二人きりの夕食
明るかった陽射しが傾き、西向きの窓から柔らかな光が工房に差し込んでくる。
和寿が気が付くと、もう夕刻を迎え、この工房へ来て2時間が経とうとしていた。
佳音は依然として作業に熱中し、和寿の方へチラリとも視線を向けてこない。その佳音に、和寿はこの2時間考えを巡らせていたことを、思い切って提案してみることにした。
「あの……」
和寿が声をかけると、佳音は虚を突かれたのか、和寿がそこにいることに驚いたようで、体をビクッと少し跳び上がらせた。何も言わず、ただ視線だけで和寿に返事をする。
「今日、お邪魔させてもらったお礼と言ってはなんですが…、森園さんに食事をご馳走したいと思うのですが…」
その申し出を聞いて、佳音は思考が固まり、鉛筆を握りしめたまま直立した。和寿が、なぜこんなことを言い出すのか解らない。
「いいえ、そんなことをして頂くようなことは、私は何もしていません」
すると、和寿は佳音がそう言って断ってくると想定していたのだろう。柔らかく笑いながら、違う言い方をして佳音の心の負担を軽くしようと試みる。
「…実は、僕も自分の家に帰っても、一人で寂しく食事をしなければなりません。だから、僕が食事を作りますから、一緒に食べてくれませんか?」
和寿は、どこかの店に食事に行くのではなく、ここで一緒に夕食を食べようと持ちかけてきた。「一人で寂しく」などと言われてしまうと、佳音の方も断りにくくなってしまう。
「……古川さんが、ここでお料理なさるっていうことですか?」
佳音は直立したまま大きな目を真ん丸にして、和寿に問い返した。
「あの魚屋さんでもらったアサリ、僕の分も入れてくれてましたよね?」
「………!」
佳音はさらに目を大きくして、和寿を見つめ返した。そんな素直な表情を見せてくれた佳音に対して、和寿は余裕の笑顔を見せる。
「それじゃ、僕は食材を買い足しに行ってきます」
テーブルに手をついて立ち、軽快な足取りで玄関へと向かうと、カノンのオルゴール音を響かせながらドアを開けて出て行った。
オルゴール音が消えてしまった後も、佳音はまだ状況をはっきりと把握できなくて、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
和寿は帰ってしまったのではない。あのドアを開けて、またここに戻ってくる。
現実にようやく気が付いて、佳音はパターンの修正作業はそのままに、慌ててキッチンへと走り出す。
普段あまり料理という料理はしないので、激しく汚れてはいなかったが、ここは普段お客さんの目につくところではないので、掃除がなおざりになっていることは否めない。こんな生活感丸出しのキッチンに、和寿を通すわけにはいかない。
出しっぱなしの食器や調理器具を片づけて、食器棚の中も簡単に整理する。調味料の類もきちんと並べ直して、コンロ周りや調理台を布きんで拭き上げる。
冷蔵庫の中もチェックをして他人に見られてもいい状態にし、モップを持ち出して来てキッチンの床も拭いた。
ひと段落ついた時には、息が上がり、胸は激しく鼓動を打っていた。
何もするべきことが見つからなくなっても、気持ちは落ち着かず、仕事を再開しようにも手に付かない。呼吸が元に戻っても、胸の鼓動はいつまでも大きく乱れている。
太陽が大きなビルの向こうに消えて、日が当たって明るかった玄関も陰って、ひっそりと寂しさが漂い始める。和寿が戻ってくる気配はなく、佳音の心は違った意味で焦り始める。
やっぱり、和寿はそのまま帰ってしまったのではないか……と。
佳音はそう思って初めて、自分が和寿の楽しい申し出に心が浮き立って、一緒に食事をすることを心待ちにしていたのだと気が付いた。
でも、それはとんでもない勘違いなんだと思い直す。
自分は婚約者のドレスを作っているだけのただの職人で、和寿にとっては親友でもない。そもそも、和寿は住む世界の違う人間で、自分は取るに足らないような存在のはずだ。
両親にも愛してもらえないこんなつまらない自分を、和寿に限らず誰も本気で相手にしてくれるはずがない。
佳音は、ガラスのドアの外に和寿の姿が見えるのをじっと待ち続けていたが、ドアを見つめながらギュッと唇を噛んだ。古傷のように心に痛みをもたらす、言いようのない寂しさが佳音を襲い始めて、押しつぶされそうになる。
目が涙でジワリと潤んできて、もう待つのはやめようと作業台に視線を移した時、工房のドアがパッと開いた。
「すみません。遅くなりました。慣れない場所での買い物に、思ったより手間取ってしまって…」
和寿が戻って来てくれて、心にまとった氷の鎧が融けて、佳音はホッとしていた。たとえ口約束でも、和寿がそれを破ってしまうような人間だとは思いたくなかった。
「それじゃ、台所お借りします。出来たらお呼びしますから、森園さんはお仕事を……いや、もうお仕事は切り上げて休んでてください」
和寿はキッチンの調理台の上に買ってきた食材を並べながら、カウンター越しに声をかけてくれる。
そう言われても、お客の和寿を働かせて自分の方がゆっくりしている…なんて、佳音にはできなかった。
「それじゃ、私の方は…さっき買ってきた花の植え替えをさせてもらいます」
和寿が戻ってこないと思った時は寂しく感じていたのに、こうやって二人でいると、少し息苦しい。佳音はそう言って笑顔を作ると、部屋の隅に置いてあった花の苗の袋を持って、和寿と入れ違うように表に出た。
草丈が伸びきって花が小さくなってしまったパンジーの鉢に、新しい花苗を植える。
トレニアにインパチェンスに、ベチュニア、ゼラニウム。それに夏らしく爽やかなアメリカンブルー。こうやって時折、花の苗を植え替えると季節が変わっていっているのがよく分かる。
ヒラヒラとして優しい花弁は、前に和寿が言っていたように、佳音が作るウェディングドレスのようだ。ずっとパターンとにらめっこしていた今日のような日は、こうやって花を見るととても心が癒された。
「…………」
心は癒されているはずなのに、今日はやっぱり落ち着かない。その原因は、今も工房のキッチンで料理をしてくれている和寿の存在に他ならなかった。
どうして、和寿はこんなことまでしてくれるのだろう…?
世間の人々とうまく関わり合いを持てない、変わり者のこんな自分に…。
新しく知り合った「友人」が、物珍しいだけだろうか。
仕事に追われる忙しい日常から逃れて、ただ息抜きがしたいだけだろうか…。
そんなことを考えていると、おのずと佳音のスコップを持つ手は止まって、ほんの数鉢植え替えるだけなのに、なかなか作業ははかどらない。
植え替えとセッティング、掃除などすべての作業が終わったのは、中にいる和寿から声をかけられたのとほぼ同時だった。
工房の中に招き入れられて、ガーデニングで汚れた手を洗い、ダイニングへと行ってみる。
和寿が用意してくれた食事は、アサリを使ったボンゴレビアンコに、野菜のたっぷり入ったミネストローネ。それら二人分の料理が、向かい合ってきちんとセッティングされていた。
…といっても、一人暮らしで友達に尋ねて来られることもない佳音は、揃いの食器など持ち合わせておらず、同じ料理なのに、それぞれちぐはぐの皿に盛られている。
「すみません。食器やカトラリーを、勝手に探させてもらいました」
和寿がそう言うのを聞くにつけても、ずいぶん苦心したことが窺えた。
「…こちらこそ、すみません。ろくな食器がなくて…」
佳音は本当に恥ずかしくなって、消え入りたいような気持ちになる。
「いいえ、こういうのも面白くていいです。簡単なものしか作れませんでしたが、さあ、温かいうちに食べましょう」
和寿はダイニングの椅子を引いて、まるで自分の家のように佳音を促してくれる。佳音はお客さんのようにそこに座ろうとしたのだが、食卓を見てあることを思い付いた。
「…あの、ちょっと…。…あ、古川さんはどうぞ、お先に食べててください」
佳音はパタパタと、お風呂場とキッチンとを走りまわって何やらしている。和寿はダイニングの椅子に座ってそれを眺め、先に食べ始めることなく佳音を待っている。
しばらくして、佳音はダイニングに姿を現し、今日花屋でもらったベルフラワーを活けた小さな花瓶を、そっと食卓の真ん中に置いた。
和寿がしてくれていることへの“お返し”には到底ならないけれども、和寿をもてなしたいという佳音の、せめてもの気持ちだった。
その白く可憐な花を見た和寿は目を細め、いっそう穏やかな表情を見せてくれる。
「…それじゃ、食べましょうか」
佳音が席に着くのを待って、和寿は手を合わせた。
「…いただきます」
佳音も手を合わせ、久しぶりに心からその言葉を唱えた。
自分から作ると言い出すだけあって、和寿の作った料理たちはどちらも絶品だった。普段、料理をしなれない佳音が作る適当なものとは大違いだ。そもそも、アサリをもらっても佳音ならばどうやって調理しただろう…。
「とても美味しいです。こんな、食事らしい食事、久しぶりです。本当にありがとうございます」
少し食べたところで、佳音が改まって和寿にお礼を言った。
向かいに座って食べていた和寿も手を止めて、佳音に目を合わせる。
「こんなもので良ければ、また作ってあげますよ」
和寿は笑顔でそう言ってくれたが、佳音は戸惑ってしまう。
「また」と言う和寿の思惑は、どんなものなのだろうかと。…婚約者の幸世がこのことを知ったならば、どう思うだろうかと。
…そして、「また」こんな機会が、果たしてあるのだろうかと。
そんなことを考えて、佳音のフォークを持つ手が止まっていた時、玄関のドアが開いて、カノンのオルゴール音が聞こえてきた。
「…こんな時間に、お客さん?」
和寿に訝しがられて、佳音が時計に目をやると7時を少し過ぎた頃だった。
工房を閉めるのを忘れていたと思いながら、玄関口まで向かってみると、そこには見慣れた男が立っていた。
その男を一目見て、佳音の心に不快の影が差す。
「何か御用ですか?」
愛想笑いも見せず、その心を映して険しい顔をしてみせる。けれども、その男はそんなことはお構いなしに、ニヤッと佳音に笑いかけた。
「佳音ちゃん、これ差し入れ。飯まだだろ?一緒に食べようよ」
そう言って、何やら入っているレジ袋を差し出し、靴を脱いで上がり込もうとする。
「とんでもない!」と心の中で叫びながら、佳音は身の毛をよだたせ、その男の行動を遮った。
「今、来客中なんです。食事ももう食べてますから、今日は差し入れも結構です」
「えっ、でも。差し入れ、せっかく持ってきたのに…」
佳音は有無を言わさず必死になって、その男を押し返して、ドアの外に追い出した。そして、ドアの鍵をかけると、ガラスのドアにサッとカーテンを引いた。
ひとまずホッと息を吐いたが、まだ手には震えが残っている。この男が来るたびに佳音はいつも怖かった。
「…お客さんですか?」
男を追い返す佳音の声を聞いていた和寿が、佳音の強張った表情を見て、いっそう心配した面持ちで尋ねてきた。佳音は首を横に振って、事情を説明する。
「ご近所のお惣菜屋さんの息子さんなんです。時折、余り物を持ってきてくれたりするんですけど…」
魚屋や花屋で頂き物をするように、彼からの物に対して同じようには思えなかった。彼のその行為の裏には、下心がある。それを敏感に察知して、佳音はいつも警戒していた。
その辺の込み入った事情まではうまく話せなかったけれども、和寿はそれだけで全てを飲み込んでくれた。
「女の人の一人暮らしは、気をつけなければいけませんね。男の人と二人っきりになるのは避けた方がいいですね」
和寿はそんな風に助言してくれたが、佳音は返す言葉が見つからない。
「………って、既にここに上がり込んでる、僕が言うのも変ですが……」
と、自分で自分にツッコミを入れた和寿を面白く感じて、佳音は思わずフフッと笑いをもらした。
佳音がそんな風に笑ってくれたことに、和寿も表情を笑いで緩ませる。
「古川さんにはあんなに素敵なフィアンセがいらっしゃるんですから、その点は心配していません」
しかし、佳音のその言葉を聞いた瞬間、和寿の笑顔が固くなる。そして、その事実を再認識するように、強張った笑顔のまま頷いた。
佳音はそんな和寿の微妙な変化には気づくことなく、それからは少し和寿とも打ち解けることができた。