忘れ物
それから、和寿はときどき、佳音の工房に姿を現すようになった。
といっても、休みの日にきちんとした休みはなかなか取れないらしく、仕事の合間にちょっとした時間を見つけて顔を見せる程度。ウェディングドレスの進捗は確認しているのかしていないのか…、佳音がお茶を淹れるのも待たずに帰ってしまうことも多かった。
そうやって何度か会うことが重なっていくにつれて、出会ったばかりの時のような他人行儀な態度も消えていき、幾分打ち解けて、気さくに接することができるようになっていった。
幸世とは相変わらずメールや電話での連絡を頻繁にしてはいたが、ときどき和寿が工房に顔を見せていることは告げられないままだった。
幸世の方から和寿の話題が出てくることもなく、和寿もまた、この工房に来ていることは、幸世に知らせていないようだった。
後ろめたさを感じないと言えば、嘘になる。
でも、普段は人気のないこの工房に和寿が顔を見せてくれると、後ろめたさよりも心がホッと和んでいるのが自分でもよく分かった。
その日も、いつものように平日の昼下がり、和寿は佳音の工房へと姿を見せた。
けれども、いつもとは違って、その手には紙の小箱が携えられている。
「今日はゆっくりできそうなので、ケーキを買ってきました」
「……!」
佳音が何も言わず、驚いたような顔をするものだから、和寿は恥ずかしそうに少し笑った。
「…今までゆっくりできない時でも、ケーキくらい差し入れしたらよかったんですけど。…これじゃ、単に僕が食べたかったからみたいだな…」
『ケーキくらい』と言う割には、ケーキくらいのことで言い訳がましいことを言っている和寿を面白く感じて、佳音もクスッと笑いを漏らす。
「でも、古川さん。ケーキがお好きで食べたいと思ったから、買って来られたんでしょう?」
「え……。いや、あの。……その通りです」
素直に事実を認めた和寿に対して、佳音は声を立ててその笑いを朗らかにさせた。その笑顔を見て、和寿も嬉しそうに息を抜く。
「でも、すみません。ケーキを食べるのは、もう少しお待ちいただけますか?この作業を終わらせてしまいたいので……」
作業台の上にある白い布を前にして、佳音がそう断って針を動かし始める。
「どうぞ、お構いなく。僕はドレスの出来具合を見に来てるんですから」
和寿もそう答えながら、慣れた感じでダイニングのテーブルに腰掛ける。その和寿に、佳音は目をあげてもう一度笑いかけた。
その可憐でいてとても綺麗な佳音の笑顔に、和寿は思わず見とれてしまう。
この憂いのないパッと花の咲くような笑顔を見るためならば、どんな犠牲も厭わず何だってできそうな気さえしてくる。
昼下がりの落ち着いた静けさの中、和寿からじっと見つめられる視線を受けて、佳音も久しぶりにいささか緊張し始める。
目の前の針仕事よりも和寿の方に、どうしても意識が向いてしまう。
仕事の合間に顔を見せる和寿は、以前花屋で見た時と同じ整った身なりで、その寸分の隙もないほどの姿に、いつも佳音はドキドキと心臓が脈打つのが分かった。
でも、こんな和寿の隣に立つことのできる人は、幸世のような人…。彼女のように、華やかでしっかりとした人生を歩んで来たような人でないと、和寿には似つかわしくない。
佳音が今手にしているウェディングドレスが完成して、これを身に着けた幸世が和寿に寄り添う姿を想像すると、絵に描いたように本当に理想的な二人だと思った。
「……今日は、どうしてゆっくりできるんですか?」
あまりに熱心に見つめる和寿の視線に耐えかねて、佳音の方が口を開いた。
スーツのジャケットを椅子の背もたれに掛けて、くつろぐ雰囲気だった和寿が、話しかけられて佳音に目線を合わせる。
「この数か月かかりきりだった大きな仕事が、ようやく望ましいかたちで片付きました。それで、今日は久しぶりに午後から休みを取ることができたんです」
そう語る和寿の表情は安堵に満ちて、それだけ和寿が背負わされている重責が見て取れる。
「そうですか。それは、よかったですね…」
本当は、和寿が会社でどんな仕事をしているのか訊いてみたかったが、佳音はそう答えるにとどまった。こんな世間知らずな自分が、和寿の仕事の話題で、対等に話しができるとは思えない。
「ひと段落はしましたが、仕事の成果が出るのはまだまだ先のことです。失敗すると、会社に億単位の損失を与えてしまうので、これからも気は抜けませんが」
それを聞いて、佳音は密かに息を呑んだ。億単位の仕事をしているなんて、やはり和寿は佳音の想像の及ばない世界に生きている人間のようだ。
和寿に返す言葉が見つけられず、佳音が針を動かす手元を見つめていると、携帯電話の着信音が鳴った。
自分の携帯電話のものだと、和寿は気が付き、ジャケットのポケットを探ってそれを取り出す。
「はい。……うん。……うん。えっ!なんだって!?」
電話に出た和寿の声色が変わったことに、佳音も目を上げて様子を窺う。
「……分かった。すぐに会社に戻るよ」
そう言うや否や、和寿は立ち上がった。
「森園さん、すみません。今日もやっぱり、ゆっくりできなくなりました」
取るものも取りあえず和寿は急いで玄関口へと向かい、靴を履く。佳音が声をかけるのも待たずにドアを開けると、風のように姿を消してしまった。
和寿につられるように立ち上がっていた佳音は、呆然として工房の真ん中に取り残される。
さっきまで暖かさで満たされていた工房の空気が、一気に寒々しくなってしまった。
こんな風に和寿がすぐに帰ってしまうのはいつものことなのに、がっかりしている自分がいる。こんな思いに気付いてはじめて、佳音は和寿との楽しい時間に心を弾ませていたことを自覚した。
悲しいような情けないような気持ちが充満してくる。佳音は唇をキュッと噛んで、このやるせない気持ちを抑え込んだ。
ふと、ダイニングの椅子にかかっている和寿のジャケットが目に留まった。あまりにも急いでいたので、忘れて行ってしまったらしい。
佳音はそこに駆け寄って、ジャケットを手にした。そのまま靴を履いて和寿を追いかけていこうとしたが、玄関先で思いとどまった。
和寿がどっちに向かって走って行ったのか、佳音には分からない。あの急ぎようでは、もうこの近辺にいるはずもない。
佳音はダイニングに戻って、和寿に連絡を取ろうと思ったが、電話番号もメールアドレスも知らなかった。
幸世に伝えてもらうことはできるかもしれない。…でも、佳音は幸世には連絡をしなかった。後ろめたさに、チクン…と胸に痛みが走ったけれども、幸世には和寿がこんな風に来ていることは知られたくなった。
それに、このジャケットがここにあれば、和寿は必ずまたここに来る。
佳音は手にあるジャケットに、目を落とした。
以前、花屋で会った時とは違う夏物のスーツ。その仕立てを確かめて、やはり既製品ではないことを、佳音は見て取った。
こうやって、自分の体に合わせて誂えられたスーツを着ているからこそ、和寿はあの完璧とも言える姿でいられるのだ。それは和寿の日常が、身なりでさえも寸分の隙も許されないほど、緻密で大変だということを物語っていた。
――流されて生きてきただけなんです…。
前に和寿が言っていたことを、ふいに思い出す。毎日息つく暇もないほどの今の生活を、和寿はどう感じているのだろう…。
和寿が一生懸命頑張っているところを見ると、なぜだか佳音は胸が痛くなる。
無理をしてほしくない。体だけでなく、心に対しても…。
ジャケットを見つめて物思いにふけっていた佳音は、我に返って、気を取り直すように息をついた。ハンガーを一つ取り出して、丁寧にジャケットをかける。
――…頑張って下さい…。
壁際のフックに掛けて、それを見上げながら、佳音は心の中でつぶやいた。