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希望の光・3

「スルギの書いた物は余りにも描写が真に迫りすぎているので、皆、強烈な印象を抱く。あの『高南君逸話集』の特に第一話は、宮中の事情に通じている物なら登場しているのは全て実在の人間かと疑うだろう。特に名を伏せた『と或る大監』は具体的な人物を思い浮かべた人間も多いと思うぞ。事実……」


 沈家の連中が焦って居るようだ。中殿の父・沈守己シム・スギは『と或る大監』その人だと思うものが多いために、非常にいらだってこんな風に言っているらしい。


「名を隠し、我らをこのような姑息な手段で攻撃するとはけしからん。草の根掻き分けてもそいつの首をはね、さらしてやらねば気が済まん」


 印刷用の紙や版木の入手経路をあれこれうるさく調べたようで、この市場の中に該当者が居ると捕盗庁の連中は見当をつけたらしく、夏になってから市場一帯の取り締まりが厳しくなったと言うのだ。


「そなたがしばらく、本を出さずにいてくれたら、半年もすれば連中も別の事に気を取られて忘れるだろう。私も新作を読みたいのは山々だが、我慢する。つまらぬ事で命を落としては大変だ。どうかくれぐれも用心してくれ」

「はい……あのう……梅里様、こうしてお話をさせていただくようになって、かなりたちますが……私は未だにあなた様がどこのどなた様か、教えていただいては居りません。おっしゃりにくい御事情がおありなのだと、わかっておりますけれど、でも、それが酷く寂しく感じられる事も有りますの」


 確かに、随分な話だ。だが、それを告げる事によって互いが『友』で有り続けるのが難しくなるのも事実だ。そうであっても、スルギが真実を知りたいと望むなら、告げるべきなのかもしれない。


「……スルギ……ならば……」

「いえ、宜しいんです。それを伺ってはならないと、私も判っております。伺えば、二人の関係が崩れ去ってしまうかもしれないから……だから、本当の御名前と御身分を伏せておいでなのだと……さようでございましょ?」

「だが……」

「本当に……私にそれを告げるべきだとお感じになった時には……教えて頂けるでしょうから。もしかしたら、それは、私達がお別れしなければならない時かもしれませんが」

「ああ……そうだな。だが、私の気持ちと言葉に嘘は無い。言えない事は色々有るが、それでもスルギに言う事の出来た言葉には、少なくとも嘘は無い」

「以前、私、自分で申しましたよね。見え透いていなければ、嘘をつくのも『方便』だなんて。でも、嘘をつかすに居て下さって、ありがとう御座います」


 気がつくと、小さな机越しに互いに手を握り合っていた。だが、それ以上近づき過ぎてはいけない……互いにそう考えて、やっとその距離を保っている。そんな緊張感があった。一体どれほどの時間、互いに無言で手を握り合ったまま部屋の中で座っていたものか判らない。


「お供の方が、お困りになりましょう」


 私には何も聞こえなかったが、ひどく耳の良いスルギには何かそんな気配が感じられたらしい。時刻は深夜を回っていたようだった。


「私も、そろそろ、戻る事に致します」

「では、送っていこう」

「もう、おそう御座います。それに、私は自分の身一つぐらいは、守れますから」

「たとえそなたが、武芸に秀でていても、若い娘だ。せめて、送るぐらいのことはさせてくれ」

「ありがとうございます」


 その夜はあの手の感触を、幾度も思い返していた。可愛そうに、すこし荒れていたのだ。いや、可愛そうなどと言っては、いけないのかもしれない。スルギはあの小さな手で沢山の料理をつくり、掃除をし、洗濯をし、針を取って美しい物をつくり、筆を取って見事な文章を書くのだから。あれは、働き者の手だ。自分自身の力で、立派に生きて行くことの出来る女の手だ。


 その翌日からも、私は隠田の調査報告を読み、さらには沈家の行っているらしい国有地の横領について調査を進めさせていた。沈中殿は出産したが、私の予想通り生まれたのは娘だ。五体満足で元気そうであった。可能であるなら、あの母親の性格を、娘には受け継いでもらいたくない。私が娘の誕生を本心で喜んで居るのを見て、中殿の表情は複雑であった。


大君テグンならば大変でした」


隠田の調査に携わる若い官僚たちは皆一様に安堵していた。

 大君とは王の正室である中殿の生んだ王子、ないしは東宮時代の正妃が生んだ男子を指す。側室腹なら男子は君と呼ばれる。我が国はこうした嫡出・庶出の区別にいちいちうるさい。


「まだ、我々には機会が残されているという事ですな」

「ですが、中殿様の二番目のお子様がお出来になるまでの限定的なものでしょうが」

「いや、恐らくその心配は無用だ」


 力の配分を考えて、全ての側室に娘を二人づつ生ませたが、中殿は正室としての地位が保証されているのだ。子供は一人で十分だろう。ただでさえ実家の勢力が大きすぎるのだから。


 右議政の沈守己が大いにいらだった事は想像に難くない。絶対中殿が男子を産むと断言した占い師は、百叩きの上、都を追放されたらしい。鬱屈する感情を弱い立場の者にぶつける。どうもそういう連中が宮中には多すぎる。スルギに何か困った事が起きなければ良いが……そう案じて見上げた空は、どんよりと曇っていた。


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