9.比嘉先輩
深山に案内され地下世界にある中国庭園に来ても、僕はいつものように悶々としていた。
庭園には釣りをしている人や弦楽器を鳴らしている人がいる。
庭園を彩る弦楽を弛まず奏でているその人は、九曲橋の中ほどで、橋の内側を向いて欄干に腰かけていた。長い弓を右手に持ち、木槌をひっくり返したような弦楽器をとろめくような眼差しで弾いている。
初めはあの釣り人のような名もなき吟遊詩人がいるのだと思ったが、近代クールの結晶としか形容できない凛と澄ました佇まいは、僕にとって非常に馴染み深いものであった。
「比嘉先輩じゃないですか!」僕は小さく叫んだ。
『神出鬼没のイカレミュージシャン』と呼ばれ、おもに善良な市民たちから畏怖されている比嘉先輩であるが、こんな神秘なる地にまで足を踏み入れているとは予想だにしていなかった。
僕の声に反応して彼女はぴたりと演奏を止める。うっとりと夢見心地だった顔を上げて、「よう青年、奇遇だな」と、からりとした声を出した。
「こんなところで何してるんです?」
「見ての通り、二胡を弾いていたんだよ。二胡はいいぞ。深く哀愁のある音色をしているから、弾いているとつい時間を忘れてしまう」
どうやら演奏を堪能できたようで、前髪を掻きあげると清々しく白い歯をみせた。
僕は比嘉先輩ほど音楽に溺れている人を他に知らない。
比嘉先輩の専門といえばギターなのだが、彼女はときたま路上ライブにベースを持ちだし、ろくに歌もうたわず物好きしか望まないような重低音をゴリゴリ鳴らす。逆にチェリストの友人からチェロを借りて弾いたときなどは、ベースとは打って変わっての分かりやすい名演奏に人だかりができた。このときはどういう心境だったのか熱唱のおまけつきで、群衆は瞬く間に膨張していき、通行の妨げとなったので警察官が出動したほどである。
彼女にはポンコツな良識が備わっているため、路上でチェロを弾いて以来「通行人の邪魔をしてはいけない」と言って誰もが共感できる演奏を控えるようになり、聞く人によっては雑音と非難しそうなけたたましいメロディを中心に路上ライブをするようになった。然して近隣住民は阿鼻叫喚の大迷惑である。
弦楽であれば楽器を選ばず、どのようなジャンルの曲を弾かせても一流の演奏をしてくれる。比嘉先輩はまさに弦楽器の申し子なのである。弦好きが高じて弓道の段位まで持っているのだから、ついでに大好きな馬に乗って流鏑馬にも挑戦してもらいたい。
ちなみに彼女の夢は武道館ではなく、三冠馬の馬主である。
そして僕は、そんな比嘉先輩のファンであった。
「今の曲は?」
「気ままに演奏しただけのオリジナル曲だよ。タイトルは中国っぽい名前にしたいから、そうだな……『鶏肋』にしよう。役に立たなくても捨てるには惜しい。うん、記念馬券みたいでいいタイトルだな」
比嘉先輩もまた、サハラ嬢と同様に独特な感性の持ち主である。喋り方や物腰が達観しているようなので、どれだけ阿呆な発言をしようと説得力が生じてしまう。説得力があっても話すことの大半が馬であり、あとは音楽や競艇、偏った歴史の話もする。歴史の知識は古代中国に偏っているので、このことからも彼女は浪漫の人だと言えよう。
動けば音楽、喋れば浪漫、黙っていればクールビューティ。並の男であれば比嘉先輩に惚れずにはいられないのだ。
僕たちが延々と馬に纏わる話をしていると、置き去りにされていた深山が割って入った。
「二人は知り合いなの?」
「ん? そうだよ。なんだ知らなかったのか」と、比嘉先輩が応ずる。
「比嘉さんのことは何も聞かされていないな。それにしても君たちはずいぶん仲がいいんだね。君が楽しそうに話しているところなんてあまり見られないよ」
「深山は馬の奥深さを知らないからな。太公望は釣りバカだし、他の連中は自分のことにしか興味がない。想像主にしても競馬の知識はあるが、あいつの場合は何考えてるかさっぱり分からないからな。私はあの爺さんが好きじゃない」
「君は正直だよね」比嘉先輩の歯に衣着せぬ物言いに、深山は苦笑した。
「でも、桃田さんとは仲良くしている」
「あの子は素直だからな。馬の話ができなくたって、私は真っ直ぐな子が好きだよ」
「たしかに、俺たちは少々歪んでいるからね」
いささか剣呑に感じられる会話が途切れると、彼女は欄干から跳ね降りて、足元に置いてあるケースに二胡をしまいだした。
「私と睦まじくしたいならせめて競馬を覚えることだな。下宿屋の後輩たちは私が教えてやるとすぐに呑み込んだぞ。お前も学べよ。馬を学べ。女を口説きたいなら馬の話ができる男になれよ。こいつみたいに」
そう言って僕を指すのだから迷惑千万である。
馬の話ができれば女性を落とせるという恋愛観は明らかにおかしい。たしかに競馬は紳士のスポーツであるが、競馬観戦を趣味としているのは大概むさくるしい男であり、若い女性にぺらぺら競馬の話をすると煙たがられる危険性が非常に高い。そもそも男として完璧な深山に女性を落とすコツを説くのが間違っているのだ。なにゆえ然もモテる男の代表格であるかのように僕なんぞを引き合いに出すのか。
比嘉先輩は俄かに立ち上がって尻の砂埃を払うと、「よいしょ」とケースを背負い、握り拳をつくって深山の胸に押し当てた。
「『女心を射んと欲すれば、まず馬を観よ』、な?」
宝塚歌劇のトップスターのように痺れるウインクをする。言っていることは阿呆である。
「はは、是非とも参考にさせてもらうよ」
競馬を観戦したところで射られる女性は比嘉先輩くらいだろう。否、この大雑把な胆力の塊みたいな人に、恋愛感情のように繊細な女心があるとは思えない。彼女が好きな男は人間ではなく、足の速い牡馬なのだ。
「それじゃ、私は先に帰るから」
いつも乙女の黄色い声援を浴びている美男子深山を思う存分に翻弄して、比嘉先輩はクールに去っていく。
すれ違いざま、僕にぽつりと耳打ちした。
「こいつらの妄想をぶっ潰してこい」