「少年の日の殺人 エピローグ」 奥田光治 【本格推理】
「……これで、僕の話は終わりです」
彼……青原君の話を聞き終えたとき、駅の待合室の窓の外にずっと降っていた雨はすでに小降りになりつつあった。やがて、駅のアナウンスでひとまず上下線ともに電車の運転再開が決定したという情報が流れ、待合室の何人かが席を立ってホームへ向かっていくのが見えた。そんな中、青原君は小さく伸びをしながら言葉を繋げた。
「この事件の話は今まで誰にもした事がないんです。でも、三木沢先生だったらこの話をしてもいいかなと思いました。聞いてくださってありがとうございます」
「それは光栄だが、いささか私の専門外なのが残念だね。私はあまり推理小説を書き慣れているとは言えない」
私は正直なところを吐露した。
「それでも、何かの参考にはなるんじゃないですか?」
「それはそうなのだがね。正直、そんなそれこそ推理小説の中にしか出てこないような探偵が本当にいたという部分から信じられないのだがね」
「確かに、僕も最初は信じられませんでしたけど、彼は確かに存在しました。小説みたいな派手さはありませんが、徹底した論理で事件を解決する……そんな名探偵が」
「そうかね……。世の中には、私も知らない事がまだまだあるようだな」
気付くと、もう待合室には私たちだけしか残っていなかった。東京方面へ向かうホームには電車がすでに滑り込んでおり、いつ発車してもいいように信号待ちをしている状態である。これを逃したら次いつ電車が来るかわからない。名残惜しくはあったが、私は荷物をまとめて、椅子から立ち上がった。
「何はともあれ、いい時間つぶしになった。さっきの話だと、君はその松宮村に戻るところらしいが」
「はい。この度、久々に村に戻ってそこで仕事に就く事になったんです」
「そうか……。まぁ、色々あるだろうが頑張り給え。こうして出会ったのも何かの縁だ。今聞いた話も、いつか機会があれば作品の参考にさせてもらおう。では、これで」
そう言って、私は青原君の前を通り過ぎ、待合室のドアの取っ手に手をかけようとした。その時、不意に後ろから、椅子に座ったままの青原君が声をかけてきた。
「三木沢先生、最後に教えてください。何で……何であなたは今になって、木場田和夫を殺したんですか?」
私は、思わず足を止めてゆっくりと青原君の方を振り返った。青原君はしっかりとした目で私の方を見ると、静かに椅子から立ち上がった。
「……何を言っているんだね?」
「昨日、長野市内の裏路地で、一人の男が頭から血を流して死亡しているのが見つかりました。身元を確認した結果、被害者は十年前のあの事件の時に松宮村で取材をしていたフリーライターの木場田和夫である事がわかりました。さっき新聞を読んでいたなら『ライターの不審死体が見つかった』という見出しでその記事が載っていたかもしれませんね、そして、県警が捜査をした結果、彼が直前に合っていた人物が怪しいという事になって、その人物を見つけ次第確保するようにという命令が出ていたんです。その人物というのが……三木沢先生、あなたです」
私は、突然の展開に何が何だかわからなくなっていた。
「君は一体……」
「三木沢先生、僕の仕事というのはこれなんです」
そう言って、青原君はポケットからある物を取り出した。それは『長野県警』と書かれた警察手帳そのものだった。
「君は……警察官だったのか?」
「嘘はついていません。僕は十年前のあの事件の後、榊原さんのように人間の闇を暴く事で人を助ける仕事に就きたいと思ったんです。だから必死に勉強して、高校卒業後に長野県警の警察官になりました。そして今回、先代の駐在さんが定年退職したので、出身者でもある僕が松宮村の駐在に配属される事になったんです。今日は、県警本部から駐在所に向かう途中でした。だからびっくりしましたよ。……今朝手配されたばかりのあなたが、僕がたまたま足止めを受けたこの駅の待合室にやって来たんですから」
私は無言で青原君を睨みつけた。だが、青原君はキッと私を睨み返しながら詰問する。
「もう一度聞きます。どうして、あなたは木場田和夫を殺害したんですか?」
「……」
「十年前のあの事件の後、当時巾木豪造の枕営業の実態を追っていた木場田和夫は方針を転換して筧先生の事件とそれに関係する木之本光秀の事件をスクープ。業界での地位を不動のものにして、芸能カメラマンからフリーライターに転向しています。光奈さんを失った事が原因で肝心の巾木さんが気落ちして選挙への出馬を取りやめてしまって、枕営業疑惑のスクープ性がなくなったという事もあるんでしょうけど、何というか随分な変わり身の早さです。結局、大庭影近議員の地盤は今不祥事で辞職騒動になっている息子の大庭影元が継いだみたいですね」
「……」
「ただ、そのスクープの過程で木場田が筧先生の事件のある事実について意図的に報道していなかった事が、今回県警本部の捜査でわかりました。さっき僕が話したように、筧先生が奥さんの筧紗季さんを殺害したのは、筧紗季さんの金遣いの荒さや浮気などに耐えきれなくなったからでした。警察としてはそこまでわかれば充分だった上に、犯人の筧先生も具体的な浮気相手の名前までは知らなかったため、そこで捜査は打ち切られています。でも、木場田はよせばいいのに独自にその先を調べてしまったんです」
「その先……」
私が思わず呟くと、青原君はしっかりとした口調で答えを言った。
「筧先生が紗季さんを殺すきっかけを作ってしまった人物……つまり、筧紗季さんの『浮気相手』の正体です。その調査結果は、東京にある木場田の自宅アパートに保管されていた十年前の取材ノートにはっきりと書かれていたそうです。今から約二十年前、筧紗季さんと浮気をして、筧先生の一連の犯行の事実上の引き金を引いてしまった人物。それは……」
「もういい」
続けて言おうとする青原君の言葉を私は遮った。それ以上は聞かなくてもわかっていたからだ。
「もう言わなくていい……」
「……認めるんですか?」
そう言われて、私はもうすべてがばれている事をはっきりと悟り、これ以上とぼけるのは無意味と判断して二十年間隠し続けていた秘密を暴露した。
「……あぁ、そうだ。二十年前、筧紗季さんと浮気をしていたのは……当時まだデビューしたばかりだった私だ」
吐き捨てるような私の告白を、青原君は真剣な表情で聞いていた。
「どうして浮気なんか……」
「経緯について言うつもりはない。ただ、二十年前に私が筧紗季さんとあるきっかけで出会い、その結果ただならぬ関係になってしまったのは事実だ。それは、彼女が死ぬまで続いていた。彼女には悪いが、それで終わったはずだったんだ」
「……十年前、筧先生の罪の発覚がきっかけになって、木場田は筧紗季さんの浮気相手の正体があなたである事を突き止めました。新進気鋭の作家が殺人の引き金になった浮気の張本人だったなんて、木場田からしてみれば警察もつかんでいない大スクープのはず。でも、木場田はせっかくのそのスクープを報道しなかった。そして、東京の警視庁が木場田の銀行口座を調べた結果、十年前から数ヶ月に一度のペースで不自然な入金があった事が確認されています。入金先については現在調査中ですが……ここから考えられる事は一つだけです」
「……」
「木場田は紗季さんの浮気相手だった三木沢先生を脅迫し、この秘密をばらさないのと引き換えに現金を要求していた。先生はそれを受け入れ、この十年間ずっと要求通りにお金を払い続けていた。でも、今回そのいびつな関係がついに破綻して、脅迫者の木場田が殺される事になってしまった。……それが県警の捜査本部の考えです。そして、今回の事件ではその脅迫相手のあなたが、殺害当日によりにもよって被害者の木場田と同じ長野市にいた。……新米警官の僕から見ても、これはどう考えても偶然には思えません」
「……そうだろうね」
私はそう言うのが精いっぱいだった。実際の所、この段階であれば充分に反論もできたのだろうが、さっきの青原君の話を聞いた今となっては、そんな事をする気力も失せていた。ただ、それでも殺人の疑いをかけられている人間として、これだけは聞いておかなければならないと思った。
「だが、疑いだけで私を逮捕する事はできない。私が犯人だという証拠でもあるのかね?」
すると、それに対して青原君は悲しそうに首を振って答えた。
「こんな事を言うのはあれですけど、今回の事件は十年前の筧先生の事件なんかと比べると単純で簡単な事件に思えました。とても計画的な犯行には思えなくて、衝動的に殺害して無理やり取り繕ったみたいな感じに見えたんです」
その感覚は間違っていない。刑事に言われるまでもなく、最初から殺すつもりならこんな疑わしい状況を自分から作ったりしない。
「だから、証拠はこれでもかとそろっているんです。現場の路地には犯人のものと思しき足跡がたくさん残っていましたし、何より死亡推定時刻前後に怪しい人間が路地から出ていくのを目撃した人もいます。また、近くのコンビニの防犯カメラに逃走する犯人と思しき人の姿も映っていました。あなたが現場にいた事はすでにある程度まで証明されているんです」
「……だが、それで証明できるのは事件当時私が現場にいた事だけだ。私が『あくまで死体を発見した事に驚いて逃げただけで、殺害まではしていない』と反論したらどうするね?」
私が試すように聞くと、青原君は再び首を振った。
「さっきも言った通り、木場田の死因は頭から血を流した事によるもので、司法解剖の結果、頭部を鈍器で殴られた事による撲殺だと判明しています。現場近くを捜索した結果、近隣を流れている川の中から現場の裏路地にも多数置いてあったコンクリートブロックが見つかり、ここから被害者の血痕が検出されています。傷口とも一致していますので、これが凶器です。そして、凶器発見現場周辺をくまなく探した結果、事件当夜近くに停車していたタクシーのドライブレコーダーに川に何かを捨てている人影が映っている事がわかったんです。今、鑑識が映像を解析していますが、もし凶器を捨てているところが映っていたとすれば、もうこれは決定的な証拠になると思います」
「……そうかね」
その答えを聞いて、私は何もかもが終わってしまった事を悟っていた。チラリと待合室の窓から外を見ると、すっかり雨が止んだ中を、私が乗ろうとした電車がゆっくりと発車していくのが目に入る。そして、誰もいなくなったホームを青原君が呼んだ県警の刑事と思しき男たちがこの待合室へやってくる光景も、私の目に飛び込んできていた。
もはや逃げる事はできない。私はそっと待合室のドアから手を放すと、青原君に向き直り、荷物を床に下ろした上で両手を彼の前に出した。
「もう反論はしない。手間をかけるね」
「いえ。これが僕の仕事です。この仕事を選んだ時から、こういう事が起こるかもしれない事は覚悟していました。それでも……残念です。巡り巡って、僕があなたを逮捕する事になるなんて」
「……気にする事はない。私に因果が巡って来ただけの話だ。ただ、最後に一つ聞いておきたい」
「何ですか?」
「君が私のファンだという話は、私に近づくための口実だったのかね?」
その問いに、青原君はゆっくりと首を振りました。
「いいえ。ファンだったというのは本当です。その点について嘘をついたつもりはありません」
「……そうか。なら、もう私から聞く事はない。頼む」
直後、刑事たちが待合室のドアを開けて入って来た。私の手に青原君の手で手錠がかけられたのは、それとほぼ同時の出来事だった。
……これで、私の話はおしまいである。逮捕された後、私は有罪判決を受けて刑務所で服役する事になったが、先日刑務作業中に倒れ、そのまま医療刑務所に収容された。医者の話では、余命あとわずかという事らしい。さすがに最初はショックだったが、これも今まで散々好き勝手やって来た私の人生に対する報いだと思っている。今、この文章は医療刑務所の病室で書いているものだ。
とはいえ、腐っても私も作家である。とにかく死ぬにあたって作家として最後に何か書き残しておきたいと思った。そして、書き残すべきは私の人生を大きく狂わせたこの事件についての記録であるべきだと考えた。おそらくそれが世間の人々が一番知りたい事であると思うし、私としても人生の大部分を占めるこの事件について何も残さず逝くのは到底認められないものだった。
ただし、私があの木場田を殺害した具体的な動機や手段については、すでに裁判上で何度も述べた話である上に話の本筋とはあまり関係ないので、この場で簡単に書くにとどめる。青原君の言った通り木場田は筧紗季さんとの浮気の件をネタに十年間私を脅し続けていたのだが、あの頃奴はとある密輸グループの取材に失敗して命を狙われる事態に陥っていた。そのため、身を隠すための逃亡資金が必要になり、それを得るために長野に取材旅行中の私に接触したのだが、この時奴が要求した金銭は私の許容を超える額だった上に、ここで奴が死ねばその密輸グループに罪を着せる事ができるのではないかという浅はかな考えが浮かんでしまい、密会の場でほとんど衝動的に奴を殺害するに至ったのである。もちろん、そんなうまい話はなく、こうしてあっさりと捕まってしまったわけなのだが。
いずれにせよ、何十年にもわたるいくつもの殺人が複雑に入り組んだこの事件も、私の死ですべて終わる事になる。願わくば、二度と私のような愚かな人間が現れない事を地獄の淵から祈る次第であり、そのためにこの一連の記録が役に立つというのであれば、私の数少ない償いになるというものである。
三木沢利泰 記(絶筆)




