の食事は節約していたらしい。尽くす女過ぎるだろ! 週末婚どころか半年婚レベルな相手だぞ!
夕暮れ時になるとノックの音がして、母が父を招き入れた。途端、二人は熱い抱擁を私の目の前でかました。
「マリアンヌ。元気でしたか?」
「ええ、もちろんよ、チャーリー。会えて嬉しいわ」
「私もです」
どうやら新婚ラブラブ具合は健在らしい。毎日顔を合わせているわけではないから、余計にそうなるのだろうか。二人はぎゅっとお互いを強く抱きしめあっている。それを見て、私はなんともいえない気持ちになった。両親のラブシーンを見ているはずなのだが、美男美女過ぎて、もはや映画のワンシーン感がすごい。気まずいというよりかは、あらまあ良いわねぇ、という気持ちになってしまう。
やがて満足したのだろう、二人は身体を離し、母は食事の支度を始めるために台所へと移動した。ふりふりのブラウスを首元までかっちり着た父は、私の方へとやってきた。やっと掴まり立ちが出来るようになった私は、あの檻のような赤ちゃんベッドを卒業し、今は背もたれのある木の椅子に座っていた。
「レノ。久しぶりですね。マリアンヌにそっくりで……相変わらず君はとても愛らしい」
父は嬉しそうにそう言って、私の頬をやさしく撫でた。父は深い青色をした髪をきっちりと撫でつけていて、清潔な香りがした。明らかに、お金持ちなのだろう。しかも、かなりのイケメン。完全に勝ち組だ。
「あう」
当然、私の言葉は単なる母音になる。それでも手を伸ばして父に触れようとすると、父は嬉しそうに微笑み、私を抱き上げた。先ほどよりぐっと父の顔が近くなる。
「……君の瞳は、綺麗な深い緑……私と同じですね」
うっとりとした様子で、父がそう言った。父が私の瞳を覗き込んでいるので、私からも父の瞳が良く見える。同じだということは、私も父のような、綺麗な深緑色の瞳をしているのだろう。純日本人だった私にとっては、なかなか馴染みの薄い瞳の色だ。まるで宝石みたいだ、なんて思って見つめ返していると、父は満足したように私の頭を優しく撫でた。
「君がどんな風に成長するか……今から楽しみです」
父の瞳には、強い熱情が映っているように見えた。そんなにもうっとりとした様子で私を見つめているということは、母のことが本当に好きなのだろう。マリアンヌにそっくりだと、父自身が評したのだ。私の顔に母の幼き頃の面影を重ねたり、私の未来に母の姿を重ねたりするのも致し方ない。
……母さんはもしかして、このお金持ちの愛人なのだろうか。貧しい生活を送る母と、明らかにお金持ちですといったこの父とでは、釣り合いが取れていなさすぎる。通い妻ならぬ通い夫されているのも、正妻がいるから一緒には暮らせない的なことなのかもしれない。まあ、テンプレ的に考えるとそうなるよね。
となると、私は愛人の子になるのか。お金は欲しいし裕福な暮らしもしたいけど、落ち着いて生きていけない環境っていうのは困る。ので、貧しい生活ながらも母と二人でゆったり暮らせているのは幸せなことなのかもしれない。そう考えつつも、私は疎んだ視線を父に送った。当然父には通用しなかったが。なんともまあ、複雑な環境の家庭に生まれてしまったものだ。
その日はいつもより豪華な食事を楽しみ、父は母との別れを惜しむようにして出て行った。玄関戸の向こうには馬車と、お付きと思われる人がちらりと見えた。暗闇に紛れるようにいたけれど、一体ご近所さんは私たちのことをどう思っているんだろうかと少し不安を感じた。
父が帰った後、母が戸棚に袋を片付けているのが見えた。見覚えのない袋だったのでなんだろう、と首を傾げていたが、その袋の中からジャラリという音が聞こえ、納得がいった。外出をしていなかったので特に気にしていなかったが、この時代にもちゃんと硬貨は存在していたらしい。働きもしていないのにも関わらず我が家が食事や衣服に最低限困らない生活をしているのは何故なのかと疑問に思っていたが、そういうことか。まあ養育費を出すだけあの父にも甲斐性があって良かったというべきか。
……それはそれでいいとして、結局、ここは一体どこで、今は一体何時代なんだろう?
今回から、本編のスタートです。
序盤、長すぎたので分割しました。




